翌朝は久々の青天だった。
教室に入ると、前の席には既に市ノ瀬が腰を下ろしていた。咲也に気づくと「はよ、百川」と手を振り、普段通りの快活な笑みを見せる。
「おはよう。……あれ? 勉強?」
市ノ瀬の机の上を覗くと、教科書とノートが開いていた。昨日扱った数学を復習していたらしい。「演習問題やった?」と尋ねれば、「やったし正解だったけどまだ不安」とのこと。
「ひねった問題出されたら終わるかも」
「基礎問題取れてたら補習にはならないはずだから、とにかく公式と定理固めるのがいいんじゃないかな」
鞄を下ろして席に着く。その場の流れで教科書を取り出すと、咲也は付箋の貼られたページをめくった。まとめられた要点をさらいつつ、咲也はそっと市ノ瀬の背中を横目で見る。
──じゃあさ。思い出に……キスしてくれない?
昨日の告白も、失恋も、なかったことになったわけじゃない。思い出というものは、過去にあった出来事に付箋を貼って、ときどきページをめくって眺めるようなものだが、何事もそう簡単に整理がつくものではない。いや、そもそもキスしていないのだから、思い出になっているのかすら怪しいか。
それでも市ノ瀬は、いつも通りの調子で笑っていた。だから咲也も、いつも通り話せた。その「いつも通り」がさりげなく、どこか潔かったからこそ、昨日と変わらない距離感でいられた。それはひとえに市ノ瀬の配慮によるもの。
優しいのは、むしろ市ノ瀬の方だ。咲也はそう思った。
「考査近いのだるいなー」
「ね。もう来週だと思うと気が重いや」
取り留めのない会話。ありふれたやり取り。その空気が、咲也には心地よかった。
教室の空気は、定期考査に向けて少しずつ変わっていった。プリントを広げて勉強に励む者、休み時間すら教科書の読み込みに費やす者。よりにもよって、厳しいことで有名な化学教師の授業で寝落ちてしまう者──。各々が机に向かう中、咲也もペンを走らせながら、ときどき頬杖をつき、物思いに耽る。
試験が嫌だという気持ち。毎日暑いなという気持ち。……未散とのことを、どうしようかという気持ち。悩みはいっぱいで、集中したいのに集中できない、そんな日々が続いた。
「やばい古典死んだ。何も覚えてねえ」
「アイ・ラブ・ユーが『月が綺麗ですね』になるの、不思議だね」
「つか、英語ガチまずいかも。模試の長文、あれ何?」
市ノ瀬がぼやきながらプリントをめくる。咲也も苦笑しつつ、教科書をめくる。そんなやり取りが、数日間の間に何度かあった。
雨天の代わりに蒸し暑さが増え、けたたましい蝉の声が混じり始める。昼の時間が明らかに長くなり、最終下校時刻を迎えてなお明るい空が、どこか夏の本番を予感させた。
やがて考査の日が訪れる。緊張と静けさの中で、数日間の勝負が始まり──気づけば、最終日。
「終わったー!」
最後の試験が終了すると同時に、市ノ瀬は伸びをしながら叫びを上げる。周囲もプレッシャーから解放され、思い思いに気を緩める中、咲也が「お疲れ」と返したところで不意に影が差した。見上げたところで、咲也の胸はどくんと音を立てる。
「……未散」
一瞬ばかり喉が詰まる。もちろん、相も変わらず精巧な造形の顔立ちに見惚れたわけではない。場を顧みない、予期せぬ登場に驚いたからだった。
普段、未散が話しかけてくることはほとんどない。学校でのやり取りはせいぜいキスが必要なときくらいで、ゆえにこの瞬間は珍しかった。それでも不思議と目立たなかったのは、周りがテスト終わりでそれどころではないからだろう。
いつも周囲の目を惹いて止まないその存在は、今だけ咲也のものだった。
「ど、どうしたの……?」
咄嗟に尋ねるも、はたしてこの騒然とした空間で声が届いたのか。うるさい心臓のせいで、その心配はひとしおだった。しかし未散は「……咲也」と呼ぶと、その涼しげな眼差しをそっと細めてみせる。
「今日の祭り、来る?」
夏の気配が、ふっと風に混じる。ああ、と思い当たったのはそのせいか。咲也は今日、近所の神社で夏祭りがあることを思い出した。
中学までは毎年参加していた夏祭り。昨年は高校に上がったこと、そしていつも一緒に参加していた未散と別れたこともあって不参加だった。今年もその予定だったわけだが、いざこうして未散に尋ねられると、喉まで出かかった「行かない」は吐き出しづらい。
自分は、いったい何を期待しているのだろう。これから控える夏休みは、小学生や中学生の頃のように楽しいものではない。将来を見据えて就活に本腰を入れ始める頃だし、たかだか祭りの参加ひとつに思考を割くのもおかしな話だ。……そう、本当におかしな話。
なのにどうして、こんな息を凝らしているというのか。
「……うん」
咲也は小さく頷く。すると未散は一拍置いて「分かった」と了承した。
「じゃあ、七時にいつもの場所で」
未散はそれだけ言うと、さっさと自分の席へと戻っていってしまう。急に顔を見せたかと思いきや、用件だけ告げて去ってしまうその姿は、まるで咲いてはすぐ散ってしまう花火みたい。悪く言えば、無愛想だった。
「なんか……素っ気なくね?」
市ノ瀬は首をにゅっと突っ込み、眉を顰める。否定するつもりはなかった。実際、今のやり取りは淡々としすぎていたし、集合に関しては未散の独断だ。しかし咲也はそれを冷たいとは思わなかった。未散は怒っていたわけでも、不機嫌なわけでもないからだ。あれは素っ気ないというよりも、咲也の隣に市ノ瀬がいることに嫉妬しているように見えた。
確からしい判断材料があったわけではない。「そうだったらいいのに」という願望が、咲也の胸にさざ波を立てたようだった。
「未散、僕にはあんな感じだよ。……僕にだけは」
夏祭りなんて、本当に忘れていた。暑いし、混んでいるしで、少年心を手放しつつある自分に行く理由なんてないからだ。それなのに、未散に誘われた瞬間、あっさり「行く」と決めてしまった。忘れてしまうくらい些末な機会に、手を伸ばさずにはいられなかった。
どうしてこんなに未散の言葉に弱いのだろう。どうしてこんなに心が揺れるのだろう。……答え合わせの時間は、もうすぐだった。
教室に入ると、前の席には既に市ノ瀬が腰を下ろしていた。咲也に気づくと「はよ、百川」と手を振り、普段通りの快活な笑みを見せる。
「おはよう。……あれ? 勉強?」
市ノ瀬の机の上を覗くと、教科書とノートが開いていた。昨日扱った数学を復習していたらしい。「演習問題やった?」と尋ねれば、「やったし正解だったけどまだ不安」とのこと。
「ひねった問題出されたら終わるかも」
「基礎問題取れてたら補習にはならないはずだから、とにかく公式と定理固めるのがいいんじゃないかな」
鞄を下ろして席に着く。その場の流れで教科書を取り出すと、咲也は付箋の貼られたページをめくった。まとめられた要点をさらいつつ、咲也はそっと市ノ瀬の背中を横目で見る。
──じゃあさ。思い出に……キスしてくれない?
昨日の告白も、失恋も、なかったことになったわけじゃない。思い出というものは、過去にあった出来事に付箋を貼って、ときどきページをめくって眺めるようなものだが、何事もそう簡単に整理がつくものではない。いや、そもそもキスしていないのだから、思い出になっているのかすら怪しいか。
それでも市ノ瀬は、いつも通りの調子で笑っていた。だから咲也も、いつも通り話せた。その「いつも通り」がさりげなく、どこか潔かったからこそ、昨日と変わらない距離感でいられた。それはひとえに市ノ瀬の配慮によるもの。
優しいのは、むしろ市ノ瀬の方だ。咲也はそう思った。
「考査近いのだるいなー」
「ね。もう来週だと思うと気が重いや」
取り留めのない会話。ありふれたやり取り。その空気が、咲也には心地よかった。
教室の空気は、定期考査に向けて少しずつ変わっていった。プリントを広げて勉強に励む者、休み時間すら教科書の読み込みに費やす者。よりにもよって、厳しいことで有名な化学教師の授業で寝落ちてしまう者──。各々が机に向かう中、咲也もペンを走らせながら、ときどき頬杖をつき、物思いに耽る。
試験が嫌だという気持ち。毎日暑いなという気持ち。……未散とのことを、どうしようかという気持ち。悩みはいっぱいで、集中したいのに集中できない、そんな日々が続いた。
「やばい古典死んだ。何も覚えてねえ」
「アイ・ラブ・ユーが『月が綺麗ですね』になるの、不思議だね」
「つか、英語ガチまずいかも。模試の長文、あれ何?」
市ノ瀬がぼやきながらプリントをめくる。咲也も苦笑しつつ、教科書をめくる。そんなやり取りが、数日間の間に何度かあった。
雨天の代わりに蒸し暑さが増え、けたたましい蝉の声が混じり始める。昼の時間が明らかに長くなり、最終下校時刻を迎えてなお明るい空が、どこか夏の本番を予感させた。
やがて考査の日が訪れる。緊張と静けさの中で、数日間の勝負が始まり──気づけば、最終日。
「終わったー!」
最後の試験が終了すると同時に、市ノ瀬は伸びをしながら叫びを上げる。周囲もプレッシャーから解放され、思い思いに気を緩める中、咲也が「お疲れ」と返したところで不意に影が差した。見上げたところで、咲也の胸はどくんと音を立てる。
「……未散」
一瞬ばかり喉が詰まる。もちろん、相も変わらず精巧な造形の顔立ちに見惚れたわけではない。場を顧みない、予期せぬ登場に驚いたからだった。
普段、未散が話しかけてくることはほとんどない。学校でのやり取りはせいぜいキスが必要なときくらいで、ゆえにこの瞬間は珍しかった。それでも不思議と目立たなかったのは、周りがテスト終わりでそれどころではないからだろう。
いつも周囲の目を惹いて止まないその存在は、今だけ咲也のものだった。
「ど、どうしたの……?」
咄嗟に尋ねるも、はたしてこの騒然とした空間で声が届いたのか。うるさい心臓のせいで、その心配はひとしおだった。しかし未散は「……咲也」と呼ぶと、その涼しげな眼差しをそっと細めてみせる。
「今日の祭り、来る?」
夏の気配が、ふっと風に混じる。ああ、と思い当たったのはそのせいか。咲也は今日、近所の神社で夏祭りがあることを思い出した。
中学までは毎年参加していた夏祭り。昨年は高校に上がったこと、そしていつも一緒に参加していた未散と別れたこともあって不参加だった。今年もその予定だったわけだが、いざこうして未散に尋ねられると、喉まで出かかった「行かない」は吐き出しづらい。
自分は、いったい何を期待しているのだろう。これから控える夏休みは、小学生や中学生の頃のように楽しいものではない。将来を見据えて就活に本腰を入れ始める頃だし、たかだか祭りの参加ひとつに思考を割くのもおかしな話だ。……そう、本当におかしな話。
なのにどうして、こんな息を凝らしているというのか。
「……うん」
咲也は小さく頷く。すると未散は一拍置いて「分かった」と了承した。
「じゃあ、七時にいつもの場所で」
未散はそれだけ言うと、さっさと自分の席へと戻っていってしまう。急に顔を見せたかと思いきや、用件だけ告げて去ってしまうその姿は、まるで咲いてはすぐ散ってしまう花火みたい。悪く言えば、無愛想だった。
「なんか……素っ気なくね?」
市ノ瀬は首をにゅっと突っ込み、眉を顰める。否定するつもりはなかった。実際、今のやり取りは淡々としすぎていたし、集合に関しては未散の独断だ。しかし咲也はそれを冷たいとは思わなかった。未散は怒っていたわけでも、不機嫌なわけでもないからだ。あれは素っ気ないというよりも、咲也の隣に市ノ瀬がいることに嫉妬しているように見えた。
確からしい判断材料があったわけではない。「そうだったらいいのに」という願望が、咲也の胸にさざ波を立てたようだった。
「未散、僕にはあんな感じだよ。……僕にだけは」
夏祭りなんて、本当に忘れていた。暑いし、混んでいるしで、少年心を手放しつつある自分に行く理由なんてないからだ。それなのに、未散に誘われた瞬間、あっさり「行く」と決めてしまった。忘れてしまうくらい些末な機会に、手を伸ばさずにはいられなかった。
どうしてこんなに未散の言葉に弱いのだろう。どうしてこんなに心が揺れるのだろう。……答え合わせの時間は、もうすぐだった。


