僕のキスはニキビを治せる

 退院して初めての登校日。教室に足を踏み入れた瞬間、わっという騒がしさが肌を震わせた。

「おっ、百川じゃん!」
「退院したの? 怪我、大丈夫?」
「頭、包帯……本当に事故だったんだ……」

 普段は話すことすらないクラスメイトと軽い会話を挟みつつ、咲也は自身の席へと進む。視線が集まるのは分かっていたが、気にするほどでもない。それよりも、前髪がうまく整わないことの方が気になった。

「災難だったな」

 ようやく着席すると、先に登校していたらしい市ノ瀬が心配そうに声をかけてきた。

「そんな大きな怪我じゃなかったから、大丈夫」
「大丈夫って……」

 市ノ瀬は咲也の頭の包帯を見て眉を寄せる。

「いやそれ、どう見ても大怪我のやつだろ」
「はは……。まあ、夏休み前に学校来れたし」

 咲也は苦笑するものの、それはそれとして市ノ瀬の心配はありがたかった。だから笑って「本当に大丈夫だよ」と念を押す。

「もうちっとも、痛くなんてないから」

 そのとき、教室の外が急に騒がしくなる。教室内の視線が一斉にそちらへ向けば、「あ、千葉だ」と誰かが呟くのが聞こえた。
 どうやら、未散が登校してきたらしい。廊下のざわめきが波のように押し寄せてくるが、当の未散は周囲を気にすることなく、咲也を見つけるとまっすぐこちらへ歩いてきた。
 教室の空気が一瞬止まる。交通事故の当事者二人ということもあり、固唾を飲むような雰囲気だった。けれどやっぱり未散は気にせず、堂々と咲也の前に立つと、咲也の前髪をそっと掻き分けた。
 包帯の上を、筋の通った長い指先が優しくなぞる。

「おはよう、咲也。……痛いの、大丈夫?」

 気遣わしげなその声には、どこか甘さが混じる。覗き込むみたいに見つめられれば、咲也は急な美の過剰摂取でこくこくと頷くことしかできない。

「そう。……じゃあ、今日も放課後にまた」

 それだけ言うと、未散はさっさと自分の席へ向かってしまう。いっそ素っ気ないようにさえ思えるその態度は、いつもとまったく変わらなかった。なのに、咲也は真っ赤になって俯いてしまう。
 市ノ瀬はその様子を見て、小さく肩を竦めてみせた。


 ◇ ◇ ◇


 放課後。咲也はわたわた準備を整えると、急いで教室を飛び出す。
 向かう先はワークルーム。階段を駆け上がり、少し歩いたところにある部屋の扉を開けると、机の上で教科書を広げている未散の姿が見えた。……相変わらず、移動が早い。

「未散!」

 咲也が名前を呼ぶのと、未散が顔を上げるのはほぼ同時だった。咲也は駆け寄っては手を差し伸べ、腰を上げた未散に向かって思い切り抱きつく。未散は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに咲也の背に手を回した。

「……やっと来た」

 甘やかすような声に、咲也はふっと息を吐く。

「だって、人がいるところじゃ、あんまりこういうのできないし」
「気にしないでいいのに」
「気にするよ」

 咲也の言葉に、未散は少し間を置いて頷く。
 ヨリを戻すことになった。恋人になった──それはとても素晴らしいことだが、かならずしも周りからの祝福を望めるものではなかった。咲也は一般人だが、未散はそうではない。今をときめく若手トップモデルであるからして、公私を分けた相応の態度が求められた。
 だから、恋人の時間は二人のときだけと、お互いで決めていた……はずなのだが。

「でも、朝ちょっと油断してたよね?」

 咲也が指摘するのは、今朝の未散が見せた振る舞いについて。額を撫でたのといい、甘ったるい声といい、圧倒的な美貌といい、わりと気持ちがダダ漏れだった。それこそ、咲也の顔が真っ赤になってしまうくらいには。

「俺の顔が良いのはいつものことだけど」
「そういうことじゃないんだよ」

 咲也は背伸びし、未散の両頬をむぎゅっと押し潰すと、反対に自分はふくれっ面してみせる。

「バレちゃうじゃん。僕たちのこと」
「そう? 全然バレないよ、あれくらいじゃ」
「バレるって! っていうか市ノ瀬にはバレた、絶対に!」
「いや、あいつにはバレていいよ。むしろバレて」

 色々と訴えてはみるものの、未散はケロッとするばかりで、反省の色がまるで見られない。いったい全体、あの洗練されし千葉未散はどこへ行ってしまったというのか。咲也は深くため息を吐くと、押し潰した未散の頬をむにゅむにゅと強めに揉みほぐした。困った人だな、と思いつつ……でも、案外悪い気はしないな、とも思いつつ。

「でも、ダメなものはダメなのでお仕置きです」
「お仕置き?」

 咲也は未散を席に座らせると、自身もまたその隣の席に座り、スクールバッグに手を伸ばす。整理された鞄の中、取り出したのは一冊の雑誌。持ち込みはむろん校則違反だが、決して躊躇することなく咲也はページをめくった。
 お目当ては当然、未散の特集ページ。

「今から今回の良かったところ言うから。恥ずかしがっても止めないからね」
「えっ、待って。昨日出たやつ買ってくれたの? というかお仕置きじゃないじゃん。普通にご褒美」
「もう、静かに」

 しーっと唇に人差し指を添えて、その賑やかな口を封じる。咲也はむんと胸を張ると、ページに貼りつけられた付箋のメモ書きを読み上げていった。

「まず髪型ね。ヘアセットって言うの? ウェーブかかってるの珍しくて──」
「…………」
「この写真、すごくかっこよかった。秋コーデってまだ先だけど、こういうの普段も着てほしい。あと──」
「…………」
「ページのコメント、ちゃんと考えたんだ。なんか未散らしくて良いと思うけど、でも秋に食べたいのがタケノコはちょっと──」

 熱心に語る咲也を、未散は言われた通りに静かに見つめる。しかしだんだんと痺れを切らしてくれば、特に何の前触れもなく、おもむろに咲也の頬にキスをした。

「……っ!」

 ミシリと音を立てて固まる咲也。他方、未散は「かわいかったから」と軽く笑った。

「ダメ? いま周りに誰もいないけど」
「そ、そういうことじゃなくて……」

 分かってないな、とばかりに咲也は少しだけむくれたように言った。

「……唇には、しなくていいの?」

 未散の瞳がわずかに揺れる。「たしかに……」と呟くと、未散は咄嗟に唇が荒れていないかを確認した。そのうえで「……うん、大丈夫」と認めると、咲也の顎をそっと掬い、首を傾ける。お互いが目を伏せた瞬間、唇同士はぴったりと重なり合った。柔らかい弾みに、わずかな熱の交差、かすかにふるえる息。そのときばかりは、世界が二人っきりになったみたいで。
 ワークルームの静けさの中で、二人だけの時間がゆっくり流れる。理由が必要なくなったくちづけは、恋人になって初めての放課後にこれ以上なくふさわしかった。
 まもなく夏だ。きっとすごく暑いだろう。けれど二人一緒なら、きっととても面白いはずだ。夏だけじゃない。秋も、冬も、その先も──。
 ああ、本当に「楽しみ」。これが君へのアイ・ラブ・ユーだ。