僕のキスはニキビを治せる

 翌日。未散は朝からモデルの仕事で学校を休んでいた。
 咲也は胸の奥でひそかに安堵した。昨日の今日ということもあり、顔を合わせずに済むならそれがもっとも望ましかったからだ。
 唇へのキス。そして「分かんなくなるだろ」という未散の言葉──思い返すだけで、咲也の心臓は落ち着かなくなってしまう。あの後また、いつかみたいに、逃げるようにして未散の前から立ち去ったのもそれが理由だ。未散を前にすると、どうも調子が狂ってたまらなかった。
 くちづけたときのあの柔らかい感触を思い出す。そっと唇を舐めると、鈍い痛みとともに鉄臭さを感じた。……どうやら事は安易に収まってくれないらしい。
 休み時間のことだった。机にノートを広げていると、紙面に突然影が差した。

「おい、百川」

 顔を上げると、咲也はやや肝を潰した。そこに立っていたのは奥村という、この教室の一軍の一人だったからだ。むろん、咲也と関わることはほとんどない。けれど未散とはよくつるんでいた。……つまり、そういうことだ。

「ど、どうしたの……?」
「千葉から伝言。放課後、駅前に来てほしいって」
「……駅前?」

 咲也は一瞬、呼吸を忘れる。未散から伝言という予想は当たっていたものの、その内容の方は予想外だったからだ。

「そう。なんか大事そうだったぞ」

 奥村はそれだけ言うと、興味なさそうに去っていく。他方、取り残された咲也の胸は、さっきまでの安堵が嘘みたいにざわつき始めた。
 いつもと違う、校外での待ち合わせ。それが動揺の根本ではない。つい昨日のことがあったうえで、いったい何の用があるのだろうと、考えたくないのに考えてしまうのだ。
 そうして迎えた、放課後。

「なあ、今日帰り──って、大丈夫か?」

 心配そうに覗き込んできた市ノ瀬に、咲也はなんとか頷く。作り笑いまで浮かべたが、はたしてどう見えたことやら。

「つーか、唇切れてるじゃん。痛そう」
「えっ。ああ、なんか……たぶんストレス? 皮剥いちゃったのかも」
「あー分かる。オレも指んとこやったりするし」
「ね。うん……」

 会話の中に不自然な間が生まれる。それは咲也が言葉を探していたからだ。相槌でも共感でも、無言が続いて気まずくならないように。でも、それは結局うまくいかなくて。

「……ごめん。ちょっと今日、用事あって」

「先帰るね」と告げると、市ノ瀬の表情がわずかに曇る。それでも咲也は、市ノ瀬の気遣いに応えている余裕がなかった。頭の中は未散のことでいっぱいだった。
 父宛のチャットに「今日夕飯いらない」と入力し、雨の中を急ぎ足で向かう。駅前に着くと、咲也は目的の人物をすぐに見つけた。人混みの中、変装しているのに隠しきれない雰囲気をまといながらスマートフォンをいじっている。キャップにマスク、メガネにシンプルな服装。なのに、どうしてか目を引く。人より一段と背が高いからだろうか。それとも自分が幼馴染で、付き合いが長いからだろうか。

「……未散」

 周囲を窺いつつ、咲也はそっと声をかける。未散はこちらに気づくと、すぐにスマートフォンをしまいながら軽く手を振ってくれた。

「来てくれてありがと」
「……急にどうしたの」
「いや、なんというか……これまでのお礼、的な」

 未散はそう言うと、眉をハの字に下げる。

「ニキビとか、傷とか……いろいろ治してくれたろ。だから今日、夕飯おごろうと思って」
「え? いいよ、そんなの。別に大したことじゃ──」
「今日だけ。お願い」

 その一言に、咲也は言葉が詰まらせる。同時に、このおごりがただのお礼ではないことを察した。
 昨日あんなことがあったばかりで、そのうえでのお誘いとくれば、意味深になってしまうのも当然か。けれど未散が緊張しているなりに、どこか嬉しそうにも見えれば、決して悪いようにはできなかった。
 なんだか、前にデートしたときみたいだ。……そんなことを思う。

「……分かった」

 断れなかった咲也と、この展開が分かっていたような未散。昨日よりも確実に距離が近い中、二人は並んで歩き出した。