僕のキスはニキビを治せる

 教室からワークルームへ、今朝とまったく同じ道筋を辿る。用件を終えたらそのまま下校しようと思い、肩に提げてきたスクールバッグが少しだけ重く感じられたのは、きっと気のせいではなかった。
 部活動の喧噪を遠くで耳にしながら、入室前に一度息を整え、がらりと扉を開ける。中では未散が一人、窓際の席で静かにノートへ向かっていた。宿題をしていたのだろうか。咲也に気づくと、ガタりと席を立った。

「咲也」

 急によく聞くようになった、未散の声でできた自分の名前。それになんとも言えない感情を抱きつつ、「待たせた?」と尋ねると、未散は小さく笑ってみせた。

「ううん、全然。俺が早く来てただけ」
「未散、そんなせっかちだったっけ」
「どうだろう。仕事のくせかな」

 その口振りに含みを感じたのは、たぶん咲也の個人的な問題だろう。仕事が原因で未散が変わったことに、不思議と拒否感を覚えた。

「それで……わざわざ呼び出して、何の用?」

 咲也は扉の前に立ったまま、早急に話を進めようとする。未散の返答を受けてのつもりだったのだが、未散は「なんか……怒ってる?」と小首を傾げた。

「怒ってはないよ。……まあ、今朝ここで話したときは、未散の方から『もういい』って話を切り上げたのに、とは思ってるけど」

 併せて、二人のことに志島を巻き込んだことも指摘すれば、未散は咲也の機嫌が斜めになっている理由を察したようだった。
 未散が一歩を踏み出す。長い脚はその分歩幅も大きく、咲也との距離を一気に縮めた。たった数歩で、いつしか相手はすぐ目の前。咲也はそっと首を仰ぐ。

「伝言なんてしないで、直接言ってくれればいいのに」
「でも咲也、俺のチャットブロックしてるじゃん」
「チャットじゃなくて口で言えばいい。あと、ブロックは別れたんだから当然」
「っ、それは──」

 咲也の答えに、未散は反射的に何かを言いかける。が、その直前で口を噤むと、呼吸を整えるかのようにゆっくりと息を吐いた。
 作りの精緻な瞳が、こちらを見る。

「……ごめん。今さらこんなことが言いたかったんじゃなくてさ。俺が咲也を呼んだのは……昨日のことで、ありがとうって言いたくて」
「……え?」
「言い損ねてたから。ニキビ、本当に治ったのに。おかげでマネージャーに怒られずに済んだのに」
「あ、ああ……」

「なんだ、えらく真面目だね」とでも言えたら良かったのだが、生憎とうまい言葉が出てこない。それはこの状況を想定していなかったからだ。いくらニキビを治すためとはいえ、説明無しにキスしたことは責められて当然だと思っていた。……だから今朝、未散は「もういい」と言ったのだと思っていたから。
 咲也は睫を震わせ、視線を下げる。「い、嫌じゃなかったの?」という質問は、自分でもどのような意味で言っているのか分からなかった。答えが「嫌だった」でも角が立つし、「嫌じゃなかった」でも反応に困る。即座に「やっぱり何でもない!」と叫ぶと、躊躇いがちに未散の様子を窺った。

「……っ」

 ふと視界に捉えた未散の表情に、咲也は言葉を失う。なぜなら未散は、咲也のことだけをまっすぐ見つめていたからだ。決して逃さないとばかりに、その眼差しで射止めんとするかのようだったから。

「咲也」

 心做しか柔らかい声に、体がビクリと震える。

「改めて聞きたいんだけどさ。……キスでニキビを治せるって、どういうこと?」

 未散の問いに、咲也はミシリと固まる。そうして「あー……」と声を漏らしては、肩に提げていたスクールバッグのショルダーストラップへおもむろに手を掛けた。
 知らずと腕が体を守るような体勢になる。たぶん、緊張していたのだ。自分でも意味の分からないこの力を他人に明かすのは、これが初めてだったからだ。理解してもらえるか不安で、けれど今になってはぐらかすこともできなかったので。

「説明そのままだよ。僕のキスは、ニキビを治せるんだ」

 咲也の言葉に、未散はわずかに目を見開く。しかしそれに気づくことなく、咲也は話を続けた。

「厳密には、ニキビだけじゃなくて他の傷とかも治せる。痛みを取り除けるんだ」
「他の傷? 取り除く……?」
「うん。例えば……あっ」

 咲也は目に入ったものに声を上げる。視線に気づいたのか、未散から「これ?」と差し出されたのは左手だった。ケアの行き届いた彫刻みたいなその指先には、小さな切り傷がある。

「そういえば、今日プリントもらったときに切ったっけ……」
「ここ、キスしていい?」
「……え?」

 未散はあからさまに動揺をみせる。鼻梁がかすかに赤らんだその顔は、昨日見たのと同じもの。咲也にしてみれば真実を証明するための提案だったわけだが、少々突飛だったかもしれない。

「待って! あの……嫌なら、もちろんしないから」

 慌てて言葉を補足する。決して考え無しなわけではないのだと、これで伝わっただろうか。
 緊張のせいか、頭がちゃんと働いてくれない。話すこともままならず、自分でもどうすればいいか分からない中、その場しのぎで言葉を紡いでいるような感覚があった。

「でも、本当に治せるから。一瞬で」

 しどろもどろになりつつ、何とか言いたいことを絞り出す。信じてもらいたいのだと、鞄の持ち手を掴む手に力を込めれば、未散の「それなら……」という遠慮がちな声が耳に入った。咲也はぱちくりと目を瞬かせ、「……いいの?」と尋ねる。

「いや、別に。……咲也なら嫌じゃないし」

 思わせぶりな言い回しは、普段の咲也なら気にしていたに違いない。けれど今はそれどころではなくて、受け入れてくれたことにただ、ほっと胸を撫で下ろした。

「じゃあ……失礼シマス」

 不自然な片言になってしまったのもかまわず、咲也は未散の左手をそっと手に取る。そうして丁寧に口元へ寄せると、その目を伏せて静かに唇を近づけた。
 言葉通り、それは一瞬。呆気ないと言われてしまえばそれまでの、軽いキスを施された未散の手は、咲也が瞼を開けるとともに返される。すると指先にあった切り傷は──。

「……無くなってる」

 ボソリと呟いた未散の視線が、ゆっくりと咲也に戻る。当の咲也は場の雰囲気にまごついていたものの、傷が治ったことそれ自体には安堵していた。
 証明は果たされた──すなわち、「しなきゃよかった」と思っていた昨日のキスにも、合理性はあったということだから。

「なんで治せるの?」
「それは……実は、僕もよく分からない」

「なぜかできてしまえた」としか、咲也には言いようがない。しかしそれは本当のことだったので、仮に深掘りされたとしても答えられなかった。

「……気持ち悪い?」

 咲也はおそるおそる尋ねる。

「治すにしても、キスしなきゃいけないとか。やっぱちょっとキモ──」
「そんなことない!」

 わりと勢いよく遮られれば、咲也はびっくり仰天と目を白黒させる。が、いつになく真剣な未散の顔を前にすれば、ネガティブな言葉は自然と飲み込んでいた。

「そんなことない……。ただ、ちょっと驚いただけ。この十年間、ちっとも気づかなかったから」

 未散は傷の消えた指を何気なく撫でる。責めるような言い方ではなかったものの、未散の言うことはもっともだった。咲也は相手が幼馴染だろうと、恋人だろうと、このことを秘密にしていた。でも、それは仕方ない。

「未散、このことは内緒に──」
「分かってる」

 未散は咲也の頼みを快諾する。おおよそ、そのキスの存在が隠されていた理由に察しがついたからだろう。ニキビや小さな傷を治せる程度だったとしても、そんな魔法のような力があったら大事件になりかねない。未散はそれを分かっていた。そして……分かっていたからこそ、次の()()()()にした。

「その代わり、これからキスは俺にしかしないで」
「…………え?」

 思わず耳を疑うような未散の話に、咲也は気の抜けた声を漏らす。

(それって……)

 どういうことなのかと尋ねようとして、その手前で口を閉ざす。咲也を見下ろす未散の瞳が、いつもと違ってひどく甘いものだったからだ。まるで中学時代、付き合っていた時のように──……咲也が未散を突き放す前の、あの頃のように。

「ねえ、お願い。咲也」

 窓の向こうで六月の曇天がうごめく。灰色の雲は分厚くて、晴れるようには一向に見えなかった。