僕のキスはニキビを治せる

「百川! 今日一緒に帰ろうぜ」

 翌日、週終わりの華の金曜日。土日を控えていることもあり、終礼後は一段と教室内が騒がしかった。そんな中、前の席の男はニマニマしながら咲也に声をかけてくる。……なんだか、やけにご機嫌そうに。

「今日、部活じゃないの?」
「それがなんと無くなりました! コーチが風邪なんだと! ヒュー、最高だぜ!」

 ランランルンルンと今にも鼻歌を歌い出しそうな市ノ瀬の傍ら、咲也はそういうことか、と合点する。市ノ瀬が所属しているバスケットボール部は、数ある運動部の中でも特に厳しいことで有名だったからだ。その過酷さは札付きで、週五の活動日はもちろん、なんと「自主退部が認められていない」というトンデモ具合。辞めようにも辞められないまま泣き言ばかり言っている市ノ瀬にとって、この休みは降って湧いた幸運のようだった。
 スクールバッグを肩に掛け、咲也は市ノ瀬とともに教室を出る。終礼直後に加え、梅雨どきの雨で人がごった返す昇降口を何とか潜り抜けると、二人は最寄りの駅へと足を向けた。

「それにしても、最近暑くなってきたな~」
「もうすぐ七月だからね。考査も近い」
「ウワ。お前、ヘンなこと思い出させんなよ」
「赤点あったら夏休み補習……」
「だからヤメロって!」

 雨粒が傘の布を叩きつける。昨日から弱まる気配のない雨のせいで、湿った空気が肌にまとわりつく中、取り留めもない話を駄弁る。
 高校生は忙しい。中学の頃もそれなりに大変だったが、高校に上がってからはより勉強が難しくなり、一段とバタバタするようになったと思う。卒業後は就職するつもりのため、大学受験組ほど大変ではないが、それでも試験科目が二桁あるのは多すぎると思うし、発展問題は解説を読んでもよく分からない。

「オレ、中間も赤点まみれだったんだよなぁ……。学年上がれねえかも」

 雨音に混じって、市ノ瀬の声が少しだけ掠れる。どうやら本気で落ち込んでいるらしい。市ノ瀬の歩く速度が少し落ちたことに気づくと、咲也は市ノ瀬の肩が濡れないように傘の角度をそっと調整した。
 狭い舗道を並んで歩く中、傘と傘がぶつかり合うたびに水滴が跳ねて、ゆっくりと滴り落ちていく。まるでなんだか、泣いているみたいだ。

「そういや、百川って成績いいよな。中間も上の方だったろ?」
「まあ、そこそこ?」
「そこそこって点数じゃなかったけどな。なんでそんなにできんの?」

 他愛ない問いだったと思う。けれど咲也は返事を少しだけ迷った。雨脚が強まったからではない。少しばかり思うことがあったからだ。
 水たまりを避けるように歩きながら、咲也は答える。

「……部活、入ってないから。人より時間があるんだよ」
「え、そうだったっけ。なんで入らなかったんだ?」

 入らなかったわけではない。細かいことを言えば、()()()()()()のだ。しかしこの際、それはあまり望ましい答えではなかった。おそらくその後に質問が続くからだ。「入れないってどういうこと?」みたいな。
 だから咲也は、この際包み隠さず言ってしまうことにした。恥ずかしいことではないし、それにたぶん、市ノ瀬もからかったりしないだろうから。

「うち、父子家庭でさ。卒業したらそのまま就職だから、今はできる勉強しとけって。だから好きに色々はできないんだ」
「……えっ」

 市ノ瀬の固い声が鼓膜を揺らす。はっとこちらを向いた視線が気まずげだったが、咲也は甘んじてそれを受け止めた。よく見る反応だったからだ。腫れ物に触るみたいな──いや、そんな露悪的に捉える必要はないか。市ノ瀬はただ、咲也を案じて慎重になっているにすぎなかった。
 しんみりとした空気が雨音に溶けていく。

「……そっか。なんか、悪い。軽く聞いちゃって」
「別に。よくある話だよ」
「いや、でも……あー、なんか何を言ってもちょっと違うな」

 どこか申し訳なさそうな顔を覗かせる市ノ瀬に、咲也はわずかに頬を緩める。そう言ってくれるだけでも十分だった。そもそも一人親の環境が悪いとか、不幸とか、そういうわけではなからだ。だから「ふーん、そうなんだ」程度に思ってくれたらいい。特にやってみたい部活があったわけでもないし。

「良いこともあったよ。バスケ部に捕まらずに済んだ」
「それは……おい、最高だな」
「現役バスケ部員が言っていいセリフ?」
「現役バスケ部だから言っていいんだろ」

 二人して見つめ合っては、揃ってプッと噴き出す。笑うたびに肩が揺れると、雨傘に打ちつけられる音は不規則に乱れ、半球の表面を滑り落ちていく粒はぱたぱたと足元を濡らした。
 咲也は「ねえ、」と市ノ瀬に呼びかける。

「……よかったら、勉強会しようか。考査前だし」

 ちょっとした提案だった。力になれれば、と思っただけの何気ない誘い。けれど市ノ瀬は驚いたように目を丸くすると、次の瞬間、照れくさそうに笑った。

「本当に? いいの?」
「だって、このままだと進級も危ういんでしょ。対策しないと」
「助かる。マジで頼むわ」

 雨の中、まばらだったお互いの歩幅が自然と揃う。先ほどから打って変わって、いつもの快活な市ノ瀬に戻れば、咲也もまた気持ちが落ち着いた。
 駅に着くと、二人は傘を閉じ、利用するそれぞれの路線に分かれる。改札を通る間際、市ノ瀬に「そういやさ、」と呼び止められると、咲也は首を傾げた。

「最近、千葉となんかあった?」
「……え?」

 急に出てきた未散の名前と、意図の読めない問いかけに答えを窮する。ひとまず「……うん」と頷くと、市ノ瀬は瞳をつっと細め、「()()あった?」とより具体的な質問を重ねた。

「何が、って……」

 さらに言葉が詰まる。まさかキスするようになったとは言えず、口ごもっていれば、市ノ瀬は「別に何もないんだったらいいんだけど」と肩を下ろした。

「ただ、前はそうでもなかったのに、千葉の友達がちょくちょくこっち来るようになったから。放課後にもなんかしてるらしいし」

 何か不都合なことに巻き込まれていないか、心配しているのだろうか。でも市ノ瀬は、咲也と未散が幼馴染だと知っているはずだった。いくらこれまでの関係が希薄だったとはいえ、関わりが増えること自体に不自然さはないはず。にもかかわらず、市ノ瀬の雰囲気にはどことない険のようなものが感じられて、咲也は戸惑わずにはいられなかった。

「ど、どうしたの? 未散とは、本当に何もないんだけど」

 こわごわ答えれば、市ノ瀬は「……そう」と小さく首を縦に振る。けれど納得はしていないようで、市ノ瀬がまとう空気には依然として固さがあり、それが咲也には引っかかった。

「……未散のこと、気になる?」

 咲也の問いは市ノ瀬から微笑を引き出す。「違う。千葉が気になってるんじゃない」、そっちじゃないと市ノ瀬は言う。

「オレが気にしてるのはお前の方」
「……僕?」
「うん。だってオレ──百川のこと、好きだから」

 耳を疑う。それと同時に周りの足音が遠ざかる。今、市ノ瀬はなんて言ったのか。咲也はすぐに頭の中で記憶を再生しては、今度は唖然とした。だって……僕のことが好き、って。
 どういうことかと尋ねる前に、市ノ瀬は言葉を重ねる。

「幼馴染兼モデルって、強すぎね? ライバルだと思いたくないんだけど」

 そのとき、咲也はようやく氷解する。市ノ瀬がなぜ未散とのことを聞いたのか、そして今の市ノ瀬の雰囲気に険を感じた理由を。
 ごくりと息を飲む咲也は、市ノ瀬の目にどう映ったことだろう。やっと気づいた? と言わんばかりのように見えたのは、思い過ごしではないように思われた。