こじらせ羽玖くん、こちらです


「羽玖、お風呂入っちゃってー!」

――とは、帰宅後ソファで五体投地をかましていた羽玖への、……母からの叫びである。

「…………」
「羽玖あんた寝てんのー?」
「……いきてる……」

もご……とソファの座面からくぐもった声が返ってきて、母親がやれやれと首をすくめた。

「先輩とご飯行く」と言って出かけていって、日が暮れる前には無言で帰ってきて、そのままソファに埋まり、はや一時間。
てっきり例の"マコトサン"と出かけたのかと思っていたが、それにしてはテンションが低い。
さては別の先輩で、何か疲れて帰ってきたのかしら、なんて母が羽玖のつむじを見やる。

「どしたの、やなことあった?」
「誠斗さんが僕のドリア食った……」
「うん……んん?」

もぞ……とソファの座面からのっそりと羽玖が起き上がってきて、四つん這いのまま顔だけを母親へ向ける。
すべての感情がオーバーフローしたかのような、"無"であった。

「やっぱチーズ好きなんだ……ってか僕誠斗さんに「喋りたかった」って言っちゃった……」
「へぇ……?よかっ……たわね……?」
「かわいくねーやつって言われた……」
「あらよかったわねぇ~……?」

うん……!と再び、羽玖がソファに埋まる。額面通りならなにもよろしくなどない。だが妙に、「うぜぇ、うるせぇ、めんどくせぇ」よりも内側に入ったような気がした。

あらやだせっかく起きたのに、と急かされ、せっつかれ、風呂へいく。
服を脱ぎ、湯を被り、頭と身体を洗って、湯船はちょっと暑いので今日はシャワーだけ。
頭はボケッとしているが、身体は日常の動作を難なくやってのける。人間ってすごい。

そのボケッとしたまま冷蔵庫から麦茶を飲み、適当に母に挨拶をして二階の自室へ。

「ニヤニヤして階段転ばないでねー!」

という声を背中に浴びて、あーだかんーだか返事をしながら階段の中ほどで躓く。母は予言者である。

部屋へ戻り電気をつければ、ベッドではサメの抱き枕が仰向けになって寝台を謳歌していた。その傍らに羽玖も転がり、サメに添い寝する。

「……すげぇ日だったよサメちゃん……」

――そうですか、なんて声など帰ってこない。なぜなら綿の詰め物であるので。

帰り道から合わせて何度今日を反芻したか覚えていない。
待ち合わせをしてジョイプルに連れてってくれて、一緒に飯食ってどうでもいい話をした。

(……結局奢ってくれたし……)

……そう、結局奢ってもらったし。
レジ前での激しい攻防、とかじゃない。
テーブルの上にあったQRコードで支払いができたらしく、いつの間にかそれが済まされていた。
だからと言ってレジ前で騒ぐのはスマートではないと思い、店を出てから誠斗の背中に"話が違うじゃないか"のひょろひょろの拳を一発入れたのち、「ごちそうさまでした」と頭を下げた。

(……、……舌打ちされなかったな……)

「…………」

…………。

……まぁ……どついたのに舌打ちがなかったのは、多分蚊が止まった判定だったのだろうけれども……、と、羽玖がそばにあったスマホを手に取り、画面を点ける。
メッセージアプリから誠斗のトーク履歴を開く動きは、ほんのちょっと慣れた。文字を打つ速さも、やっぱりほんのちょっと慣れた。

『今日ごちそうさまでした』『マックと合わせて利息いくらですか?』

「っ、……ふふん」

こ、こここんなふざけたメッセだって送れちゃうもんね、と……送信ボタンをタップ……する……。

送っちゃった……全然わけわからんメッセ送っちゃった僕……。

だが、わりとすぐに既読がついて、羽玖は慌ててスマホを消した。

(はっや……)
(既読はっや……!)

今すぐ取り消したい。でももう取り消せない。一度既読マークがついたメッセはこっちで削除しても相手側に残る地獄のシステムだ。

「ひぃ……」

そういえば、瑛汰にも由之にも騒ぎを送ってないな、と気づいたのは、その時だった。
瑛汰はともかく、勉強会のお誘いでメッセをくれた由之にも、『行きます!』だけを返信してそのままだった。……まぁ、正直もうそれどころではなかったのだが。

ムムン、とスマホが震えて、……恐る恐る、通知のポップアップを見る。
送り主は当然誠斗で、本文はなく、―スタンプを送りました―……と、ある。

「すた、……スタンプだとぅ……?」

ニヤける羽玖の頬が収まらない。スタンプの内容どうこうじゃない。あの不機嫌面でスタンプを送ってよこしたのかという笑みだ。

なんだ。うんちくんか。デフォルトのやつか。想像つかねぇ。
そうっとトーク画面を開いてみれば、誠斗から送られてきていたのは、アタッシュケースから札束が溢れかえったような雑イラストのスタンプであった。

「ッ……ぼっ、僕の推しの利息たけぇ……!!」

羽玖、サメに埋まる。
まだ既読無視された方が延命できた。ファンサがえぐい。ただし、無自覚ド塩であった。





翌週の金曜は、午前から瑛汰の家で勉強会の約束だった。
とはいえ、羽玖もこれでも優等生。夏休みの課題はほぼ終わりかけている。今日は夏休み明けの期末テストに向けた勉強を、といったところだった。

(なんてったって主席とそのアテンドいるしね……)

むふん、と乗り換えの駅で、リュックを前に抱えた羽玖が、ちょっと自慢気な顔をする。

僕は今から長期休暇明け対策の勉強をするんです。
そこにはうちの高校の上位勢がいるんです。
こりゃあ学力アップ待ったなしかもしれませんねぇ~~……の、鼻穴である。

羽玖がL&A所属のギリギリラインである二十位だったということは、由之も当然上の順位。
右を見ても優秀、左を見ても優秀、そして自分を見ても優秀の布陣が完成してしまうというわけだ。これは向かうところ敵なしだな……。

滑り込んできた電車の風が、汗ばんだ肌に生ぬるく当たる。電車の窓から見えた車内はやけに混んでいて、っああ、そういえば近くのショッピングモールのなんちゃらフライデーだった……!と羽玖が顔をしかめた。

今日もただでさえ最高気温がなんだかんだと言っていたのに、いくら空調の効いた車内でもこの密度は……。……はぁ、と小さく息をついて、羽玖もその電車に乗り込んだ。

座るところなど当然ない。流れに乗れば、対面のドア付近まで押し込まれる。
たまたまドア横のポールに掴まることができたからよかったものの、こりゃ難儀だぞ、と羽玖が手を握りしめた。

ショッピングモールは、瑛汰の家の最寄り駅からもう一つ先だ。瑛汰の駅までは、十五分ほどで行けたはず。……うん、いける、我慢できるとリュックを抱え直す。

ととん、たたん、と電車が走る。制汗スプレーの匂いや香水の匂い、なんかミントっぽい匂いやおじさんの匂いなんかが混ざり、車内はスメルがハザードしている。

(ただのなんとかフライデーでこれでしょ……?)

羽玖のこめかみに、じわ、と汗が浮いてくる。空調は人口密度に負けたのだ。

(夏祭りん時とかほんと地獄じゃん……)

考えただけで具合が悪くなりそうだ。
そりゃあ、羽玖が通学に使っている路線も、朝は混む。通勤の会社員やOL、大学生も中高生も、山盛り乗る。
でもここまで密度は高くない。朝ピークはほにゃららフライデーに負けたのだ。


『次は 南 お出口は 右側です』

女声の機械質なアナウンスと、つづけざまに何を言ってんだかわかんないアナウンスが車内に響いて、羽玖のすぐそばの扉が滑るように開いた。
おっと、と押し流されないように、銀のポールに掴まる。

降りていく人の波はまぁまぁ。いいぞいいぞどんどん降りてくれ、と思う。
だが乗ってくる人波も同じくらい。いいやもうその辺で結構です勘弁してくれ、と思った。

ドア付近にいたものだから、乗り込んできたサラリーマンにむぎゅ、と押しつぶされる。

(くっそ……僕があとニ十センチ身長が高ければ……!!)

儚い願望に、羽玖の眉間に皺が寄った。
自分とて現実が見えている優秀な男。わがままは言わない。
そう、せめてこの辺りからでも余裕で吊革に手が届くくらいの身長が欲しかった。
じゃあやっぱり三十センチくらいかな?ついでに長い手足も。むきむきの筋肉も。

そんな妄想の中、すえたような匂いがして、目の前のサラリーマンからだとわかった。煙草とコーヒーと汗と加齢臭が混じったような。

(…………地獄だ……)

これは……また瑛汰たちに話すネタが増えてしまったな、と……羽玖はぎゅ、と目を閉じていた。



そうしてそんな満員電車の中――、

――誠斗もまた、眉間に深く皺を刻んでいた。


舌打ちは出ない。悪態もつかない。電車が駅に来た瞬間にはもう潔く覚悟した。隣の駅まではたったの五分、少し我慢すりゃいいんだと。

ホームから電車を眺めていて、電車が停止するまでのスローな進行の最中、一両半ほど向こうに通り過ぎていった窓の向こうによく知ったドベ。

(…………)

いや今なんか通り過ぎてったな……と思うと同時に、誠斗の足はそちらの乗降口へと向かっていた。
開いたドアからどやどやと降りてくる人波を分け、次々に乗りこんで行く人波に乗る。すぐ背中側でドアが閉まり、どこかの車両で駆け込みでもあったのか、注意を促す車内アナウンスが流れていた。

きょろ、と視線を巡らせれば、ドア横のポール付近へ押しやられたサラリーマンの影に、――ぎゅ、と目をつぶった羽玖がいた。

――なんだ、顔が青い。汗が。
――なんか、しんどいのか。

そう思った瞬間には、隙間を縫うようにしてそちらへ手を伸ばしていた。



「……おい」
「え、……えっ!?」

むんず、と覚えのある力加減で頭を掴まれ、羽玖はつい、弾けるような声をあげてしまっていた。
咄嗟に口を両手で押さえる。周囲に、――すみません、と小さく声をかけるのも忘れずに。

――ずり、と羽玖の肩に落ちた手のひらが、そのまま二の腕を掴んでぐいと引き寄せてくる。
満員電車の中で思いのほかその移動がスムーズにいったのは、……恐らく誠斗の強面のおかげ。
背中をトン、と扉に押し付けられ、……誠斗の両手で囲いが作られ……、……羽玖の周りに一定の……スペースが……。

「ッ――、ッッ!?」

いやこれもう壁ドンじゃ……!?と、羽玖が真上を見上げる。誠斗がいつもの不機嫌面で見下ろしてきていて、顔は速攻下げた。目の前に胸板。叫ばない自分を褒め倒したい。

「まっ、せっ、たか、高遠先輩何してんすか……!」

そして極小の叫びである。周囲に気遣える優等生。

「……、……」

からの何も答えない誠斗である。……え?と羽玖が、もう一度じわりと顔を上げた。
今にも舌打ちをかましそうな顔で、囲った羽玖の顔色を見つめ、……しばしののちに小さくため息を一つ。

「……なんだ、平気かよ」
「だっ、誰が……?僕が……?」
「だっておめぇあんな……」

――しんどそうにして、……は、誠斗の口から出てこない。羽玖が調子に乗るだけである。
だがその表情だけで何かを察したのか、羽玖もわずかに目を丸くさせたのち、口の横に手を当てて誠斗へ向かって小さく背伸びをした。

「や、だって色んな匂いしてめっちゃくさくないすか」
「っ……」

潜めた声は、周囲に聞こえては困る内容のもの。かすかに顎を引いた誠斗も、険しい表情をして顔の向きを逸らした。

「特にさっきのリーマン三大スメル混ざったみたいな匂いだったっすよ」
「――ッ……やめろボケ」

顔は逸らしたまま、くつ、と喉の奥で笑いを殺したような誠斗に、ぱあ、と羽玖の表情が晴れた。
今絶対笑った――!という、確信にも近い観測。
ともすれば、もはやこの満員電車もボーナスタイムのようなもの。なぜなら目の前に誠斗がいる。多分笑わせたし。若干守ってもらってるし。

(――ンッ、ぼくっ……まっ守ってもらってない……!?!?)

はあっ!と天啓を得たらしき驚愕の表情をする羽玖を、再び怪訝そうに誠斗が見下ろす。

……なんか知らんがころころ百面相してやがんな、なんていう顔だった。