僕のキスはニキビを治せる

 翌日。教室に入った瞬間、咲也は窓際の未散と目が合った。
 未散はいつも通り、この教室の一軍連中の真ん中にいた。だから視線が合ったのはほんの一瞬で、何か特別なことをしたわけではない。ただ視線が絡んだというそれだけだったが、咲也の胸は大きく跳ねた。

「……っ!」

 昨日のことが一気に蘇り、顔が熱くなる。慌てて目をそらすと、咲也はさっさと自分の席へ着いた。

(ああ……もう)

 最悪だ、とは思うものの、いったい何が最悪なのかは審議入り。顔の下半分を手で覆い、おっかなびっくり未散の様子を窺えば、もうすっかり周りの話に夢中なようだった。咲也はほっと息を吐く。
 普段となんら変わりない、窓側と廊下側の遠い距離。しかしその隔たりは、これまでとはまったく別物に感じられた。強いて言えば、昨日の距離感が近すぎたあまり、今日はこの席の位置すら近く感じる──そんな違和感が咲也の中にあった。

「はよ、百川」
「あ……おはよう。市ノ瀬」

 少しして、市ノ瀬が教室にやって来る。席に着くなりこちらへ振り向き「何してんの」と尋ねられたので、「れ、冷静さを取り戻している……?」と首を傾げれば、市ノ瀬もまた首を傾げた。

「もしかして……千葉と何かあった?」
「……っ!」

 咲也は再び顔を照らす。「な、なんにもない!」と声を張っては、つかの間にしんとした静けさが降りた教室を見渡す。急に大声を出した咲也に対し、何があったのかと無数の視線が注ぐ中には未散もいて、思わず心の中で叫んだ。……やっぱり最悪! と。

「マジで何かあったの?」

 苦笑しつつ様子を窺ってくる市ノ瀬に、咲也はつんと唇を尖らせる。教室がいつもの賑やかな雰囲気を取り戻しつつある中、「……別に」と呟くと、それは小さい声量もあってかき消されてしまう。かろうじて、前の席の市ノ瀬だけが聞こえたくらいだった。

「いや、そういうときは絶対なんかあった」
「絶対何もありませんでした」
「ないわけ無いだろ。あんな顔で千葉のこと見つめちゃって」

 聞き捨てならない言い回しにギョッとする。うろたえつつ「あ、あんな顔ってどんな顔?」と尋ねると、「それってわざと聞いてんの?」と逆に問い返された。

「オレには絶対見せてくれない顔……みたいな?」
「なにそれ……。僕、そんなキモい顔してた?」

 悪しき風に捉えては、咲也は自分の頬をつねる。その仕草に市ノ瀬はナハハと笑うと、まるで焦点を絞るかのように目を細めた。
「まいったな」と、小さな、小さな声で呟く。それもまた、聞こえたのは後ろの席の咲也だけだろう。

「何がまいったの? 困りごと?」

 聞いてみれば、どうもそういうことではないらしい。市ノ瀬は「百川、」と優しい声で咲也を呼ぶと、なんとはなしにこめかみを掻いた。

「前に言ってた勉強会、今日どう?」

 恥じらうような市ノ瀬に対し、咲也はその瞳を揺らす。

「部活、考査前で休みになったし。うち来いよ」

 一瞬、返事に詰まった。昨日の今日ということもあって、未散の顔が脳裏をよぎったからだ。でも──。

 ──だってオレ……百川のこと、好きだから。

 少し前に、咲也は市ノ瀬から告白された。けれど答えはまだ言えていない。もともと返事は不要と言われ、なかなかタイミングに恵まれなかったこともあるが、自分の中でこれという明確な答えを出せずにいたからだ。

(だって……僕のことが好き、って)

 どういうことなのか、正直あまりよく分からない。けれどこのままではいけないことは分かる。いつかは向き合わなければならないし、必要ないと言われても、答えだけは出さなければならない。
 これは、そのための良い機会だと思った。

「……うん。行くよ」

 そう答えると、市ノ瀬はほっとしたように笑う。その笑顔の奥に、ほんの少しばかり緊張が混ざっているのに気づいたが、あえて指摘するような真似はしなかった。市ノ瀬自身もたぶん、咲也が考えていることに気づいているからだ。それに、昨日の帰り際の咲也を見て、何かを察していたのかもしれない。
 チャイムが鳴り、朝礼が始まる。咲也は慌てて準備を整えながら、ちらりと未散の方を見た。視線の先では、未散もまた鞄の中に手を入れ、教科書やノートを取り出している。こちらには気づいていない──はずだったのだけれど。

「…………」

 不意に向いた視線が咲也を捉える。未散はそのとき、薄らと笑っているかのように見えた。でも、見間違えかもしれない。咲也がはっとしたときには、未散の顔は黒板の方へと向いていたからだ。それでも咲也の胸には、その見たかも分からない顔がずっと残り続けていた。