僕のキスはニキビを治せる

 その日以来、咲也と未散はときどきキスする関係になった。
 頻度はそう多いわけではない。咲也が未散にキスをするのは、主に未散の顔にニキビができたとき。それも思春期真っ盛りとはいえ、肌手入れを欠かさない未散の場合は、一週間に一回あるか無いかという程度だった。
 キスをするのは放課後、三階のワークルームと決まっていた。一日のどこかで未散の友人から伝言され、終礼後に待ち合わせ。キスしてニキビを治し、それで終わりだった。

「……んっ」

 背伸びしていた踵を床に着け、息を吐く。咲也の視線の先、未散の頬からは綺麗さっぱりニキビが消えていた。

「ありがとう、咲也」
「……どういたしまして」

 ただのキス、しかも口と口とを合わせるようなものですらないというのに、これほど気恥ずかしいのはどうしてだろうか。いまだ慣れない咲也の一方、ニキビが治って欠点のなくなった未散はすっかり涼しい顔で、不公平感を覚えなくもなかった。
 なんだか自分ばかりが、こんな風に意識してしまっているみたいだったので。

「……咲也?」

 違和感があったのか、未散はそっと様子を窺う。「何でもない」と答えると、咲也はさっさと退室することにした。

「ねえ、咲也。今日一緒に帰らない?」

 鞄の肩紐を掛け直していれば、未散にそんなことを提案される。しかし咲也は首を横に振ると、「今日は図書室寄ってくから」と断わった。

「それじゃ、またね」
「……うん」

 さっと別れを告げ、教室から飛び出す。咲也はそのまま図書室へと向かうが、その足取りはどこか重たかった。訳は単純、元より図書室に寄る予定なんてなかったからだ。
 校舎の外ではしとしとと雨が降っていて、普段は運動部の活気が賑やかな校庭も雨音に沈んでいる。今日は一日を通して雨天の予報で、閉門ぎりぎりまで学校にいたところで雨を避けることは難しかった。
 図書室に用はない、雨宿りのつもりもない。それでは、なぜ咲也は未散に「図書室に寄るから」と言ったのか。それはひとえに、未散と下校したくなかったからだ。

(だって、何話せばいいか分からないし)

 この関係になったからと言って、未散と関わることが増えたわけではない。日中は相変わらず別々のグループで、話すことはもちろん、視線が交わることすらないときもある。そんな微妙な関係の相手と帰ったところで、きっと気まずいだけだった。

(それに……普通に、元カレだし)

 咲也にとって、未散は幼馴染である以上に、過去の恋人としての印象が強かった。これまでわざわざチャットをブロックしたり、積極的に接点を減らしたりしてまで遠ざけてきたのは、次に進むために気持ちを整理したいからであり、そんな相手と再び関わる理由は思い当たらなかった。
 一緒に帰ったら、きっといたたまれなくなる。きまりの悪さに自分も、未散も、不快な気持ちになってしまうくらいなら、こうして嘘の理由をでっち上げた方がまだマシだった。
 校舎を横断し、ワークルームの正反対に位置する図書室の前に着く。扉を開けると室内はがらんとしており、思っていたよりも利用者が少ないことが察せられた。……これは好都合。咲也はさっと宿題だけ終えていくことにした。


 ◇ ◇ ◇



「ただいま」

 自宅のアパートに帰宅すると、部屋には明かりが点いていた。狭い玄関に並ぶ革靴の隣に自身が履いていた靴と傘とを並べると、咲也は洗面所に向かうよりも先にキッチンへ顔を見せた。

「ただいま、父さん」
「おう。おかえり、咲也」

 ぐつぐつ煮立つ鍋の前には、おたまを握る咲也の父の姿があった。既に時刻は六時近く、ちょうど夕食の準備の真っ只中のようだ。

「手洗って、お母さんに挨拶してきちゃいなさい」

 父の指示に咲也は大人しく従う。制服のネクタイを緩めつつ、洗面所へと足を向けると、カランをきゅっと捻って水を出した。手をすすぎ、石鹸を泡立てながら鏡を見つめる。そこに映った冴えない顔には、未散の頬にあったものと同じ場所に、赤い点がひとつ増えていた。

「…………」

 ニキビなんて、高校生ならよくあることだ。未散のように深刻に捉える気持ちは咲也にはなく、増えていたところでどうということもなかった。けれどその意識のズレが、今は妙に大きく感じられてしまって。

(ニキビを治すためなら、未散は恋人でもないやつとのキスも受け入れるんだな……)

 ふとそんなことを思ったものの、腑に落ちないわけではなかった。未散にとって、きっとモデルという仕事はそれくらい大きな存在なのだろう。ニキビひとつで悩むのも、せっかちなくらい行動が早いのも、すべてそのせい。仕事のためなら、未散はキスだって躊躇しないのだ。
 手に付いた泡を洗い流す。水を切り、タオルで拭き取ると、咲也はそのまま寝室に向かった。部屋は真っ暗なうえ、壁が薄いのもあって外の雨音が篭もっているかのようだ。電気を点けると、ぱっと明るくなった中でただひとつ、部屋の一角にある仏壇が浮いて見えた。
 咲也はゆっくり足を進める。そうして仏壇の前に座ると、りんを鳴らして合掌した。

「ただいま、母さん」

 返事は返ってこない。けれど仏壇の写真立ての中で母が笑っているのを見れば、それで満足だった。
 咲也の家は父子家庭だ。母は咲也が小学生の頃に逝去し、その日から男手ひとつで育てられてきた。家に母がいない──咲也にとっては、それが普通だった。

「咲也ー、メシできたぞー」

 父に呼ばれて腰を上げる。部屋の電気を消し、リビングに戻ると、食卓にはチャウダー風のスープパスタが並んでいた。最近父は料理に凝っており、おしゃれな献立が増えてきたように思う。

「今日は咲也の好きなシーフードだぞ」

 楽しげに話す父とテーブルを囲い、手を合わせる。「いただきます」と声を揃え、さっそくパスタにフォークを伸ばすと、小麦色の麺に絡む濃厚な魚介の香りが鼻先をくすぐった。

「ん……美味しい」
「それは良かった。あ、野菜は残すなよ」
「善処します」
「ちゃんと食べなさい」
「げっ……はーい」

 咲也と父のやり取りはいつもこんな感じだった。一般的な年頃の男子高校生であれば、父親という家庭の一存に対してもう少し反抗的なものかもしれない。が、一人親という環境もあり、お互いに苦労させている意識とさせられている意識とが両立している関係において、無用な波風はほとんど立たなかった。

「そうだ、咲也。最近、未散君はどうなんだ?」
「……っ! げほっ、ごほっ」

 そんな何気ない会話の中、ふと咲也の耳にタイムリーな名前が飛び込んでくる。思わずむせてしまえば、顔色を変えた父が「だ、大丈夫か!?」とティッシュ箱を差し出してきたので、そこから一枚を引き抜き、口元を拭った。どう答えたものかな、と思案しつつ。

「……別に、普通。いつも通り……たぶん」

 いや、まったく普通ではない。いつも通りでもない、絶対に。……でも、親にこんなこと言えるだろうか。ニキビを治すためとはいえ、最近はたまにキスしています、なんて。

「今もモデルは続けているのか?」
「ああ、そっち……」
「うん? そっち?」
「あっ、いや……何でもない」

 危うく墓穴を掘りかけたところを何とか取り繕う。咲也の反応にキョトンとしつつ、気を取り直した父は「モデルなんてすごいよなぁ」と感嘆してみせた。

「父さん、モデルのことなんて何も知らないくせに」
「でも雑誌に載ったり、ファッションショーで歩いたりするんだろ?」
「未散、ちょっと前に『ビジュアル偏差値ランキング』っていう雑誌の投票で一位になったんだよ。それで表紙勝ち取って、イベントとか企画してもらって」
「へえ。本当にすごいな」

 息を飲むどころか、目を輝かせてまでいる父に白い目を向ける。すごさを本当に理解できているのか微妙なところだったが、本人がそう言っているのでそういうことにしておこうと思う。

「じゃあ、遠くの人になっちゃったな」
「……っ」

 不意のそのセリフに、体が一瞬硬直する。まるで内心を読まれたかのような感覚は、ゾクリと背筋を震わせ、それでいて後から諦念のようなものを引き連れてきた。

「小さい頃は、あんな仲良かったのに」

 父の言葉に、咲也は一拍置いてから頷く。まったくもってその通りだったからだ。
 昔の未散はもっと近い存在だった。隣で歩くこともできたし、近くで笑顔を覗くことも、手を繋ぐことだってできた。でも今はそうではない。

「あいつ、いま身長一九〇センチもあるんだよ。それにすっごく顔綺麗で、そこにいるだけでも様になって」

 未散はすごいのだ。父さんが思うよりずっと、ずっと──咲也はそう思う。そして思っているからこそ、父の現実的な言葉が胸に刺さったのだ。
 左手のスプーンでスープを掬いつつ、右手のフォークで絡め取ったパスタに口を付ける。普段スープの味の違いなんて気にしたこともなかったのに、今晩のは魚介に混じって野菜の青臭さがよく出ていると思った。