僕のキスはニキビを治せる

 迎えた夜の七時。紺色の空の下、自宅近くの稲荷神社では、提灯の明かりが揺れ、祭囃子の軽快なリズムが響いていた。
 咲也は「いつもの場所」という指示に従い、神社裏の駐車場に向かう。急いでいたのは、浴衣を着るのに時間を要したのと、履き慣れない下駄が歩きづらかったせいで、集合がぎりぎりになってしまったからだ。歯噛みしつつ、コンクリートを踏みしめるカラコロという足音の間隔を速めると、咲也は辿り着いた先で辺りを見渡した。
 祭りの会場から外れたそこは人が少なく、明かりも少ない。どこにいるだろうか、まだ来ていないのだろうか。視界をぐるりと回す中で、「……咲也」と聞き慣れた声が耳に届けば、はっと振り返った。
 キャップに黒マスク、縁メガネにシンプルな服装。いつか見たのと同じような恰好は、地味な普段着にもかかわらず隠しきれない雰囲気を醸し出す。街灯の下で立っているだけで、どこか光をまとっているように見えるその姿に、咲也の胸はひそかに跳ねた。

「ご、ごめん! 待たせた?」

 謝罪を口にしつつ駆け寄る。すると未散は「全然」と首を横に振った。「今来たばかり」と言うが、それはどうだろう。首筋にうっすら汗をかいているのを気づけば、それなりに前から待っていてくれたのではないかと思う。恋人でもない自分なんかのために──なんて思うのは、うぬぼれだろうか。

「ていうか、浴衣」

 咲也の気がかりとは裏腹に、未散はその目を丸める。咲也は「ああ、」と相槌を打ち、自身が身につける浴衣を見下ろすと、その頬をそっと掻いてみせた。
 昔、この祭りに来ていた頃はいつも浴衣だった。当時は未散も浴衣で、夏祭りという非日常を楽しむためのおしゃれみたいなものとして捉えていた。だから今日も自然とそうしただけなのだが、よくよく考えてもみれば、連れの未散は有名人で、咲也が浴衣の姿で街に繰り出せば、未散もまた目立って仕方ないだろう。なんなら自分も普段着で来るべきだったと、少し後悔していた。

「なんか、意外」
「そう? ……昔は、いつもこれだったから」

 目を瞬く未散の一方、咲也は気まずげに視線を泳がせる。内心では、笑われるだろうか、と恐々。けれど未散の反応は、思っていたものとは違っていて。

「へえ?」

 未散は片眉を上げると、しれっと「楽しみにしてたのかと思った」と言う。あまりにさらりとした反応だったものだから、初め何を言われたのかピンとこなかったものの、噛み砕いてみればなかなかだった。だって、この場合の「楽しみにしてた」は、たぶん祭りではなくて、未散と会うことを指している。未散のためにおめかししてここに来た、と解釈されたのなら、何だかいたたまれない気持ちになってしまった。

「そ、そんなわけ──」

「ないだろ」と否定しようとしたが、その手前で言葉が止まる。嘘はつけなかった。実際、参加するつもりのなかった夏祭りに来たのは、未散に言われたからだ。それにこの浴衣は、高校生になって新しく買い替えたものだった。奇しくも初披露となったのが今日である以上、その事実が余計に言い訳を難しくさせた。
 未散のために着てきたつもりはないのだが、結果としてそうなってしまっている──それがたまらなく恥ずかしかったのに、そこへさらに「似合ってるよ」という甘い声が届けば、気分はまるで追い打ちをかけられるかのようだった。
 分かっていて言っているのだろうか。そうだとしたら、タチが悪い。咲也は一歩後退さり、いつものように距離を取ろうとする。が、そのときにはもう、とっくに腕を掴まれていて。

「一緒に回ろ。咲也」
「……っ」

 その誘いが、咲也の胸の奥にするりと落ちて行く。少し湿った未散の手は熱くて、咲也の心臓はさらにうるさくなった。

「……分かっ、た」

 ぎこちない言い方になってしまったのに、目の前の未散は嬉しそうに目を細める。そのまま二人は、祭りの方へと歩き出した。
 屋台の匂いが風に混じり、笛と太鼓の音色が夜闇に広がる。進むにつれて増していく人混みの中、自然と近づく距離のせいで体が触れ合う。が、お互いそこに言及することはなく、言うとしてもせいぜい「大丈夫?」くらいだった。それでも咲也の心臓はどきどきと鼓動を立て、浴衣の袖が揺れるみたいに感情を左右する。
 鳥居をくぐり、祭り会場の境内に出る。賑やかな歓声で溢れるその場所において、天井知らずの高揚感は咲也の緊張をそれとなく打ち消してくれた。目に映るのは、赤いりんご飴に、真っ青なブルーハワイのかき氷。はしゃぐ雑踏は、さして目立たぬ男子高校生二人のことなど、まるで気にする素振りもない。
 ふと、咲也の足が止まる。視線の先、目に付いたのは金魚掬いだった。夏祭りの鉄板だが、咲也にとってもマストの屋台遊びだ。

「金魚掬い、やる?」

 横目で聞く未散に、咲也は一瞬躊躇う。この歳になって金魚掬いなんて恥ずかしいだろうか、という不安が過ぎったのだ。だから「……別に」とつれない返事をしたつもりだったのに、未散はふふっと楽しそうに笑ってみせて。

「やろ。咲也、昔から好きだもんね」
「……うん」

 お金とポイを交換して、二人で水槽の前にしゃがみ込む。水の中には無数の金魚が泳いでいて、見ているだけでも涼しげだった。

「どっちが多く取れるかな」
「負けないから」
「デメキンは掬わないの?」
「掬えるほど上手くない」

 咲也の実力はイマイチだった。祭りに来たらかならず、というほどやっているわりに、最高記録はたったの三匹。一方、未散は器用に十数匹掬えるタイプで、大きめのリュウキンや黒デメキンを掬ったこともあった。
 いつにも増して集中し、前を見据える。ポイを用意し、慎重に水へ浸けると、咲也は狙った一匹を椀にひっくり返した。

「おっ、掬えた」
「幸先が良いかも」
「まだ一匹だけだよ」

 二人してくすりと笑う。さっきのぎこちなさはどこへやら、その瞬間はまるで昔に戻ったかのようだった。未散が一匹二匹と金魚を掬っては興奮し、出目金を狙うか迷っては、結局ひよって手を出さないことに笑ったりする。無邪気なやり取りは子どもじみていたが、ひどく楽しかった。
 咲也がまた一匹を掬い、最高記録に王手をかける。既にポイの紙はふやけており、次の一匹が最後に掬えるか掬えないか、といったところだった。と、そんな折、他の客を避けようと、体をずらした未散の肩がふっと触れれば、咲也の息はたちまち浅くなった。

「……? どうしたの、咲也」

 咲也は咄嗟に視線をそらす。ぽっと熱を帯びたその表情を見られたくなかったのだ。とはいえ、どう言ってごまかせばいいのかも分からない。その迷いを、未散は別のことに勘違いしたらしい。

「ほら、そこ」

 群から離れた一匹に向かって、未散が咲也の手を軽く導く。指先が触れた瞬間、ずっと昂ぶっていた胸の奥の何かがぱちりと弾けた。

「あ……」

 ポイが破け、枠の中を金魚がくぐり抜ける。「惜しい」と呟く未散の横で、咲也は静かにポイをじっと見つめた。……ああ、なんて呆気ない、と思いつつ。
 一度水に浸されたポイは、あとは破れるしかない。ふやける前には戻れないうえ、ポイとはこの遊びのためのものだからだ。それ以外ないのだと思うと、少し虚しい。

「破けちゃった」
「もう一回する?」

 いや、と咲也は首を横に振る。そうして「もう満足」と微笑みを隣に向ければ、未散もまた「そっか」と小さく笑った。
 その後も、二人は子どもの頃のように、気兼ねなく祭りを楽しんだ。射的では、景品を次々と撃ち落とす未散の腕前に、咲也は感嘆するばかりだった。店主のおじちゃんには「商売にならないじゃねーか!」と笑いながら怒られてしまう始末。

「あっ、安心してください。僕はまったくできないんで」

 その代わりと言うとおかしいが、咲也はことごとく弾を外しまくった。未散ほど器用ではないこともあるが、一番は射的そのものをあまり経験したことがないからだろう。幼い頃、まだ力が弱かったときに射的を経験した際、コルクライフルの引き金を引けずにヘソを曲げたことがあって、それ以来あまりやることがなかったのだ。
 たしか祭りで射的をするようになったのは、未散と付き合った頃からだ。だからこれまでも、片手で数えるくらいしかやったことがない。おかげでコルク弾は景品にかすりもしない。

「…………」

 悔しいやら恥ずかしいやらでムッとしていれば、隣で未散が腹を抱えて笑う。仕方ないな、と言わんばかりに、未散は咲也に銃を構えるように促すと、背後から腰元にそっと手のひらを添えてみせた。

「ほら、ここ。的のちょっと下」

 未散の声が耳のすぐそばで響く。あまりの至近距離に、咲也は思わず「で、できるし!」と素直でないことを言うが、未散に刺さった様子はまるでなかった。むしろ「できてないじゃん」と冷静に突っ込まれ、さらに「銃口上がってる」と指摘されてしまう。

「落ち着いて。教えてあげるだけだから」

 くすりと笑った未散の手が、咲也の手の甲に軽く触れる。ライフルは的に照準を揃えると、「今だよ」という未散の合図とともにコルクを撃ち出した。パンッという空気が割れる音、それと肩を震わす衝撃。目を見張った矢先に、景品のひとつが軽快な音ともにひな壇から落ちると、咲也はすぐさま未散に振り返った。

「ほら、当たった。咲也、センスあるね」

 ポンポンと咲也の肩を叩く未散の一方で、店主はからんからんとベルを鳴らす。

「当たり~! はい、五等ね。ビッグサイズスーパーボール」
「ビッグサイズ……スーパーボール……」

 手のひらにころんと転がり込んだ、普通より二回りほど大きなスーパーボールに唖然とする。景品としては、なんか……微妙だ。小学生にはピッタリかもしれないが、高校生にスーパーボールは身分不相応というものだった。だって、とうに楽しみ方を忘れてしまっている。けれどその丸い球体は、今どきらしいラメとグリッターでキラキラしており、見ようによっては綺麗だった。

「……スーパーボール、いる?」

 未散に差し出せば、「プレゼント?」と問い返される。どう考えてもそんな大したものではないが、とりあえず頷いてみると、「じゃあ、ありがたく」と受け取られてしまった。ビックリしていれば、そんな意外だろうか、という顔をされる。

「好きな子からのプレゼントじゃん」
「なっ……!」

 だからそんな大したものではない、と思いつつ、咲也は自分が否定した部分が「好きな子」ではないことに気づく。意気を削がれて声を失えば、未散にまた笑われてしまった。

「射的の景品でかき氷の引換券もらったから、食いに行こ」

 未散に誘われ、咲也はおずおずと頷く。顔が熱いのは夏の暑さのせいにして、かき氷の屋台を探す未散の後を大人しくついていった。
 かき氷屋があったのは、射的屋の正反対、神社の隅だった。引換券と交換したのはメロン味のかき氷。シロップの鮮やかな蛍光グリーンが目に眩しく、手に伝わる冷たさが爽快で、とても夏らしかった。

「未散、メロン好きだよね。前来たときも食べてなかった?」
「単純に色で決めてる。あれ、色が違うだけで全部同じ味らしいよ」
「夢も希望もないこと言うなよ。メロン味はメロン味なんだよ。イチゴじゃない」

 二人して人混みを避け、境内の端に寄る。ここならあまり目立たないだろう。さて、僕の分も買ってこようかと思っていれば、未散はその場でぬっとスプーンを二つ取り出した。いつの間に二本もらったのか。というより、なんで二本……?

「これ、半分こにしよ」
「……なんで?」
「冷たいの苦手だから。丸々食べると腹壊す」

 当然のように言う未散だが、何か怪しい。ジト目で「本音は?」と尋ねれば、未散はいくらか間を置いて「……良いじゃん。半分こ」と顎を引いた。

「それくらいは良いだろ。あーんして、って言ってるわけじゃないし」
「あ、あーん……!?」

 咲也の口角がピクピク震える。怒りや不機嫌ではなく、羞恥によるものだった。だってさっきから、あまりにアプローチがあからさますぎる。しかもそれを何食わぬ顔でやってくるから恐ろしい。……まあ、もっとも恐ろしいのは、それを悪くないと思っている自分自身かもしれないが。
 さくりと未散のスプーンが氷を削る。マスクを下ろし、口を付けると、未散はふっと顔を綻ばせた。「美味い」という声には多幸感が詰まっていて、釣られるように咲也も一口を頬張る。

「わっ……」

 氷の食感とシロップの甘さに目を丸める。久々のかき氷は、夏祭りにぴったりのサッパリとした美味しさで頬が緩んだ。

「めっちゃ冷たい」

 未散にそっと視線を移せば、いたずらっぽく舌を見せつけられる。緑色に染まっているのを捉え、咲也もまたべろを覗かせれば、未散はくすくすと面白おかしそうに笑った。

「ははっ、ヘンな色!」

 花が咲いたような笑顔に、咲也は思わず意識を絡め取られる。別に、未散の顔が綺麗なことなんて、今さらにもかかわらずだ。それに未散の美しいところは顔だけでなく、プロポーションやその仕草も含めてだった。
 たかが笑った程度、これまで何度も見てきた。なのに、どうして特別に思えたのだろう。どうして、見惚れてしまったのか。

「……咲也?」

 相手がぼっーとしていることに気づいたのか、未散は咲也に手を伸ばす。

「溶けるぞ。ほら」

 指先が頬に触れ、かかった髪をそっと後ろに流す。その手つきがやけに優しくて、はたと現実に戻った瞬間に動揺を見せれば、未散はニッと得意げに笑った。

「もしかして、俺のこと考えてくれてる?」

 図星だった。だから目線は彷徨うし、紅潮は耳の先まで達する。

「嬉しい。もっと考えてよ」

 そう言うと、未散は何事もなかったかのようにかき氷へ手を付ける。スプーンで掬っては一口、「甘い」と端的な感想。けれどこの甘ったるさは、たぶんかき氷のせいではなかった。

(ずるい……)

 かき氷が手の温度に溶け、音を立てて崩れる。咲也はシロップの緑色を見つめたまま、しばらく顔を上げられなかった。