翌朝。顔を洗い終えた咲也は、鏡の前でひとつ、大きな息を吐いた。
おもむろに触れるのは自身の頬──昨日、未散にキスを落としたところ。肌の上を水滴が滑り落ち、顎先からぽつぽつと垂れていくのをよそに、咲也は考え事に耽っていた。
咲也と未散は幼馴染だった。小学校から現在の高校二年までずっと同じ学校、同じクラスという縁もあり、これまで一緒に過ごしてきた時間はそれなりに長かったように思う。……なお、思うというのは、最近はそうでないからだ。
きっかけは中学二年の秋、未散が芸能プロダクションに入所したこと。その頃から、ひと際優れた容姿と目を惹くプロポーションに恵まれていた未散は、クラスメイトの女子が勝手に応募したオーディションに見事合格。それから着々と下積みを重ね、今では雑誌で大見出しの特集記事が組まれるほどにまで成長し、咲也と交わる機会はほとんどなくなってしまったのだった。
(けど、これじゃあな……)
咲也も現状には納得していた。鏡の向こうを見れば、そこには野暮ったい印象の男が一人。自前の赤茶けた髪色に加え、年を重ねるにつれ目立つそばかすが垢抜けない。つまり未散とは正反対。
かたや華やかな芸能界に輝く期待の新星、かたや特徴のひとつすらない平々凡々なただの男子高校生。同じ教室の中でも、派手で目立つ一軍の中心と、その他大勢のモブの一人では、関わることすらないのが当然だった……はずなのだが。
そっと唇に触れる。いまだそこに残っているような感触をなぞっては、咲也は昨日のことを思い出した。……未散の頬に、キスをしたことを。
(何やってんだろ、僕)
発端となったのは、未散がニキビのことで悩んでいたことだろうか。それとも、未散から久しぶりに名前を呼ばれて、二人きりで話せたことだろうか。いずれにせよ、胸の奥がざわついた咲也は、咄嗟に「自分にしかできないことがある」と思って、未散に口づけたのだ。
咲也のキスは、ニキビを治すことができるからだ。
(いや、やっぱり意味分かんない)
百人いれば百人思うだろうその感想は、実のところ、咲也自身もその力を知ったときからずっと思っていたことだった。魔法や特殊能力というものは、例えば空を飛んだり、無から有を生み出したり、動物の言葉を理解したり、そういう感じだと思っていた。が、実際はこの有り様だ。使いどころはほとんどないうえ、おまけにパッとしない。
ふと、遠い昔に聞いた母の言葉がよみがえる。
──いい? これは咲也が、自分にしかできないって思ったときにするのよ。そのときが来たら、きっと分かるから。
この冴えない力が、ようやく役に立つときが来た。きっと未散のためになると、そう思ってキスしたはずだったが、今となっては「やっぱりしなきゃ良かった」と心残りになっていた。……ああ、つくづく意味が分からない。
(まあ……別に、嫌われてもいいか)
深く考えないようにして、咲也はタオルで顔を拭き、制服の襟を整える。
昨日のことは、ただの出来事。そう自分に言い聞かせながら、洗面所を出た。
◇ ◇ ◇
登校して早々、咲也は未散の名前を耳にしていた。
「千葉先輩、昨日の撮影のやつもうSNSに挙がってるって」
「やば。顔ちっさ! 美形すぎ顔面えぐ!」
「ガチ王子様よな。なのに身長一九〇は神」
「ビジュ偏差値八〇はある」
「『初恋担当』は伊達じゃない」
昇降口は、手元のスマートフォンを覗き込んで話し込む女子生徒たちでいっぱいだった。話題はもちろん、学園の王子様たる未散一色。聞こえてくる話だけで、咲也の心臓はどきどきと脈を打った。
「やっぱ時代は千葉未散なんだよね〜」
昨日の夕陽の中で見た未散の顔がふっと脳裏に浮かべば、咲也は足早にその場を去った。
階段を上り、廊下を抜け、自分のクラスへ。おそるおそる室内に足を踏み入れると、未散はいつもの席にいた。窓際で朝の柔らかな日差しを受ける姿は、日常の光景を映画のワンシーンへと一転させる。周囲には未散の友人たちが集まり、笑い声が絶えなかった。……と、そのとき。
「あっ……咲也」
ふとお互いの視線が交わると、未散は名前を口にして席を立つ。そうしてこちらへまっすぐ向かって来ては、問答無用で咲也の腕を奪うと、「こっち来て」と廊下を飛び出した。
「み、未散……!?」
「…………」
困惑する咲也だったが、未散は欠片も気にする素振りを見せない。代わりに迷いない足取りで向かうのは、ホームルームを出てすぐの階段を上り、少し歩いたところにある空き教室。「ワークルーム」という名前こそあるものの、普段ほとんど使われることないその部屋に辿り着くと、未散は有無を言う隙すら与えずに、咲也を中へと連れ込んだ。
未散の背後で扉がピシャりと閉まる。退路を塞がれた咲也の表情が歪めば、未散は「今度は逃がさないから」と不敵に笑ってみせた。……今度というのは、昨日のことを受けてだろうか。たしかに咲也は、あの後すぐ逃げるように未散の前から姿を消した。
──今……俺にキスした?
……その問いに、答えることもなく。
「なんで俺にキスしたの?」
未散の問いに、咲也はわずかに間を置いて答える。
「……そうすれば、ニキビを治せるから」
「っ、そうじゃなくて」
視線の先、未散の頬には、もはやニキビの跡形もない。モデルの仕事も問題なくこなせただろうが、それでも未散は咲也の回答に納得いかないようだった。「つか、『キスで治せる』ってどういうことだよ」と、その反応はある意味真っ当で、ゆえに咲也はそれ以降のすべての言い訳や反論を飲み込む。……ああ、やっぱりキスなんてするんじゃなかったと思いつつ。
「……ごめん」
代わりに謝罪を口にすれば、未散ははっとしてはむず痒そうに顔を顰める。「謝ってほしいんじゃない」と言うその表情は、どこか傷ついたみたいで、咲也はそれに既視感を覚えた。
以前にも見たことがあったのだ。それは今から二年ほど前のこと。……咲也が、未散に別れを切り出したときの顔だった。
「キスなんて、付き合ってた頃すらしたことなかったじゃないか」
未散の言葉が胸に刺さる。けれど咲也が言えたのは「ごめん」だけだった。
「……もういい。分かった」
それだけ言うと、未散は咲也から視線を外し、塞いでいた扉を開ける。そのまま何も言わずに出て行く未散の背中を、咲也はぼんやりと眺めていた。
(キスなんて、か……)
未散の言葉を心の中で繰り返しては、咲也はその眉根を寄せる。なんとも言えない気持ちのあり方に、胃のあたりが重く感じられた。
……ひとつ、あえて触れずにいたことがあった。それは自分たちが、ただの幼馴染ではないということ。
中学時代、咲也と未散は交際していた。といっても、年相応の、子どもじみたお付き合いだ。恋人らしいことといえば、せいぜい手を繋いだり、一緒に遊園地でデートしたりするくらい。キスなんて全然、その先なんて論外だ。けれど満たされていたし、未散もそれは同じだったと思う。そして、それでも別れることになったのは、二人の生きる世界がそれぞれ変わってしまったからに他ならなかった。
……未散がモデルとして活躍し始めるようになると、咲也の方から関係の解消を切り出したのだ。
そろそろとクラスに戻り、自分の席に腰を降ろす。今の座席は咲也が廊下側後方、未散が窓際前方のほぼ対照。咲也は少し離れたそこから、未散の様子を橫目で眺めた。
未散の周りは相変わらず賑やかで、どこかきらきらして見える。それに胸がチクリと痛んで、反射的にその視線をそらせば、目の前を影が覆った。
「はよ。百川」
「……市ノ瀬」
咲也の前の席に腰を下ろすのは、市ノ瀬優馬というクラスメイトだった。新学期から前後の席という縁で知り合った関係だが、咲也と比べてずっと明るく、ずっと自由な人間で、どこのグループにも属さない代わりに親しみやすさがある。だから自然と話が進んで、いつの間にか仲良くなっていた。
咲也が「おはよう」と挨拶を返せば、市ノ瀬は短く切り揃えた栗色の髪を揺らし、いたずらっぽくニンマリと笑ってみせる。「今日も大人気だな、千葉」という発言は、いったいどんな反応を期待しているのだろうか。
「女子から聞いたぜ。お前さっき、千葉に攫われたんだって?」
「攫われてはいないよ。ただちょっと話してただけ」
「どうだか。ちなみに女のコみんなキャーキャー言ってたぞ。『私も攫われたい~♡』って」
「ええ……」
弾みでげっそりという表情を見せれば、市ノ瀬はウハハと愉快痛快に腹を抱える。所詮は他人事だからと、笑っていられる余裕が羨ましかった。こちらは今、こんなにもいっぱいいっぱいだというのに。
「おっ。眉間にすげーシワ。なんか悩み事?」
「……別に」
「どうせ千葉のことだろ? 大変だな。有名人の幼馴染ってのも」
市ノ瀬の言葉に、咲也はしばらく間を置いて「……まあね」と呟く。
「相談されたんだよ。ニキビができたって」
「……ニキビ? ん? ニキビって、あのニキビ?」
「そう。なんか、撮影で邪魔になるらしくて。でも……普通はさ、悩むようなことじゃないだろ? ニキビなんて誰にでもできるものだし、ひとつくらいなら気にもならないし。けど、モデルのあいつにとっては、大ごとだったみたいで」
咲也はまるでこの惑星ではない、別の星のことのように語る。すると市ノ瀬はウーンと唸って、「たしかにアレだな……」と言葉を詰まらせた。
「話が別次元っつーか……意識が高い? っていうか」
「うん。それで、やっぱり違う世界の人間なんだな、って実感したら……ちょっと疲れちゃって」
この眉間のシワはそういうことだ、と説明すれば、市ノ瀬は納得が行ったとばかりに相槌を打つ。「おつかれ」と咲也を労うその声は、さっきよりも親身で、優しいものに聞こえた。
(そう……疲れるんだ、未散といると)
言語化してみると分かりやすい。咲也が未散と関わらないようにしていたのは、それが理由だった。
未散がそばにいると、周りがうるさかった。
未散と話していると、どうしても違和感があった。
未散に関わると、こうして悩んでばかりだった。……だから疲れる。だから、離れた。
幼馴染なのに、今こんなにも距離が遠いのは、未散がモデルとして忙しく、学校にいる時間も少ないからではない。ましてや別々の世界の人間になったからでもなく──咲也が未散を拒んでいるせいもあるのだ。
ふと、未散のいる方で歓声がわっと膨らむ。クラスの一軍集団のたまり場は、今日もキラキラで賑やかだ。
「昨日も撮影あったの? 最近ずっと忙しいね。大丈夫?」
囲いの一人が尋ねると、未散は軽く笑って「まあ、仕事だから」と受け流す。その言い方は落ち着いていて、どこか大人びているようにさえ感じられた。ああいうのが俗に「洗練されている」と言うのか。しかしそんな未散も、ニキビのひとつで悩むらしい。
(……治って、良かった)
咲也は未散から目をそらすと、おもむろに自身の頬に触れた。
おもむろに触れるのは自身の頬──昨日、未散にキスを落としたところ。肌の上を水滴が滑り落ち、顎先からぽつぽつと垂れていくのをよそに、咲也は考え事に耽っていた。
咲也と未散は幼馴染だった。小学校から現在の高校二年までずっと同じ学校、同じクラスという縁もあり、これまで一緒に過ごしてきた時間はそれなりに長かったように思う。……なお、思うというのは、最近はそうでないからだ。
きっかけは中学二年の秋、未散が芸能プロダクションに入所したこと。その頃から、ひと際優れた容姿と目を惹くプロポーションに恵まれていた未散は、クラスメイトの女子が勝手に応募したオーディションに見事合格。それから着々と下積みを重ね、今では雑誌で大見出しの特集記事が組まれるほどにまで成長し、咲也と交わる機会はほとんどなくなってしまったのだった。
(けど、これじゃあな……)
咲也も現状には納得していた。鏡の向こうを見れば、そこには野暮ったい印象の男が一人。自前の赤茶けた髪色に加え、年を重ねるにつれ目立つそばかすが垢抜けない。つまり未散とは正反対。
かたや華やかな芸能界に輝く期待の新星、かたや特徴のひとつすらない平々凡々なただの男子高校生。同じ教室の中でも、派手で目立つ一軍の中心と、その他大勢のモブの一人では、関わることすらないのが当然だった……はずなのだが。
そっと唇に触れる。いまだそこに残っているような感触をなぞっては、咲也は昨日のことを思い出した。……未散の頬に、キスをしたことを。
(何やってんだろ、僕)
発端となったのは、未散がニキビのことで悩んでいたことだろうか。それとも、未散から久しぶりに名前を呼ばれて、二人きりで話せたことだろうか。いずれにせよ、胸の奥がざわついた咲也は、咄嗟に「自分にしかできないことがある」と思って、未散に口づけたのだ。
咲也のキスは、ニキビを治すことができるからだ。
(いや、やっぱり意味分かんない)
百人いれば百人思うだろうその感想は、実のところ、咲也自身もその力を知ったときからずっと思っていたことだった。魔法や特殊能力というものは、例えば空を飛んだり、無から有を生み出したり、動物の言葉を理解したり、そういう感じだと思っていた。が、実際はこの有り様だ。使いどころはほとんどないうえ、おまけにパッとしない。
ふと、遠い昔に聞いた母の言葉がよみがえる。
──いい? これは咲也が、自分にしかできないって思ったときにするのよ。そのときが来たら、きっと分かるから。
この冴えない力が、ようやく役に立つときが来た。きっと未散のためになると、そう思ってキスしたはずだったが、今となっては「やっぱりしなきゃ良かった」と心残りになっていた。……ああ、つくづく意味が分からない。
(まあ……別に、嫌われてもいいか)
深く考えないようにして、咲也はタオルで顔を拭き、制服の襟を整える。
昨日のことは、ただの出来事。そう自分に言い聞かせながら、洗面所を出た。
◇ ◇ ◇
登校して早々、咲也は未散の名前を耳にしていた。
「千葉先輩、昨日の撮影のやつもうSNSに挙がってるって」
「やば。顔ちっさ! 美形すぎ顔面えぐ!」
「ガチ王子様よな。なのに身長一九〇は神」
「ビジュ偏差値八〇はある」
「『初恋担当』は伊達じゃない」
昇降口は、手元のスマートフォンを覗き込んで話し込む女子生徒たちでいっぱいだった。話題はもちろん、学園の王子様たる未散一色。聞こえてくる話だけで、咲也の心臓はどきどきと脈を打った。
「やっぱ時代は千葉未散なんだよね〜」
昨日の夕陽の中で見た未散の顔がふっと脳裏に浮かべば、咲也は足早にその場を去った。
階段を上り、廊下を抜け、自分のクラスへ。おそるおそる室内に足を踏み入れると、未散はいつもの席にいた。窓際で朝の柔らかな日差しを受ける姿は、日常の光景を映画のワンシーンへと一転させる。周囲には未散の友人たちが集まり、笑い声が絶えなかった。……と、そのとき。
「あっ……咲也」
ふとお互いの視線が交わると、未散は名前を口にして席を立つ。そうしてこちらへまっすぐ向かって来ては、問答無用で咲也の腕を奪うと、「こっち来て」と廊下を飛び出した。
「み、未散……!?」
「…………」
困惑する咲也だったが、未散は欠片も気にする素振りを見せない。代わりに迷いない足取りで向かうのは、ホームルームを出てすぐの階段を上り、少し歩いたところにある空き教室。「ワークルーム」という名前こそあるものの、普段ほとんど使われることないその部屋に辿り着くと、未散は有無を言う隙すら与えずに、咲也を中へと連れ込んだ。
未散の背後で扉がピシャりと閉まる。退路を塞がれた咲也の表情が歪めば、未散は「今度は逃がさないから」と不敵に笑ってみせた。……今度というのは、昨日のことを受けてだろうか。たしかに咲也は、あの後すぐ逃げるように未散の前から姿を消した。
──今……俺にキスした?
……その問いに、答えることもなく。
「なんで俺にキスしたの?」
未散の問いに、咲也はわずかに間を置いて答える。
「……そうすれば、ニキビを治せるから」
「っ、そうじゃなくて」
視線の先、未散の頬には、もはやニキビの跡形もない。モデルの仕事も問題なくこなせただろうが、それでも未散は咲也の回答に納得いかないようだった。「つか、『キスで治せる』ってどういうことだよ」と、その反応はある意味真っ当で、ゆえに咲也はそれ以降のすべての言い訳や反論を飲み込む。……ああ、やっぱりキスなんてするんじゃなかったと思いつつ。
「……ごめん」
代わりに謝罪を口にすれば、未散ははっとしてはむず痒そうに顔を顰める。「謝ってほしいんじゃない」と言うその表情は、どこか傷ついたみたいで、咲也はそれに既視感を覚えた。
以前にも見たことがあったのだ。それは今から二年ほど前のこと。……咲也が、未散に別れを切り出したときの顔だった。
「キスなんて、付き合ってた頃すらしたことなかったじゃないか」
未散の言葉が胸に刺さる。けれど咲也が言えたのは「ごめん」だけだった。
「……もういい。分かった」
それだけ言うと、未散は咲也から視線を外し、塞いでいた扉を開ける。そのまま何も言わずに出て行く未散の背中を、咲也はぼんやりと眺めていた。
(キスなんて、か……)
未散の言葉を心の中で繰り返しては、咲也はその眉根を寄せる。なんとも言えない気持ちのあり方に、胃のあたりが重く感じられた。
……ひとつ、あえて触れずにいたことがあった。それは自分たちが、ただの幼馴染ではないということ。
中学時代、咲也と未散は交際していた。といっても、年相応の、子どもじみたお付き合いだ。恋人らしいことといえば、せいぜい手を繋いだり、一緒に遊園地でデートしたりするくらい。キスなんて全然、その先なんて論外だ。けれど満たされていたし、未散もそれは同じだったと思う。そして、それでも別れることになったのは、二人の生きる世界がそれぞれ変わってしまったからに他ならなかった。
……未散がモデルとして活躍し始めるようになると、咲也の方から関係の解消を切り出したのだ。
そろそろとクラスに戻り、自分の席に腰を降ろす。今の座席は咲也が廊下側後方、未散が窓際前方のほぼ対照。咲也は少し離れたそこから、未散の様子を橫目で眺めた。
未散の周りは相変わらず賑やかで、どこかきらきらして見える。それに胸がチクリと痛んで、反射的にその視線をそらせば、目の前を影が覆った。
「はよ。百川」
「……市ノ瀬」
咲也の前の席に腰を下ろすのは、市ノ瀬優馬というクラスメイトだった。新学期から前後の席という縁で知り合った関係だが、咲也と比べてずっと明るく、ずっと自由な人間で、どこのグループにも属さない代わりに親しみやすさがある。だから自然と話が進んで、いつの間にか仲良くなっていた。
咲也が「おはよう」と挨拶を返せば、市ノ瀬は短く切り揃えた栗色の髪を揺らし、いたずらっぽくニンマリと笑ってみせる。「今日も大人気だな、千葉」という発言は、いったいどんな反応を期待しているのだろうか。
「女子から聞いたぜ。お前さっき、千葉に攫われたんだって?」
「攫われてはいないよ。ただちょっと話してただけ」
「どうだか。ちなみに女のコみんなキャーキャー言ってたぞ。『私も攫われたい~♡』って」
「ええ……」
弾みでげっそりという表情を見せれば、市ノ瀬はウハハと愉快痛快に腹を抱える。所詮は他人事だからと、笑っていられる余裕が羨ましかった。こちらは今、こんなにもいっぱいいっぱいだというのに。
「おっ。眉間にすげーシワ。なんか悩み事?」
「……別に」
「どうせ千葉のことだろ? 大変だな。有名人の幼馴染ってのも」
市ノ瀬の言葉に、咲也はしばらく間を置いて「……まあね」と呟く。
「相談されたんだよ。ニキビができたって」
「……ニキビ? ん? ニキビって、あのニキビ?」
「そう。なんか、撮影で邪魔になるらしくて。でも……普通はさ、悩むようなことじゃないだろ? ニキビなんて誰にでもできるものだし、ひとつくらいなら気にもならないし。けど、モデルのあいつにとっては、大ごとだったみたいで」
咲也はまるでこの惑星ではない、別の星のことのように語る。すると市ノ瀬はウーンと唸って、「たしかにアレだな……」と言葉を詰まらせた。
「話が別次元っつーか……意識が高い? っていうか」
「うん。それで、やっぱり違う世界の人間なんだな、って実感したら……ちょっと疲れちゃって」
この眉間のシワはそういうことだ、と説明すれば、市ノ瀬は納得が行ったとばかりに相槌を打つ。「おつかれ」と咲也を労うその声は、さっきよりも親身で、優しいものに聞こえた。
(そう……疲れるんだ、未散といると)
言語化してみると分かりやすい。咲也が未散と関わらないようにしていたのは、それが理由だった。
未散がそばにいると、周りがうるさかった。
未散と話していると、どうしても違和感があった。
未散に関わると、こうして悩んでばかりだった。……だから疲れる。だから、離れた。
幼馴染なのに、今こんなにも距離が遠いのは、未散がモデルとして忙しく、学校にいる時間も少ないからではない。ましてや別々の世界の人間になったからでもなく──咲也が未散を拒んでいるせいもあるのだ。
ふと、未散のいる方で歓声がわっと膨らむ。クラスの一軍集団のたまり場は、今日もキラキラで賑やかだ。
「昨日も撮影あったの? 最近ずっと忙しいね。大丈夫?」
囲いの一人が尋ねると、未散は軽く笑って「まあ、仕事だから」と受け流す。その言い方は落ち着いていて、どこか大人びているようにさえ感じられた。ああいうのが俗に「洗練されている」と言うのか。しかしそんな未散も、ニキビのひとつで悩むらしい。
(……治って、良かった)
咲也は未散から目をそらすと、おもむろに自身の頬に触れた。


