僕のキスはニキビを治せる

 かき氷を食べた後、さあ次はどこへ行こうかと思ったところで、咲也は足を止めた。

「痛っ……」

 ついつい苦悶の表情を浮かべては、足元へ視線を遣る。浴衣で見えづらいが、鼻緒を引っ掛けた指の間が靴擦れしているようだった。
 咲也はかかとを下げ、下駄を浅めに履きながら小股で歩く。が、歩き方がややぎこちなくなったのを、未散はすぐに気づいた。

「咲也、どうかした?」
「……なんでもない」

 答えはそれだけ。なるべく迷惑にならないよう、何てことなく言ったつもりだったが、未散は迷いなく咲也の腕を取った。

「こっち来て」

 人混みを避け、境内横の静かな路地へと連れていかれる。露店すらないその場所は、提灯の明かりさえも遠く、夜風が少しだけ涼しく感じられた。こんなところに用などないのか、人影もほとんど見られない。

「ほら。ここ、座って」

 未散は咲也をベンチに座らせると、しゃがみ込んでは咲也の足元を覗き込んだ。

「靴擦れしてんじゃん」

 下駄を脱ぐと、鼻緒を掛けていた指の間は赤く腫れており、血が滲んで見えた。心配そうにする未散を前に、咲也は「大したことないよ。これくらい」と肩を竦めるが、未散は「大したことあるだろ」と眉を寄せると、その顔つきをいたく真剣なものにした。

「さっき歩けてなかったじゃん。……ごめん、気づくの遅くなって」

 咲也は思わず押し黙る。本当に大したことではないのだから、未散が気にする必要はなかった。が、それでも未散は、咲也のことを想っているからこそ、こうして案じてくれていた。その事実がわりと嬉しくて、口元がむずつくみたいな恥ずかしさがあって。

「……咲也」

 未散の指先が、傷の周りをそっとなぞる。痛みよりも、その手の温度の方が強く感じられたのは、たぶん思い違いではないだろう。すぐそばに未散がいることが嬉しくて、触られているのが恥ずかしくて、咲也は今日何度目かの赤面をする。昂ぶる感情に、気を取られる。……だから、気づかなかった。咲也の足の指に、音もなく未散の唇が添えられたことを。

「……え」

 咲也は反応に遅れる。すぐ目の前で授けられたキスに、視線が釘付けになったからだ。だって、その光景はあまりにも美しい。自分が知る限り一番美しい人が、自身の傷ついた足にくちづけている。これより美しいことを、未散は知らなかった。そして知らなかったからこそ、意識したときには顔から血の気が引くようだった。

「ちょっ、待っ……未散!?」

 思わず大声を叫び、足を下げる。「な、何して……」と息も絶え絶えに尋ねると、未散は咲也を見上げて「……治らなかった」と呟いた。

「治らなかった、って……」

 そのとき、咲也はようやく未散がしようとしていたことに勘づく。かつて自分が未散にしたように、未散はキスでこの靴擦れを治そうとしたのだ。当然、治るはずはない。そもそも治る方がヘンなのだから。……けれど、未散は言う。

「俺も、咲也みたいに……キスで治せたらいいのに」

 どうして、を聞く必要はなかった。咲也はその立場になったことがあり、「どうにかしてでも治したい」という気持ちを知っていたからだ。
 未散にニキビができてしまったそのとき、自分にしかできないことがあると気づいた咲也は、躊躇うことなくキスをした。痛みをなくしてあげたいと思ったからだ。好きな人のためになりたいと思った──少しでもまた、自分を意識してくれたらと、心のどこかで願ってしまったから。

「どうしたら、咲也は俺を選んでくれる?」

 未散の言葉が鼓動する胸に刺さる。痛くはない、けれど切なかった。苦しくない、けれど泣きそうだった。ぎゅっと握りしめられたみたいなのに、甘くて、熱くて、咲也は未散の声を聞いていることしかできない。

「俺、ずっと考えてる。後は何をしたらいいのかなって。あと一歩、どうしたら……咲也は俺のこと、また好きになってくれるのかなって」

 すこぶる甘ったるい声で「ねえ、咲也」と未散が呼ぶ。唇をギュッと引き締めたのは、その後に続く問いが分かっていたからだ。いや、正しくは期待していた。もし聞かれたら、答えようと思っていたから。

「……俺のこと、好き?」

 祭りのざわめきが遠くで聞こえる。こんな遠かっただろうか、それとも自分が遠ざかってしまったのか。たぶんどこかで、未散と二人きりになりたいと望んでいたのかもしれない。

「……み、未散。僕──」

 咲也は口を開く。名前を呼ぶだけで声が震えるみたいだったのは、それがずっと言いたかったことだからだ。逃げることなく、きちんと向き合って、自身の答えとして形にしようとしていた。そしてうまく言えなくても、曲がりなりにも、未散に伝えたかったのだ。

「ぼ、僕……」

 言いかけた、そのときだった。

「あれ……千葉未散じゃね?」

 離れたところから声がする。路地の静けさが崩れるとともに、いくつもスマートフォンのライトがこちらに向けられれば、二人は揃って顔色を変えた。
 未散がここにいることが、人にバレてしまったのだ。

「え、マジ? お忍びってやつ?」
「さっきTLに流れてきたの、これじゃね?」
「撮影とか? えっ、めっちゃ見たい!」

 瞬く間に人の気配が増える。未散は立ち上がり、キャップを目深に被り直すと、咲也の腕を掴んだ。その手は迷いがなくて、これからどうなるかを分かっているかのようだった。

「……行こう」
「ちょ、未散──」
「いいから」

 手短に言い切り、走り出す。薄暗い路地から明るい境内へと咲也を引っ張り出したのは、少しでも注目を分散させるため。既にソーシャルメディアで話題になってしまっている以上は、逃げるより他なかった。
 祭りの明かりが一気に近づく。人混みのざわめきが大波のように押し寄せる。雑踏に潜り込んだはいいが、人々の話題は「この神社に千葉未散がいる」に染まりつつあった。ただの興味関心だけならまだしも、冷やかしややっかみも聞こえるのは、それだけ未散が有名人であることの証しだろうか。しかしこのときばかりは〝()()()初恋担当〟の肩書きが邪魔だった。

「背が高かったからすぐ分かったって言ってたよ!」
「私服ですらキラキラ感ヤバいらしい」
「っていうかお忍びって何? カノジョと来てるの?」
「男の子と一緒だったらしいよ~。その子も芸能人だったりして」
「え~見たい! 動画撮りたい!」
「どこいんのかな。すぐそばにいたりして」
「待って。もしかして、あの背高い人──」

 声が聞こえる。視線が集まる。祭りの空気が、未散ひとりの存在で大きく変わっていく。それは咲也が苦手とすること。未散といると、こうなってしまうから疲れるのだと、いつか思ったことがある。心の余裕が削られて、苦しくなるのだ。

「嘘。えっ、あれじゃない?」
「千葉君いたって!」
「やばいしんどいんだけど。ガチ? 本物?」

 興奮と歓声とが広がるたび、咲也は言いようもない不安に襲われる。自分と未散が違う世界にいることを突きつけるような、己の醜い嫉妬心や独占欲を暴いてくるみたいな、そういう声を耳にするのが嫌だったからだ。
 未散といると感情が掻き乱される。……それがたまらなく、辛いのだ。

「咲也、大丈夫?」
「……平気」

 未散の囁くような問いに、咲也はなるべく自然を装って答える。浴衣のせいで走りづらいうえ、鼻緒の靴擦れが痛むが、そう答える他なかった。こんな状況で、未散にわがままを言うわけにはいかないからだ。

「うわっ……!」

 と、そのとき、不覚にも下駄の先を地面に引っ掛けると、咲也は思いきり前方へとつんのめる。転びそうになったのは、靴擦れに注意して歩く中で一瞬、ほんのわずかに気を緩めてしまったから。急ぎ足と砂利道の相性が悪いことを、咲也は失念していたのだ。
 バランスを失うと同時に、視界がぐらりと一気に傾く。よろけた瞬間にまずいと思ったものの、どうにかすることはできなかった。浴衣の不自由さも災いし、後は体を地面に叩きつけられるだけ。しかしそのすんでのところで、咲也は強い力に引っぱられた。

「……っ、咲也!」

 頭上から降り注ぐのは、祭りに場違いなほど必死な声。面を上げれば未散が見えて、咲也はその体を未散に預けていた。
 どうやら、転びそうになったところを未散が支えてくれたらしい。

「あっぶな……」

 咲也を抱く未散の腕は頼もしくて、でもどこか震えている。つまずきそうになった程度で大袈裟な、と思うが、未散の顔を見れば考えていることのだいたいは察しがついた。

「ごめん、咲也。足痛いのに無理させた」

 未散はきっと、この状況に罪悪感を覚えていた。自分が自分でなければ、こうはならなかったはずだ、と。楽しい思い出になるはずの時間が、自分のせいで台無しになったと思っている。だからこんなにも焦っていた。その綺麗な顔に不相応な、心配の影が差しているのだ。

(未散のせいじゃないのに)

 咲也の唇が自ずと動く。

「……ありがとう、未散」

 そう言うと、靴擦れもかまわず、自分の力で立ち上がった。

「さっきも言ったけど、大丈夫。無理してない。今のは僕がうっかりしてた」
「でも……」
「うん。未散はかっこいいから、どうしても目立っちゃうね。だからここだとゆっくりできないかも」

 咲也は手を伸ばす。そうしてそっと未散の手を取ると、一回り大きなそれをぎゅっと握りしめた。

「早く行こう。それで、二人きりになれる場所に行こう」

 未散の瞳が揺れる。その双眸は咲也だけを映してはきらめいていて、未散は頷きと一緒に咲也の手を固く握り返した。

「分かってる。だから俺から、離れないで」

 長くは立ち止まっていられない。今この瞬間さえ、二人は人々の口の端に上っているかもしれないからだ。だから示し合うまもなく、すぐに駆け出す。その手を強く、でも優しく繋ぎながら、人混みをかき分けるようにして境内を進む。
 咲也は浴衣の裾を押さえながら必死に走った。靴擦れが痛むたび、未散が気遣って咲也の方へと振り返るが、笑ってごまかした。自分のために速度を落とすことも、歩幅を合わせることも必要ないからだ。
 未散が自分のことを意識してくれている──それだけで、十分だったから。

「咲也、こっち」

 屋台の並びを抜けると、鳥居が見えた。その向こうには車道が走り、そこを越えるだけでも人の数はぐっと減る。祭りの賑わいが背後で膨らんでいく中、未散が咲也の手を引き、鳥居の外へ出ると、ふわりと通り抜ける夜風が感じられた。

「うわ、タイミング悪」

 未散の声に、咲也ははたと意識を向ける。見ればちょうど、横断歩道の信号がチカチカと点滅しているところだった。車道の向こう側へ渡れる横断歩道は、この辺りにはここしかない。立ち往生することになれば、せっかく急いだのが水の泡になるかもしれなかった。
 渡るタイミングは、今しかない。だから咲也は未散に「急ごう」と声をかけようとしたし、未散もまた足を踏み出そうとした。……その寸前で、車のタイヤが路面を擦る音が聞こえなければ。
 キッと金属同士が削り合ったような、軋んだ重低音が耳をつんざく。二人揃ってそちらへ振り向いたのと、足元に伸びる影がぐるりと回ったのはどちらが早かったか。気づいたときには、自身を取り巻く世界が急激にスローモーションになっていく中、ただひとつだけ、こちらに向かって猛スピードで突っ込んでくるのが見えて。

(……は?)

 制御を失った車のヘッドライトが、こちらをまっすぐ照らし出していた。

「……っ!」

 防衛本能がはたらき、頭の中で警報が鳴り響く。このままでは確実に轢かれると理解した瞬間、息が止まって、全身の毛穴という毛穴が引き締まるような感覚を覚えた。それは恐怖よりも絶望感に近い。どうして自分たちが、なぜこんなときに──訳が分からず立ちすくんでは、そんな風に思ったのかもしれない。実際のところ、そんな暇はなかったのだが。
 悲鳴が響く。怒号が轟く。「逃げろ!」という必死の叫びも虚しく、ブレーキの利かない暴走車は咲也たちがいる横断歩道へと急激に差し迫る。けれど身動きは取れなかった。そんな余裕も、時間も、与えられていなかったからだ。すぐ目の前には鉄と鋼の塊が襲い来ていて、その現実から逃れる術はない。
「だめだ」。……本気で、そう思った。

「──ッ、咲也っ!!」

 そのとき、未散の声が咲也の耳元で鋭く落ちる。カンマ数秒足らず、次いで未散はぐっと地面を蹴り上げると、体ごと、あらん限りの力で咲也に手を伸ばした。

「……っ!」

 迷いは一切なかった。だからこそ、この手段を取れたのかもしれない。
 視界がぐらりと揺れる。未散の腕が咲也の肩を包み、抱きしめつつも押し出した瞬間、咲也の体は暴走車の進路からわずかに弾き出された。それでも車体そのものを避けられたわけではなく、勢いそのままに追突されれば、咲也の体は簡単に吹き飛ばされてしまう。それこそ、蝋燭の火が吐息に吹き消されるみたいに。
 ただ、幸いにもそれだけだった。すんでのところで間に合ったから、それだけで済んだのだ。
 路地に体を叩きつけられる。痛みはほとんどなかった。代わりに未散の体が、自分を守るようにして倒れ込む感覚があった。

「…………」

 車に轢かれて、いくら経った頃だっただろうか。十数秒程度だったかもしれないし、五分くらい過ぎてしまっていたかもしれない。けれどやっと気がついたとき、咲也をかばうように倒れるその存在が真っ先に目に付いた。路面に打ち付けたおかげで体の節々が痛かったが、力を振り絞ってその名前を呼ぶ。

「み、ちる……?」

 返事はなかった。咲也を抱いたその腕からは、徐々に力が抜けていって、自分の肩に触れている温度が下がっていくのが感じられた。

「…………」

 すぐそばに見える未散の頭部から、赤いものが溢れ出ている。体温が下がっているのは、きっとそのせいだろう。綺麗な顔には傷がつき、目は固く瞑られていた。まるで、眠りから醒めることを知らないみたいに。

「みちる。……みちる」

 咲也は必死に名前を呼んだ。呼吸が空回って、声が震えて、ままならないなりに何度も呼んだ。さもなくば目の奥の熱い何かが滲んでしまいそうだったからだ。車に轢かれたからではない、別の痛みのせいで今にも胸がきゅっと縮んでしまいそうだったから。

「なんで、僕なんか……」

 未散の方が、大事なのに。たくさんの人に愛されているのは、未散の方なのに。その体を傷つけてまで、なぜ自分をかばったのか。……なぜ、守ってくれたのか。

「人が轢かれたぞ! 救急車と警察!」
「やばくない? 二人とも倒れてんじゃん」
「つか、千葉未散が轢かれたってマジ?」
「マジじゃない?……えっ、見て。エグいエグい。ガチじゃん」
「うわ、血すご。大丈夫かよ」

 世界がいつもの速度を取り戻していく。祭り会場の近くだったこともあり、突然の事故は辺りをたちまち混乱に陥らせた。もはや悲鳴も怒号も関係ない。けたたましい騒ぎが空気を塗り潰す中で、咲也は奥歯をきつく噛み締めた。

(……未散を、助けなきゃ)

 息も絶え絶えになりながら、おもむろに体を起こす。いま自分が何をしたいのか、何をするべきなのか──「未散を助けたい」という気持ちに従うなら、取るべき行動はひとつしかなかった。

 ──いい? これは咲也が、自分にしかできないって思ったときにするのよ。そのときが来たら、きっと分かるから。

 何だかな、と思う。いつかその言葉にふさわしいときが来ると思っていたが、まさかこんな場面だとは思わなかった。もっと些細な、それこそニキビができたとか、唇を切ったとか、そんなときだと思っていたから、かえって肩透かしを食らったような気分だ。どうにも締まらなくて、ある意味で自分らしいかもしれない。
 未散の額にそっと手を添える。真紅に染まった前髪を払い、深く眠りにつくその顔を見つめると、ゆっくり額に唇を寄せた。結局伝えられなかった自身の気持ちのためではなく、今はただ、その苦しみを取り除くために。

「…………」

 触れた瞬間、頭の奥でかっと熱が弾ける。刹那、視界が白黒に明滅すると、まるで熱せられた槌に打たれたような衝撃が頭に走った。……痛み、だ。しかも激痛なんて言葉では表現しきれないほどの、強い、強い痛み。ガンガンと響くようなそれが頭蓋を軋ませ、呼吸を奪うと、咲也はたまらずその場で倒れ伏した。

「あ……ぐっ!」

 未散の負った痛みが、一気に咲也の中へと流れ込んでくる。あまりの衝撃に平衡感覚が狂えば、それと引き換えにごっそりと体力が削られ、体温を奪われるともに、指先から感覚が薄らいでいった。それはまるで、四肢が自分のものではなくなっていくかのよう。意識が霞がかり、視界の焦点もどこかに見失えば、何を思うことも、考えることさえもできなくなって、咲也は未散の体に寄りかかったまま、少しずつ暗闇に落ちていく。
 最後に見えたのは、未散の穏やかな横顔。すでに傷ひとつなくなっていた、その美しいものが、咲也の瞼の裏にいつまでもこびりついていた。