僕のキスはニキビを治せる

 放課後。咲也は市ノ瀬と一緒に校門を出た。
 向かう先は、市ノ瀬の家。駅まではいつもの帰り道のため、これということもなかったが、越えてからはさすがにそわそわしてしまう。何気ない会話も、自分の言っていることがヘンになっていないか、心配なくらいだった。
 歩きながら脳裏に浮かぶのは、昨日の未散の言葉、夢の中で見た未散の姿。そして今、市ノ瀬と並んで歩いている自分──まるで世界を空の上から覗き込むみたいに、俯瞰的にそれらを眺めてみると、今にも自分がいる場所が分かりづらくなり、道を失ってしまいそうだった。
 心ここにあらずと言うべきか、気づいたときには、咲也は市ノ瀬の家に着いていた。市ノ瀬は扉を開けると、気だるい声の「ただいま」を口にする。

「あら。おかえり、優馬。早かったじゃない」

 顔を出したのは、市ノ瀬の母だった。ちょうど家事をしていたのか、エプロン姿で、服がいっぱいに詰まった洗濯カゴを運んでいたところだった。

「ちょ、母さん……! いきなり出てくんなよ……!」

 母を見るなり、市ノ瀬は一瞬で真っ赤になって文句を付ける。思春期の男子高校生らしい、素直じゃない態度だ。しかし当の母親はまるで気にする素振りを見せず、それどころかぱっと顔を明るくしてみせて。

「だって、誰か来たのかと思ったら。……まあ、もしかして咲也くん?」

 驚くことに、市ノ瀬の母は咲也のことを知っていた。咲也の方へと向き直り、「優馬からいつも聞いてるのよ」と言及するが、詳しいことは慌てた様子の市ノ瀬に遮られてしまう。とりあえず、咲也は「いつもお世話になっています」と頭を下げることにする。

「お邪魔してよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。礼儀正しい子ねえ」

 市ノ瀬の母はウフフとにこやかにする。その笑い方がひどく市ノ瀬と似ていて、ああこの人は本当に市ノ瀬の母親なんだと、妙な感慨深さがあった。

「優馬。ちゃんと案内してあげなさいよ」
「分かってるって……!」

 市ノ瀬は耳まで赤くすると、母を押し返すようにしてリビングの扉を閉める。そのやり取りが、咲也にはひどく新鮮に見えた。
 母親が家にいること。高い声の「おかえり」が聞こえてくること。この時間にも家に誰かがいて、生活の匂いがすること──それらはすべて、咲也には縁遠いものだったからだ。
 ふと、口の中でじんわりと甘酸っぱさを覚える。それは「羨ましい」というより、シンプルに「いいな」という感情だった。
 自分と似た笑い方をする人がいる家。帰ってすぐに仏壇の前に行かなくていい家。母という存在が、自分の帰りを気にしてくれる家。……それがなんだか、いいなという気持ち。

「……百川。こっち」

 市ノ瀬が歩き出し、咲也はその背中を追う。壁には家族写真が飾られていて、リビングからはテレビの音がかすかに漏れ聞こえる。観葉植物の爽やかな匂いがして、市ノ瀬が育った環境がそのまま空気に滲んでいた。
 明るくて、快活で、誰にでも分け隔てなく接する市ノ瀬。その性格の理由が、少しだけ分かった気がした。

「ここ、オレの部屋」

 市ノ瀬がドアを開ける。咲也が一歩足を踏み入れると、真っ先に整頓されたローテーブル、そして丁寧に整えられた布団が目に入った。勉強机が向き合った壁には部活の写真が貼られており、普段なんだかんだ言っているわりには笑顔が輝いている。

「……意外。綺麗にしてるんだね」
「たまたま昨日掃除したんだ。……本当に、たまたま」

 至って普通なその空間は、自分の部屋とは別の匂いがする。落ち着くようにも思えるし、落ち着かないようにも思える、不思議な感じ。ここの部屋の主たる市ノ瀬すら、その場に合っていないように見えるのだからおかしかった。

「じゃあ……始めるか」

 市ノ瀬の言葉に咲也は小さく頷き、テーブルの前に腰を降ろす。静かな部屋で、二人の勉強会が始まった。
 テーブルに向かって、三十分ほど経った頃だった。市ノ瀬はもう何度目かのため息をつくと、「……百川」とか細い声で名前を呼んだ。

「オレ……マジでテストやばいかもしれねぇ」

 ノートに書かれた数字を見つめながら、市ノ瀬は頭を抱える。見れば、市ノ瀬の表情には絶望を通り越して諦めの色が浮かんでいた。それもそのはずで、ペンは問題を写したきり、肝心の解答は一行も書き進んでいない。

「これ、どこから手つけりゃいいんだよ……」

 漫画だったらガーンという効果音とともに、暗いトーンが周りに貼られているような状況。しょんぼりと肩を落とす市ノ瀬は、完全に〝教えてください先生モード〟へと突入し、咲也にヘルプを求める。けれどそのための勉強会なのだから、むしろそんな気負わないでもらいたいくらいだった。

「大丈夫。ここは、こういう考え方すると分かりやすいよ」

 咲也は付箋を取り出すと、そこにシャーペンでさらっと要点を書き出す。それを市ノ瀬のノートの端に貼り付けると、その箇条書きに従って問題に取り組み始めた。

「まず、この式を分解して……ほら、ここがポイント」

 市ノ瀬は真剣に耳を傾け、咲也のペン先を追う。咲也は相手の理解を確かめることを心がけつつ、説明をゆっくり、丁寧に進めた。決して急かさず、間違っても責めない。少しでも分かりやすくなるように、より良い言葉、より良い一手を探し続ける。

「……あ、分かった」

 答えが出る一歩手前で、市ノ瀬の表情がぱっと明るくなる。咲也が書いていた途中式を、市ノ瀬が続ける形で書き足せば、最後にそれらしい答えが出た。
 解答を確認する。……正解だ。

「すごっ! いや、百川やっぱすげえな……」
「すごくないよ。ただ、なんというか……コツ? を見つけてるだけ」

 淡々と答える咲也を、市ノ瀬はじっと見つめる。しばらく黙って、やがて納得したかのようにうんと頷くと、その口をゆっくり開いた。

「……あのさ」
「ん?」
「百川のこと好きになった理由、ここで言ってもいい?」

 咲也はぴたりとペンを止める。胸が跳ねたような気がしたのは、きっと勘違いではなかった。その証拠と言ってはなんだが、筆記具を握る手のひらが汗をかいていた。

「前にさ、女子が千葉の連絡先聞いてきたときあったろ」
「……ああ」
「あのとき百川、こう言ったじゃん。『そういうのはあいつと仲良くなって、あいつから聞くのがいいんじゃない?』って」

 咲也は記憶を手繰り寄せる。幼馴染ということもあり、「未散の連絡先を聞かれる」ということは、これまでにも何度かあった。だから「ああ。あのときの」とは、断定できない。けれどそれはさほど問題ではなかった。答えはいつも決まっていたからだ。そしてそのときも、たぶん同じことを言ったのだろう。
 なぜ、そのように答えるのか。それはその女子生徒に、未散のことを軽率に扱ってもらいたくなかったからだ。そしてその一方で、咲也は女子生徒が、未散ときちんとした形で仲良くなれたらいいと思っていた。

「あれ聞いたとき、思ったんだよ」

 市ノ瀬は首を傾げ、咲也の顔を覗き込む。

「百川って……優しいんだなって。ただ優しいんじゃなくて、周りを見て、相手が一番傷つかない方法を選ぶんだなって」

 咲也は息を飲んだ。一瞬怯んだみたいだった。まさかここで「優しい(その言葉)」を聞くことになるとは思いもしなかったからだ。

 ──咲也はさ……優しいよね。周りのこと見て、気配って。

 違う。これは優しさではない。何度も言うが、ただ罪悪感を覚えたくないがためのことだった。
 未散のことを勝手に言いふらさないのは、当たり前。未散に好意を持つ相手を疎かにしないことも、当たり前──咲也にとって、両者はともに守るべきことだった。なぜならそれらは()()()()のことだから。守れなければきっと、罪の意識に駆られてしまうことだから。
 だから、その信条を突き通すのだ。連絡先は教えられないと断わった後、「ごめんね」と泣きそうにされても、「は? だる」と煙たがられてしまっても、その子のために──未散のために。
 それが、最善だと信じて。

「だから、好きになった」

 市ノ瀬は照れも隠さず、まっすぐ言った。

「百川にとっては特に優しいこととかじゃないのかもな。当然すぎて、普通みたいな。けど、本当に普通のやつは、それが自分にしかできないことだったとしても、優しくするのを躊躇うもんだよ」

 だって、みんながみんな正義のヒーローというわけではない。目の前で大きな災害が起こったり、運命じみた不幸に見舞われたとき、実際に立ち向かえる人間はごくごくわずかだ。考え方としては、それに近い。

「じゃあ……もしも普通の人が、『未散のチャット教えて』って言われたら、何て答えるの?」
「『知らね』とか、『教えるわけないじゃん』とかじゃね?」
「……なんか、冷たくない?」
「別に冷たくはないんじゃない? それこそ()()。……でも、そこで冷たいって思っちゃうから、やっぱり百川は優しいんだと思う」

「そういうところだよ。オレが好きなところは」。……そう言って、市ノ瀬は笑う。咲也は静かに目を見開いた。その言葉が、表情が、初めて未散に告白されたときと重なったからだ。
 未散も、市ノ瀬も、咲也の優しいところが好きなのだという。咲也にとってはネガティブな側面を、「好き」という言葉で受け止めてくれるという。

「…………」

 昨日の未散の言葉が頭をよぎる。

 ──でも俺、まだ咲也のことが好きだ。もう一回……咲也とやり直したい。

 市ノ瀬の告白は、まっすぐで、真剣で、誠実だった。未散のとは同じようで、全然違う。……でも、胸が震えなかった。そのことに、咲也は気づいてしまった。
 知らず知らず首の裏を(さす)る。どう答えるべきか、言葉を探そうとした瞬間が不自然な間を生むと、その反応だけで、市ノ瀬はなんとなく結果を察したようだった。

「……だよな。まあ、分かってたけど」

 先と同じような笑みを浮かべる。そして、少しだけ冗談めかした声で言った。

「じゃあさ。思い出に……キスしてくれない?」

 咲也は固まった。

「……え。キ、キス?」
「いいだろ? ほっぺにさ、一回だけでいいから」

 市ノ瀬は軽く笑っているが、その目はどこか寂しそうに見える。茶化して言っているわけではないのだ。元より、市ノ瀬はそんなやつじゃない。本気で言っている──キスを求めていることも、このことを思い出にするのだって。
 咲也は呼吸を整え、改めて状況を捉えようとする。市ノ瀬はすぐそばにいて、手を伸ばせば簡単に届く距離だ。そしてその頬に、キスをひとつ落としてほしいのだという。唇ではなく、頬に。たったひとつ。……けれど、それはできなかった。どうしても、できなかった。

「……ごめん」

 咲也は肩を下げ、目を伏せた。どうすればいいか分からないまま、言葉選びに自信がないまま、首を横に振った。

「キスは……できない」

 かすれるほど小さな答えに、市ノ瀬はゆっくりと目を瞬く。「……そっか」と受け止めたその声も、咲也と同じようにかすれて聞こえた。が、それでもこの答えが変わることはない。
 咲也は胸に手を当てる。思い出すのは、未散の唇に触れた感触。そして、腕についたくちづけの跡。これらはずっと消えないまま、咲也にひとつのことを示し続けた。それは咲也がキスできる相手は、未散しかいないということ。
 たとえそれが痛みを取り除くためだったとしても、市ノ瀬のためにはキスできない──そんな、重みを伴うほどはっきりとした事実が、そこにあった。

「……ごめん、市ノ瀬」

 咲也の謝罪に、市ノ瀬はまた笑う。とっくに分かっていたかのように、今度はふわりと、とびきり柔らかい眼差しとともに。

「いいよ。無理言ったの、オレの方だし」
「……でも」
「あー、そんな顔しないで! 大丈夫、マジで全然大丈夫だから!」

 いったいどんな顔をしているのか、自分ではあまり分からない。市ノ瀬を困らせてしまったようだが、当の本人の笑みはより深まるばかりだった。嬉しそうに……満足そうに。

「やっぱ……百川を好きになって良かった」
「……え?」

 しみじみ言われたことに疑問符を浮かべれば、市ノ瀬は「だって、そうだろ」と首を竦めてみせる。

「振ったやつにそんな顔してくれるなんて、優しいじゃん」

 市ノ瀬の言葉を聞きながら、咲也はそっと自身の頬に手を当てる。実際に触ってみても、やはりその表情はよく分からない。けれど市ノ瀬は「それで十分だから」と言う。

「今この瞬間、ちょっとでもオレのこと考えてくれるなら、それでいい」

 咲也は唇をぎゅっと結ぶ。
 相変わらず「優しい」という言葉は難しかった。納得行かない、自分はそんな人間ではない。そう言いたいのに、すぐ目の前の明るい笑顔は、それを許してくれなかったから。
 部屋の空気が静かに落ち着く。でも、案外初めから、こんな感じだったかもしれない。
 次に市ノ瀬が「……話はそれるんだけどさ」と切り出したのは、それからしばらくのことだった。市ノ瀬の手がペンを握れば、自然と咲也も手元のノートに意識を移した。

「数学とは別に、化学も分かんないとこ聞いていい?」
「うん。……もちろん」

 教科書のページをめくる。付箋を貼る。ペンの芯を紙面に走らせる。順調に進む勉強会の中で、勉強以外のことに触れられることは、その先一度もなかった。