駅から少し離れた路地に入ると、落ち着いた雰囲気の店が見えてきた。木の看板には「海鮮丼」と大きく書かれており、外観はこぢんまりしているのに今風で、洒落ていた。
「ここ。最近できたんだって」
未散が軽く顎で示す。
「……海鮮丼?」
「咲也、魚好きだろ。ここなら男でも入りやすいし、駅からちょっと離れてるから……まあ、俺も来やすい」
変装のキャップを指で軽く触れながら、未散は照れたように笑う。その仕草が妙に自然で、咲也は思わず目を奪われた。気取らずとも様になってしまうのだから、美形は憎い。
予約していたようで、入店はスムーズだった。案内されたのは半個室の席。扉を閉めると外の騒々しさが遠のき、二人だけの空間になる。咲也はメニューを開いた瞬間、思わず声を漏らした。
「うわ。全部うまそう」
海鮮丼の写真がずらりと並び、どれも新鮮で輝いて見える。赤みの美しいマグロに、白身に透明感のある鯛、黄金色が高級そうなウニ。目を輝かせてページをめくる咲也を、未散はどこか嬉しそうに見守っていた。
「決まった?」
「うん……これにする。サーモンとイクラのやつ」
「じゃあ俺は……これかな」
二人で注文を終えると、ふっと静けさが落ちた。楽しく選んでいた勢いが消え、他に話題が見つからない。昨日のことを思い出してしまいそうで、咲也は視線を落とした。
「今日、撮影だった」
未散がさらっと口を開く。顔を上げれば、メガネ越しに視線がかち合った。
「朝からだったけど、楽しかったよ。新しいブランドのやつでさ」
「へえ……そうなんだ」
咲也は相槌を打ちつつもふと、こうして未散本人から仕事の話を聞くのがあまりなかったことに思い当たる。これまで自分から聞いたこともなければ、相手から話されたこともなかったのだ。それはたぶん、聞いたとて、話したとて、という感覚がお互いにあったからだろう。咲也にしてみれば、この先の人生で踏み入れることのないモデルの世界を聞かされたところで、どう反応すればいいか分からないというのが本音だった。が、今は不思議と、そうは思わなくて。
「……今って、どういうのやってるの?」
尋ねると、未散の表情がぱっと明るくなった。
「あ、聞く? えっとね──」
ブランドの雰囲気、撮影のコンセプト、スタッフとの関係。ところどころは機密情報としつつ、未散は楽しげに話す。その表情は、学校で見かける未散とは少し違って、丸いというか、柔らかかった。
きっと充実した、良い時間を過ごしているのだろうと察する。咲也にモデルや芸能界のことはさっぱりだったが、その心地は胸を撫で下ろすかのようだった。
「咲也は今日、どうだった?」
「僕? ……特に何も」
逆に問い返されると、咲也はちょっとだけ困った。答えを口にしてから、気持ちがやや沈むのが分かる。
未散が華やかな世界で働く一方、自分はただ学校へ行って帰るだけだった。今だって、同じテーブルに着いているのに、座っている場所は遠さを感じる。でも、これは劣等感ではない。そこまでしんみりするほどの重さではなくて、ただほんの少しだけ胸がきゅっとなる──そんな感覚だった。
「そっか」
未散は星が瞬くみたいに微笑んだ。安心したようなその顔に首を傾げれば、「いやね」と頬杖をついて上目遣いを寄越す。
「俺の知らない咲也が増えるのは、嫌だなって思って」
故意なのか、それともうっかりなのか。一歩間違えれば、人に気を持たせかねないような言い回しに、しかし咲也は引っかからない。「未散の知らない、か」とそれとなく呟くと、意趣返しに「僕は未散のこと、もう全然知らないよ」と言ってのけた。
「……怒ってる?」
「まったく」
最近、似たようなやり取りをした憶えがある。けれどそのときとは違い、未散は引き下がらなかった。
「なんか嫌なことがあったんでしょ。唇切れてる」
分かったような口の利き方だったが、実際その通りだった。咲也はストレスを感じたり、気が滅入ったりすると唇を噛み、皮を剥いてしまうことがある。昔からの直らないくせは、幼馴染だからこそ知っているものだ。……でも、これは少し違う。
「ああ、これ?」
咲也は一度唇を舐めると、何でもないことのように言う。
「昨日の未散の傷が、移っただけだよ」
「……え?」
未散の目が大きくなる。
「移ったって……どういう──」
その瞬間、店員が扉をノックし、海鮮丼が運ばれてくる。目にも鮮やかな色のどんぶりがテーブルに並ぶと、咲也は思わずその顔をほころばせた。
「わ……すご」
血合いが鮮やかで、艶のあるサーモン。張りのある大粒なイクラ。さっきまでの話題が一瞬で吹き飛ぶくらい、目の前の海鮮丼は美味しそうだった。
「気にしなくていいよ」
箸を手に取りながら、咲也はさらっとあしらう。しかし未散が「気にするだろ!」と声を張れば、箸の先は丼の上で止まった。
咲也の視界に未散が映り込む。「本当に気にしなくていいのに」と思うが、その表情から、もはやそういう問題ではないことが見て取れた。未散は知りたいのだろう。以前も尋ねていたように、「キスでニキビを治せるのがどういうことなのか」を。ごまかされてくれるつもりはないらしい。もっとも、遅かれ早かれ、いつかはタネが割れると思っていたが。
「……あのキスは、『治す』ものじゃないんだ」
例えば、相手のニキビにキスをしたら、そのニキビは消失する。けれど代わりに自分の方、相手と同じ場所にニキビができる。いわば「転移」だ。
「あれは……相手の痛みをそのまま、自分に移せるんだよ」
──そのニキビ、僕が治してあげようか?
咲也は当初、未散にそう提案した。やり方については詳しく言及していない。「どうやって?」という問いには、「どうにかして」と答えていた。
どうにかしてでも──その痛みが自分に移ったとしても、未散の悩みが解決するならそれでかまわない。咲也はただ、純粋にそう思っていた。
「未散がモデルの仕事に専念できてたら、それでいいから」
何かを言いかけるように、未散が口を開く。しかし言葉を紡ぐことはなく、ただ咲也の顔をじっと見つめていた。
咲也は海鮮丼を一口食べる。
「うまっ」
頬を緩め、舌鼓を打つ。サーモンの脂が舌の上でとろけて、イクラが弾ける。その美味しさに、思わず嘆息が漏れるほどだった。
「……気に入った?」
未散の尋ねる声に、咲也は箸を進めながら何度も頷く。だって、本当に美味しかったから。すると未散もまた「そっか。なら、良かった」と頷き、自身のどんぶりに手を付けた。
もっと言いたいことがある──未散のそんな気持ちを、咲也は肌で感じ取る。が、あえて自分から触れることなく、もっぱら食事の時間を楽しんだ。
食事を終え、店を出ると、雨はすっかり止んでいた。
濡れた路面が街灯や家屋の明かりを反射していて、さっきまで二人の間にあった温度差が和らいだかのように思える。「晴れやか」というのはこういうことなのだろうか、と咲也は思った。
「……美味しかったね」
「うん。あの店、当たりだった」
咲也と未散は並んで歩きながら、海鮮丼の感想を言い合う。何気ない会話は山も谷もない穏やかなもので、路面を突く傘の先の音が足元でアクセントのように響いた。
駅が見えてくる。通りへ出る前に、咲也は立ち止まり、改めて未散に向き直った。
「ご馳走さま。本当にありがとう」
「いいよ。お礼だから」
未散がくしゃりと顔をほころばせる。その容貌の輪郭が、街の光に柔らかく照らされたとき、ふと未散の二の腕に目がいけば、半袖からのぞく肌に小さく腫れた場所が見えた。
「……未散。それ、虫にでも刺された?」
「虫?」
気づいていなかったのか、未散は肩を上げて腕を覗く。蚊に噛まれたのだろうか。そこはうっすら赤みを帯びて、膨らみが目立っていた。
「本当だ。いつの間にか刺されたっぽいね。まあ、もうすぐ夏だし」
口振りからして、未散はあまり気にしていない様子だ。ニキビや唇の傷とは違って目立たたないため、仕事にほとんど支障がないからだろう。それでも、咲也はひどく気になった。
あったところで問題はない。余計なお世話、いらぬ口出し──そう分かっていたのに、瞬きを忘れて凝視する。
「……大丈夫?」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「平気。あんまり見えないし」
「……そっか」
なら良いか、と咲也は納得しかける。けれどその手前、未散は咲也の手を取ると、そっと体をそばに引き寄せた。
「え、ちょ──」
咲也が戸惑った、次の瞬間。未散は腰を屈めて、咲也の腕の、ちょうど虫刺されと同じ位置に唇を近づける。それは軽く触れるようなものではなく、少しだけ強く吸いつくみたいなくちづけ。
ちゅ、という甘いリップ音が耳に響いた。
「……っ!」
咲也は思わず息を飲んだ。驚愕と羞恥、それと何か分からない熱っぽいものがないまぜになり、一気に押し寄せてくる。それは知らない感情だった。とにかく、ひどく熱かった。
腕を見ると、そこには薄く跡が残っている。キスマークというやつだ。それが未散の虫刺されと同じ場所に刻まれている。まるで、おそろいみたいに。
「み、未散……なんで……」
咲也の声が知らずと震える。それを聞いてか、未散は咲也の腕からそっと手を離した。変わらず視線は咲也に預けたまま。
「咲也が俺の痛みを引き受ける必要なんてない。そんなことは望んでない。そんなつもりじゃなかった」
未散は言う。静かで、それでいて芯の通った声で。
「今までだって、別にニキビを治してほしかったわけじゃない。あれは、ただの言い訳」
「言い訳……?」
「そう。咲也にキスしてもらうための」
ドキリと心臓が跳ねる。それと同時に、咲也の頭の中は訳の分からないことだらけでこんがらがった。
まず、キスしてもらうためというのは、どういうことだろう。自分にキスされることで、未散には何がもたらされるというのか。それがこの腕に残されたキスマークとどう関係するというのか。……考えれば考えるほど、よく分からない。しかしこうして面食らっている間にも、未散の瞳は咲也の中身を見通すかのようで。
「まだ分からない? それとも、分からないフリしてんの?」
「……!」
未散の言葉に、咲也はその肩を動揺させる。未散は続けて言った。「俺は……咲也とキスしたいから、した」、と。咲也の腕をぎゅっと握りしめ、離さないとばかりに目線で射止めながら言った。
「傷を治すためじゃなくて……咲也が好きだから。咲也に俺を刻みたいから、した」
未散は問う。「なんで咲也は俺とキスしたの?」、と。答えを分かっているはずなのに尋ねる。だから咲也は困惑した。ニキビを治す。傷を治す。痛みを取り除く──理由なんてそれしかありえない。なのに未散は何を言っているのか、何を知ろうとしているのか。
「本当に? それだけじゃないだろ」
「…………」
咲也は言葉を失った。目を背け、無かったことにしようとしていたものに言及された瞬間、自身の内側があっけなく崩れていくような感覚に見舞われたのだ。
昨日の唇の感触も、今日与えられた腕の跡も、全部が全部意味のあることのように熱を持ち、存在感を増す。
「……咲也」
未散は名前を呼んで一歩近づく。
「今まで嫌な思いさせてごめん。でも俺、まだ咲也のことが好きだ。もう一回……咲也とやり直したい」
雨上がりの空気が、やけに澄んでいた。咲也はいつものように逃げようとしたが、腕を掴まれているせいで叶わなかった。だからいやでもその言葉と向き合わされる。
「少しでいいから考えて。……お願い、咲也」
咲也の胸の奥で、何かが静かに揺れ動く。ここからいなくなりたい気持ちも、諦めようとした決意も、形や重みはないはずなのに。
頭という名の容積の中で、未散の声でできた自身の名前がずっと木霊していた。
「ここ。最近できたんだって」
未散が軽く顎で示す。
「……海鮮丼?」
「咲也、魚好きだろ。ここなら男でも入りやすいし、駅からちょっと離れてるから……まあ、俺も来やすい」
変装のキャップを指で軽く触れながら、未散は照れたように笑う。その仕草が妙に自然で、咲也は思わず目を奪われた。気取らずとも様になってしまうのだから、美形は憎い。
予約していたようで、入店はスムーズだった。案内されたのは半個室の席。扉を閉めると外の騒々しさが遠のき、二人だけの空間になる。咲也はメニューを開いた瞬間、思わず声を漏らした。
「うわ。全部うまそう」
海鮮丼の写真がずらりと並び、どれも新鮮で輝いて見える。赤みの美しいマグロに、白身に透明感のある鯛、黄金色が高級そうなウニ。目を輝かせてページをめくる咲也を、未散はどこか嬉しそうに見守っていた。
「決まった?」
「うん……これにする。サーモンとイクラのやつ」
「じゃあ俺は……これかな」
二人で注文を終えると、ふっと静けさが落ちた。楽しく選んでいた勢いが消え、他に話題が見つからない。昨日のことを思い出してしまいそうで、咲也は視線を落とした。
「今日、撮影だった」
未散がさらっと口を開く。顔を上げれば、メガネ越しに視線がかち合った。
「朝からだったけど、楽しかったよ。新しいブランドのやつでさ」
「へえ……そうなんだ」
咲也は相槌を打ちつつもふと、こうして未散本人から仕事の話を聞くのがあまりなかったことに思い当たる。これまで自分から聞いたこともなければ、相手から話されたこともなかったのだ。それはたぶん、聞いたとて、話したとて、という感覚がお互いにあったからだろう。咲也にしてみれば、この先の人生で踏み入れることのないモデルの世界を聞かされたところで、どう反応すればいいか分からないというのが本音だった。が、今は不思議と、そうは思わなくて。
「……今って、どういうのやってるの?」
尋ねると、未散の表情がぱっと明るくなった。
「あ、聞く? えっとね──」
ブランドの雰囲気、撮影のコンセプト、スタッフとの関係。ところどころは機密情報としつつ、未散は楽しげに話す。その表情は、学校で見かける未散とは少し違って、丸いというか、柔らかかった。
きっと充実した、良い時間を過ごしているのだろうと察する。咲也にモデルや芸能界のことはさっぱりだったが、その心地は胸を撫で下ろすかのようだった。
「咲也は今日、どうだった?」
「僕? ……特に何も」
逆に問い返されると、咲也はちょっとだけ困った。答えを口にしてから、気持ちがやや沈むのが分かる。
未散が華やかな世界で働く一方、自分はただ学校へ行って帰るだけだった。今だって、同じテーブルに着いているのに、座っている場所は遠さを感じる。でも、これは劣等感ではない。そこまでしんみりするほどの重さではなくて、ただほんの少しだけ胸がきゅっとなる──そんな感覚だった。
「そっか」
未散は星が瞬くみたいに微笑んだ。安心したようなその顔に首を傾げれば、「いやね」と頬杖をついて上目遣いを寄越す。
「俺の知らない咲也が増えるのは、嫌だなって思って」
故意なのか、それともうっかりなのか。一歩間違えれば、人に気を持たせかねないような言い回しに、しかし咲也は引っかからない。「未散の知らない、か」とそれとなく呟くと、意趣返しに「僕は未散のこと、もう全然知らないよ」と言ってのけた。
「……怒ってる?」
「まったく」
最近、似たようなやり取りをした憶えがある。けれどそのときとは違い、未散は引き下がらなかった。
「なんか嫌なことがあったんでしょ。唇切れてる」
分かったような口の利き方だったが、実際その通りだった。咲也はストレスを感じたり、気が滅入ったりすると唇を噛み、皮を剥いてしまうことがある。昔からの直らないくせは、幼馴染だからこそ知っているものだ。……でも、これは少し違う。
「ああ、これ?」
咲也は一度唇を舐めると、何でもないことのように言う。
「昨日の未散の傷が、移っただけだよ」
「……え?」
未散の目が大きくなる。
「移ったって……どういう──」
その瞬間、店員が扉をノックし、海鮮丼が運ばれてくる。目にも鮮やかな色のどんぶりがテーブルに並ぶと、咲也は思わずその顔をほころばせた。
「わ……すご」
血合いが鮮やかで、艶のあるサーモン。張りのある大粒なイクラ。さっきまでの話題が一瞬で吹き飛ぶくらい、目の前の海鮮丼は美味しそうだった。
「気にしなくていいよ」
箸を手に取りながら、咲也はさらっとあしらう。しかし未散が「気にするだろ!」と声を張れば、箸の先は丼の上で止まった。
咲也の視界に未散が映り込む。「本当に気にしなくていいのに」と思うが、その表情から、もはやそういう問題ではないことが見て取れた。未散は知りたいのだろう。以前も尋ねていたように、「キスでニキビを治せるのがどういうことなのか」を。ごまかされてくれるつもりはないらしい。もっとも、遅かれ早かれ、いつかはタネが割れると思っていたが。
「……あのキスは、『治す』ものじゃないんだ」
例えば、相手のニキビにキスをしたら、そのニキビは消失する。けれど代わりに自分の方、相手と同じ場所にニキビができる。いわば「転移」だ。
「あれは……相手の痛みをそのまま、自分に移せるんだよ」
──そのニキビ、僕が治してあげようか?
咲也は当初、未散にそう提案した。やり方については詳しく言及していない。「どうやって?」という問いには、「どうにかして」と答えていた。
どうにかしてでも──その痛みが自分に移ったとしても、未散の悩みが解決するならそれでかまわない。咲也はただ、純粋にそう思っていた。
「未散がモデルの仕事に専念できてたら、それでいいから」
何かを言いかけるように、未散が口を開く。しかし言葉を紡ぐことはなく、ただ咲也の顔をじっと見つめていた。
咲也は海鮮丼を一口食べる。
「うまっ」
頬を緩め、舌鼓を打つ。サーモンの脂が舌の上でとろけて、イクラが弾ける。その美味しさに、思わず嘆息が漏れるほどだった。
「……気に入った?」
未散の尋ねる声に、咲也は箸を進めながら何度も頷く。だって、本当に美味しかったから。すると未散もまた「そっか。なら、良かった」と頷き、自身のどんぶりに手を付けた。
もっと言いたいことがある──未散のそんな気持ちを、咲也は肌で感じ取る。が、あえて自分から触れることなく、もっぱら食事の時間を楽しんだ。
食事を終え、店を出ると、雨はすっかり止んでいた。
濡れた路面が街灯や家屋の明かりを反射していて、さっきまで二人の間にあった温度差が和らいだかのように思える。「晴れやか」というのはこういうことなのだろうか、と咲也は思った。
「……美味しかったね」
「うん。あの店、当たりだった」
咲也と未散は並んで歩きながら、海鮮丼の感想を言い合う。何気ない会話は山も谷もない穏やかなもので、路面を突く傘の先の音が足元でアクセントのように響いた。
駅が見えてくる。通りへ出る前に、咲也は立ち止まり、改めて未散に向き直った。
「ご馳走さま。本当にありがとう」
「いいよ。お礼だから」
未散がくしゃりと顔をほころばせる。その容貌の輪郭が、街の光に柔らかく照らされたとき、ふと未散の二の腕に目がいけば、半袖からのぞく肌に小さく腫れた場所が見えた。
「……未散。それ、虫にでも刺された?」
「虫?」
気づいていなかったのか、未散は肩を上げて腕を覗く。蚊に噛まれたのだろうか。そこはうっすら赤みを帯びて、膨らみが目立っていた。
「本当だ。いつの間にか刺されたっぽいね。まあ、もうすぐ夏だし」
口振りからして、未散はあまり気にしていない様子だ。ニキビや唇の傷とは違って目立たたないため、仕事にほとんど支障がないからだろう。それでも、咲也はひどく気になった。
あったところで問題はない。余計なお世話、いらぬ口出し──そう分かっていたのに、瞬きを忘れて凝視する。
「……大丈夫?」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「平気。あんまり見えないし」
「……そっか」
なら良いか、と咲也は納得しかける。けれどその手前、未散は咲也の手を取ると、そっと体をそばに引き寄せた。
「え、ちょ──」
咲也が戸惑った、次の瞬間。未散は腰を屈めて、咲也の腕の、ちょうど虫刺されと同じ位置に唇を近づける。それは軽く触れるようなものではなく、少しだけ強く吸いつくみたいなくちづけ。
ちゅ、という甘いリップ音が耳に響いた。
「……っ!」
咲也は思わず息を飲んだ。驚愕と羞恥、それと何か分からない熱っぽいものがないまぜになり、一気に押し寄せてくる。それは知らない感情だった。とにかく、ひどく熱かった。
腕を見ると、そこには薄く跡が残っている。キスマークというやつだ。それが未散の虫刺されと同じ場所に刻まれている。まるで、おそろいみたいに。
「み、未散……なんで……」
咲也の声が知らずと震える。それを聞いてか、未散は咲也の腕からそっと手を離した。変わらず視線は咲也に預けたまま。
「咲也が俺の痛みを引き受ける必要なんてない。そんなことは望んでない。そんなつもりじゃなかった」
未散は言う。静かで、それでいて芯の通った声で。
「今までだって、別にニキビを治してほしかったわけじゃない。あれは、ただの言い訳」
「言い訳……?」
「そう。咲也にキスしてもらうための」
ドキリと心臓が跳ねる。それと同時に、咲也の頭の中は訳の分からないことだらけでこんがらがった。
まず、キスしてもらうためというのは、どういうことだろう。自分にキスされることで、未散には何がもたらされるというのか。それがこの腕に残されたキスマークとどう関係するというのか。……考えれば考えるほど、よく分からない。しかしこうして面食らっている間にも、未散の瞳は咲也の中身を見通すかのようで。
「まだ分からない? それとも、分からないフリしてんの?」
「……!」
未散の言葉に、咲也はその肩を動揺させる。未散は続けて言った。「俺は……咲也とキスしたいから、した」、と。咲也の腕をぎゅっと握りしめ、離さないとばかりに目線で射止めながら言った。
「傷を治すためじゃなくて……咲也が好きだから。咲也に俺を刻みたいから、した」
未散は問う。「なんで咲也は俺とキスしたの?」、と。答えを分かっているはずなのに尋ねる。だから咲也は困惑した。ニキビを治す。傷を治す。痛みを取り除く──理由なんてそれしかありえない。なのに未散は何を言っているのか、何を知ろうとしているのか。
「本当に? それだけじゃないだろ」
「…………」
咲也は言葉を失った。目を背け、無かったことにしようとしていたものに言及された瞬間、自身の内側があっけなく崩れていくような感覚に見舞われたのだ。
昨日の唇の感触も、今日与えられた腕の跡も、全部が全部意味のあることのように熱を持ち、存在感を増す。
「……咲也」
未散は名前を呼んで一歩近づく。
「今まで嫌な思いさせてごめん。でも俺、まだ咲也のことが好きだ。もう一回……咲也とやり直したい」
雨上がりの空気が、やけに澄んでいた。咲也はいつものように逃げようとしたが、腕を掴まれているせいで叶わなかった。だからいやでもその言葉と向き合わされる。
「少しでいいから考えて。……お願い、咲也」
咲也の胸の奥で、何かが静かに揺れ動く。ここからいなくなりたい気持ちも、諦めようとした決意も、形や重みはないはずなのに。
頭という名の容積の中で、未散の声でできた自身の名前がずっと木霊していた。


