僕のキスはニキビを治せる

 そんな出来事のおかげで、咲也は週末を悶々と過ごすことになった。
 市ノ瀬からの告白は青天の霹靂だった。しかもそれに対して、咲也からの返事は不要だという。付き合いたくないわけではなく、今はただ考えていてもらいたいだけなのだとか。

 ──オレのこと、意識してよ。

 そう言い残して、市ノ瀬は去っていった。あまりにあっさりとした別れだったものだから、先ほどの下りは夢だったのかと思ったくらいだ。けれど現実なことに変わりはなく、咲也は衝撃のあまりしばらく動けず、駅ナカでポツンと佇んでいた──というのが事の顛末。
 そして迎えた月曜は、雨もあって朝からひどく憂鬱だった。

(どんな顔して会えばいいんだよ……)

 内心で百面相を繰り広げなから昇降口をくぐる。傘を畳む生徒たちでいつもより混雑する中、女子生徒が口にするのは相変わらず未散の話題ばかり。「A組のマドンナが告白したらしい」とか、「でもやっぱり玉砕したみたい」とか。

「あの子レベルでもダメなの? 千葉君って、本当に高嶺の花!」

 そうじゃない、と咲也は心の中で突っ込む。マドンナがダメなのではなく、そもそも狙うタイミングを間違えているのだ。仕事に熱心な未散が、今の時期に恋人を作るはずがないのだから。

「でも千葉君の恋人になる子って、きっと爆美女なんだろうなぁ。女優、アイドル、モデルのどれかじゃないとダメ」
「顔だけ良くても無理なんだろうね。スタイルも良い子じゃないと隣に並べない」

 ああ、それはちょっと分かるかもしれない。咲也は履物を上履きに代えつつ、共感する。
 未散の隣にいる子は、未散と同じくらい綺麗な人が良いと思う。笑顔が素敵で、プロポーションも整っていて、未散という存在に負けない美しさがある──それくらいの人ではないと、見劣りしてしまうからだ。そして一度でも釣り合っていないと感じてしまうと、それは劣等感になって未散への気持ちに揺らぎが出てしまう。好きだったとしても、このまま好きでいいと思えなくなる。……全部、経験したことだ。
 口の中に苦い何かが広がる。不快感とともに階段を上がり、教室へとたどり着くと、咲也は席に着く直前で固まった。

「はよ。百川」
「……市ノ瀬」

 いつも通りの挨拶、いつも通りの相手。なのに体が勝手に身構えようとしたのに気づいて、慌てて平然を装う。いつも通りの「おはよう」を言ったつもりだったが、ぎこちなくはなっていなかったか。

(忘れてた。市ノ瀬のこと……)

 冷や汗をかく咲也とは裏腹に、市ノ瀬はとことん普段のままだ。むしろ普段通りすぎて、咲也のたどたどしさが目立ってしまっている始末。そんな状況に、市ノ瀬は得意げにニッと笑った。

「意識してくれてんだ」
「……っ!」

 そういうわけじゃ、と言いかけた矢先、たちどころに教室がわっと賑わう。見ればちょうど未散が登校してきたところだった。咲也が我知らず目配せすると、偶然にも未散と視線が重なり合う。

「……未散」

 小さく、その名前を舌で転がす。すると背後で「なあ、百川」と呼び止められて、咲也は振り返った。
 市ノ瀬の凛とした目が、こちらを見つめていた。

「金曜に言ってた勉強会、いつにする?」
「え? ああ……それは……」

 言われて思い出す。告白された衝撃でうっかり失念していたが、たしかにそんな話も上がっていた。でも、今の市ノ瀬と咲也の事情は、三日前の傘の下とは明らかに違う。「好きだ」と言われた相手と勉強会なんて、ヘンに緊張してしまう。……意識してしまう。

「ど、どうしよう……ね?」

 口がうまく回らない。咲也は市ノ瀬とろくに目を合わせられないまま、スクールバッグを肩から下ろし、すとんと席に着いた。頭の中はフル回転。どう答えるべきか、いっそ断わるべきか。自分から提案したのにキャンセルするのは心証が悪いか──ぐるぐる回る思考の渦に、咲也は否応なく巻き込まれる。……が、そのとき。

「咲也」

 自身の下の名前を呼ぶ声に、はっと面を上げる。すぐそこに見えたのは、この教室で咲也を下の名前で呼ぶ唯一の人物。「……未散」とその名前を口にすると、当の未散は端的に「今日、放課後いい?」と尋ねた。
 未散自ら誘ってくるなんて珍しい。驚くあまり、咲也は暗に示された内容に頷いてしまう。

「え? う、うん……分かった」
「うん。……それじゃあ、また」

 未散は市ノ瀬に一瞥を遣り、すぐに自身の席へと戻る。するとそこは瞬く間にクラスの中心になって、賑やかな声が溢れだした。咲也はじっと、その光景を見つめる。

「おー、怖……」

 ぼそっと吐き出された市ノ瀬の言葉に、胸の奥がヒヤッとする。「そうだった?」と疑問すれば、市ノ瀬は何てことないように笑ってみせた。

「オレ、牽制されちゃった」
「牽制……?」
「ちょっとお近づきしようとしたらすぐこれだ。油断なんねーな、ほんと」
「……?」

 はて、と首を傾げる。今のやり取りにそんなものはあっただろうか。第一、何を牽制したのか。
 何も分からず、疑問符を頭に浮かべていれば、市ノ瀬はやれやれとお手上げ状態だった。


 ◇ ◇ ◇


 その日の放課後。約束通りにいつものワークルームへと訪れた咲也は、未散の機嫌があまり良くないことに気づいた。
 扉を開けた瞬間、普段なら机の上に宿題を広げて待っているはずの未散は、何もしていなかった。視線をこちらに寄越し、ひとつため息を吐いては、ゆらりと席から立ち上がる。そうしてこちらへ歩いてくると、咲也の目の前で立ち止まった。

「み、未散……?」

 至近距離の美貌に、心臓がドキリと音を立てる。けれど依然として不機嫌──いや、拗ねた様子の未散は、口を固く結んでいた。
 何も言われないまま、見つめられるだけの時間が過ぎる。気が気でない咲也は、ごくりと息を飲んでは、肩にかけたスクールバッグのショルダーストラップをぎゅっと握りしめると、もう一度「……未散?」と名前を呼んだ。

「どうしたの? ……キス、しないの?」

 咲也の問いに、未散の肩がビクリと震える。するとそのとき、咲也は未散の顔にニキビがひとつもないことに気づいた。肌は傷どころかくすみすらなく、咲也のキスを必要としていない。では、なぜ未散は咲也を呼び出したのか。……どうして、そんな拗ねているのか。
 未散はどこか焦れったそうに、くしゃりと髪を掻いてみせた。

「ずっと聞きたかったんだけどさ……咲也と市ノ瀬って、どういう関係?」
「……え?」

 咲也はつい、調子っぱずれの変な声を出す。まさかここで市ノ瀬の名前が出るとは思わなかったからだ。未散がそれを聞いてどうしたいのかも分からない。

「普通に、ただの友達だよ。ただのクラスメイト」

 同じクラスで、席が前後になったからよく話すようになった──それだけの間柄だ。「それなりに仲の良い同級生」という表現が一番近いだろうか。しかしそう説明したところで、未散はどこか納得していないように見えて。

「市ノ瀬と、キスしたことある?」

 その質問を理解した瞬間、咲也の顔がカッと熱くなった。信じられないと、気持ちが昂ぶったからだ。
 説明した通り、市ノ瀬はただの友達だ。三日前に告白されたとはいえ、キスなんてするはずがないというのに、未散はいったい咲也を何だと思っているのか。「あるわけないだろ!」と言い返せば、未散の眉がピクリと動くのが分かった。

「でも、最近仲良くしてるよね。一緒に昼ご飯食べたり、一緒に帰ったり……勉強会も企画してるんだって?」
「……そ、それが?」
「俺はどれもしてない。なのに咲也は、俺とキスしてる」

 未散の声は低く、どこか苦しげだった。

「……どういうこと? 避けてる俺とはキスするのに、仲良いやつとはしないの?」

 返す言葉を見つけられずにいる咲也に、未散は「おかしいだろ」と言い、眉を顰める。端正な顔立ちがわずかに歪んだ。

「俺とキスできるなら、その()()()()()にもできるよね?」

 咲也の胸がぎゅっと締めつけられる。そんなこと、できるはずがない。市ノ瀬はただの友達で──でも、未散は違うからだ。……そう、()()

「……なら、証明してよ」

 未散はまじまじと咲也を見つめる。逃げ道を塞がんとする、真剣な眼差しだった。

「咲也の言う『市ノ瀬はただの友達』って、どこまで本当なの?」

 突き詰めるような言い回しに、咲也は息を飲む。そんなこと、今ここで証明できるわけがない。けれど未散は言う。「……咲也が言うこと、信じたいんだよ」、と。
 未散はおもむろに自分の唇へ歯を立てる。白く形の良いエナメル質が、肉厚な唇に食い込んだ次の瞬間、たらりと真っ赤な鮮血が溢れれば、咲也はその光景に目を見張った。……未散が自ら、自身の商売道具である顔に傷を付けたからだ。

「何してんの、未散!」

 咲也は血相を変え、その両肩を鷲掴みにする。投げやりな行動を咎めるも、その間にすら桃色の口元は血で汚れ、痛々しかった。早く止血しなければと焦る咲也。反して、暴挙に出た当の未散は、咲也の制服の裾をぎゅっと掴んでみせて。

「……キス、して」

 その頼みに、咲也はピタリと動きを止める。すると未散はさらに言葉を重ねた。「市ノ瀬と何もないなら、ただのクラスメイトなら、俺の唇にキスして」、と。

「あいつがただの友達だって、証明して」
「…………」

 一瞬、未散の瞳が揺らいで見えたのはなぜか。その声音は切実で、咲也には耳当たりが良く聞こえた。だってその言い方は、まるで未散が今も自分に気があるみたいだったからだ。華々しい芸能界で人気を博し、多くの人々に愛される未散を認められず、一方的に別れを告げた自分のことを求めてくれているように思えて、気分が上擦った。……そんな都合のいい現実があるわけもないのに。

「……わかった」

 咲也は頷き、その頬を優しく両手で包み込む。そうして貝殻よろしく目を瞑り、背を少しでも高くするかのようにつま先立ちすると、そっと未散の唇に自身の唇を押し当ててみせた。
 ふわりと柔らかい感触。それと鉄っぽい、苦い味。くちづけはロマンティックに程遠く、ほんの一秒にも満たなかっただろう。けれども咲也がかかとを床に着き、目を見開いた頃には、未散の口元はすっかり元通りになっていて。

「……咲也」

 自分の唇に触れて呆然とする未散に、咲也は「……証明したよ」と淡々と告げる。
 唇へのキス──それは市ノ瀬が一人の友達にすぎないことの証明。もしも咲也に特別な誰かがいるなら、こんなことは絶対にできないからだ。

「僕は、未散にしかキスしないよ」

 それは以前、未散に「これからキスは俺にしかしないで」と言われたからだ。自分の気持ちとは別に、未散の言葉に従っているに過ぎない。それに、咲也のこの力を知っているのは、未散ただ一人だけだった。治療のためとはいえ、誰彼かまわずキスするわけではないし、友達はもちろん、知らない人や嫌いな相手にそんなことをする気は当然ながらない。
 でも、その言い回しはあまりに端的すぎただろうか。

「……()()()?」

 未散は言葉の一部を切り取り、繰り返す。視線がこちらへと向けば、そこには驚きとも戸惑いともつかない色が混ざっていて、咲也は唾ごと息を飲んだ。

「……どういう意味、それ」

 未散の低い声が、どこか重たく震える。

「避けるくせに、そういうこと言わないでよ。……分かんなくなるじゃん」

 好きなのか、はたまた嫌いなのか。未散の真っ当な指摘に、咲也の胸は潰れたみたいに痛む。そんなつもりで言ったわけではなかったうえ、そのようなことを言う資格もなかったからだ。でも、意図していなかったとはいえ、今のはたしかに思わせぶりな言い方だったかもしれない。

(……本当に? 狙ってなかったか?)

「僕は未散にしかキスしない」──その言葉に嘘はない。咲也にとって未散は、友達やクラスメイトとは違う位置にいるからだ。幼馴染で、芸能人で、元恋人で……とにかく、他と同じ枠ではない。だからキスの秘密も打ち明けたし、唇へのキスもした。
 でもそれはつまり、自分はいまだに未散のことを──。

「…………」

 咲也は言葉を失う。言い訳なんてどこにも見つからなくて、代わりにそっと舌で唇をなぞる。
 何とも言えない血の味が、口の中にツンと広がるのがわかった。