未散と別れた後、咲也はふらふらとした足取りで駅前を歩いていた。体の奥深く、手を伸ばしても届かないところに何かが詰まっているような気がしてもどかしい。そのせいか、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
気づけば、コンビニの明かりの前に立っていた。何も買うつもりはなかったのに、目に止まったからとそれだけの理由で自動ドアをくぐる。店内を歩いていると、雑誌コーナーの棚が目に入った。その一番手前、誰でも知ってる人気ファッション誌の表紙に、未散がいた。
「…………」
コンビニの白い照明に照らされた未散は、現実離れした美しさで笑っていた。ついさっきまで、海鮮丼屋の個室で向き合っていた未散とはまるで違う。雑誌タイトルや見出しのフォント、特色がふんだんにあしらわれたデザインも相まって、同じ人なのに別世界の住人みたいだった。
咲也は、気づけばその雑誌を手に取っていた。レジへ向かい、二円分のポリ袋とともに受け取る。人差し指と中指の二本で、たった一冊が入ったその袋を提げて帰る家路は、遠回りしていたこともあって妙に距離があった。
「……ただいま」
アパートは真っ暗だった。父の帰りが遅いことは、店を出たときにようやく気づいたチャットで知っていた。咲也はいつものように手を洗い、母への挨拶を済まそうとする。……ああそうだ、ついでに──。
「見ろよ、母さん。未散が表紙の雑誌」
ポリ袋から取り出して、仏壇の前にかざす。だからどうしたという話だが、別にどうということはない。何となく見せたいと思っただけだった。
「あいつ、いつの間にこんな雑誌の表紙飾るようになってたよ。すごくない?」
母から返答はない。当然だ。だってたぶん、もっと前から未散は表紙に姿を見せていた。「すごくない?」なんて今さらすぎる。母が呆れて声も出ないのは不思議ではなかった。
部屋に戻ると、雑に制服を脱ぎ去り、ベッドの上に倒れ込んだ。しばらくシーツに顔をこすりつけては、おそるおそると枕元で雑誌を開く。一ページ目から、大きな文字の「千葉未散」が目に入った。
「…………」
二桁におよぶ巻頭特集。ページをめくるたび、様々な画角から撮られた未散がいた。華やかな衣装、洗練された表情、堂々とした立ち姿。どれも咲也の知っている未散とは違う。
(やっぱり、違う世界の人だ)
そう思った瞬間、錆びた歯車が軋むみたいに胸が痛んだ。
未散は今、華々しい場所で輝いている。その邪魔をしてはいけない。自分なんかが隣にいていいはずがない。……なのに。
──でも俺、まだ咲也のことが好きだ。もう一回……咲也とやり直したい。
未散の言葉が、頭の中で再び蘇る。何度も反響して、そのたびに胸の痛みは積み重なった。
なぜこんなに苦しいのだろう。考え、言語化してみれば、答えはあっさり分かった。本当は自分も、未散とやり直せたらと思っているからだ。けれど、それはできない。未散の世界は遠すぎるうえ、自分みたいな一般人が踏み込んではいけない場所だからだ。……そう、思っていたはずだった。なのに、咲也は未散にキスした。頬にも、唇にも。
「……僕が、未散にキスしたってことは──」
雑誌を閉じながら、咲也は呟く。
「少なからず、気があるってことなんだよな……」
それはいけないことだ。いつしか障害となって、未散の未来を曇らせかねない。そう思うと、胸が縄で縛られたみたいに締めつけられた。……でも、
──まだ分からない? それとも、分からないフリしてんの?
──本当に? それだけじゃないだろ。
未散はそれを責めなかった。むしろ認めてくれさえしたように思う。さもなくば、わざわざあんな風に言うだろうか。あえて言及するような真似をするだろうか。
咲也は無意識に胸をかきむしった。罪悪感と嬉しさが同時に押し寄せて、どうしようもなくなる。そんな中で、咲也の腕についたキスマークが目に留まれば、今度は未散の腕に残った虫刺されと、まるでおそろいみたいなその印とが、頭から離れなくなった。
思わず顔を覆った。どうしてこんなに苦しいのか。どうしてこんなに嬉しいのか。答えは分かっている。ずっと前から、本当は分かっていた。
「……未散が、好きだ」
諦めようとしても、諦められない。その気持ちを抱えたまま、どうすればいいのか──咲也が分からないのは、それだけだった。
◇ ◇ ◇
その晩、咲也は夢を見た。まるで昔の記憶がそのまま流れているような、やけに鮮明な夢だった。
最初に浮かんだのは、中学の頃の教室だった。クラスメイトとどうでもいいことで、どうでもいい喧嘩をしていたときのこと、その場の一人が咲也の家庭のことを嘲ったのだった。
突然のことに、ひどく驚いたのを覚えている。喧嘩の内容に、咲也がひとり親なことはまったく関係なかったからだ。にもかかわらず、父子家庭だというだけで心ない言葉を投げられた。理不尽すぎて、何も言い返せなかった。けれどそんなとき、未散が迷いなく前に出てきてくれて。
「それ、今のどこに関係あったんだよ」
声を失った咲也の代わりに、未散は声を張り上げた。
「咲也に謝れ。それだけは絶対に違うだろ」
まっすぐで強い、芯のある声で、未散は咲也のために怒ってくれた。それは未散が幼馴染で、咲也の家が父子家庭になる前のことも知っていたからかもしれない。でもそれ以上に、未散自身がまっすぐで強い、芯のある人間だから言えたのだろう。周囲の様子を窺ってばかりの、諦めがちで臆病者な咲也は、とてもそんな風には振る舞えないから。
夢の中の咲也は、当時の自分と同じように胸が熱くなる。あの瞬間から──いや、あの瞬間を契機に、咲也は自分が、未散を意識していることに気づいたのだ。
場面がふっと変わる。今度は放課後の帰り道。夕陽に照らされる中で、未散は不意にそれを口にした。
「咲也のことが好きだ。俺と付き合ってほしい」
唐突な告白だった。だからそのときも咲也は驚いて、すぐに答えることができなかった。自分のどこに好きになる要素があったのか、ピンとこなかったのもある。しかしそんな咲也に、未散はくすりと笑ってみせて。
「咲也はさ……優しいよね。周りのこと見て、気配って」
一瞬、それはどうだろうと思った。なぜならそれは、咲也自身がネガティブに思っていることだったからだ。
例えば咲也は、困っている人がいれば助けようとするだろう。協力を求める人がいれば力になろうと思うし、雨に濡れる人がいれば傘を傾ける。が、咲也にしてみれば、これらは「優しさ」という枠組みには当て嵌らなかった。きわめて当たり前な親切で、わざわざ評価されるようなものではなかった。咲也がそうするのは、それが「当然」であり、そしてしなかったときに罪悪感を覚えるのが嫌だったからだ。
「うん。だから……そういうところだよ。俺が好きなところは」
未散は言う。咲也が「当然」と思っている優しさや親切は、決して当たり前ではないことを。普通の人は、仮に優しさや親切を働かなかったとしても、罪の意識を感じることはないことを。だからこそ、未散は咲也のそういうところが好きなのだという。けれど説明されたところで、やはり咲也は理解できなかった。
自分より優しい人も、気を配れる人も、世の中には五万といる。自分を特別好きになってもらえる理由ではない以上、未散の話は納得できなかった。だって、もし自分より優しい人が現われたら、きっと未散はそちらを選んでしまうから。そしてそうなってしまったら、胸に秘める未散への気持ちは、たぶんぐちゃぐちゃになってしまうから。
「じゃあ……俺とは付き合えない?」
ズキリと胸が痛む。未散の問いは、少しばかりずるかった。まず、そういう言い方をされると、咲也は断れないからだ。それに咲也も、少なからず未散に気がある。未散のあの、綺麗な顔立ちに切なさが帯びていくのを見れば、拒否するなんてできるはずがなかった。
(……違う)
それは単なる言い訳でしかない。本当のところ、咲也は素直に嬉しかったのだ。未散に「好き」と言ってもらえて、シンプルに嬉しかった。幸福感は溢れるほどに胸を満たし、世界をワントーン明るく見せるほど。でも自分と未散が釣り合うのか不安で、その防衛反応が出たにすぎなかった。
実際、諦めていたのだろう。自分は臆病者で、見た目も人間性も自分よりずっとかっこいい未散と付き合えるはずがない、と。しかし今という瞬間は訪れた。なら、初めから咲也に拒む理由なんて無かった。
「つ、付き合う。僕も……未散のことが好きだから」
そうして二人は付き合い始めた。ともに初めての交際ということ、そして同性を理由に周りに隠していたこともあり、手探りだらけだったように思う。それでもお互いの「好き」という言葉を信じていたから、日々は穏やかで心地よかった。
咲也は未散のまっすぐなところが好きだった。未散も、咲也の素直でない気質を見てくれていた。それが嬉しくて、誇らしくて、夢の中の咲也はよく笑っていた。未散も、あの頃はすぐ隣で笑ってくれていた。教室、帰り道、夜のバッティングセンターに、貯金して行った遊園地──。あらゆる時と場所で二人の笑顔が輝く。なのに、場面は無慈悲にも次々移り変わってしまう。鮮やかな色彩が褪せていけば、それは未散がモデルとして輝き始めた頃の記憶だった。
当時のクラスメイトがオーディションに応募したことを契機に、未散は芸能界に足を踏み入れた。それはほんの小さな一歩だったはずだが、まじめな未散は仕事にもきちんと向き合い、着実に実力を形成していった。雌伏のときを過ごす中、あるときSNSに投稿された「ネクストブレイクタレント」を特集するポストがバズったことで注目され、一躍時の人に。付き合い始めてから約一年が過ぎた頃には、未散はモデルの仕事に追われるようになった。
初めは咲也も応援していた。「もっとかっこいい未散の姿が見たい」とか、そんなことを言った記憶がある。でも、未散が撮影で学校を早退したり、雑誌やソーシャルメディアでの露出が増えるたびに周囲の反応が変わっていったりすると、だんだん気が気ではなくなっていった。未散のいる世界がどんどん遠くなっていくことに、不安を覚えだしたのだ。
夢の中の咲也は、胸が苦しくなった。隣にいるのに、手が届かない。隣にいることで、未散の可能性を閉ざしてしまう気がして恐ろしかった。そして──別れの日の記憶が、目の前に落ちてきた。
「や、やっぱり……無理だ」
きっかけは、クラスの女子たちが未散のことを熱狂的に話していたこと。これまでもそういう場面は何度かあったから、突発的にダメになったわけではない。けれど未散を愛する人が目に見えて増える中で、自分のような存在が恋人であることの劣等感と、自分だけのものにはなってくれない嫉妬心とで、これ以上の我慢は耐えられなくなってしまったのだ。
告白されたときと同じ帰り道。無理だと伝えたそのとき、未散は驚いたように目を見開いて、「待って、咲也──」と引き止めようとした。
もしかしたら、話をしようとしてくれたのかもしれない。「心配しないで」、「大丈夫だから」と、言ってくれようとしたのかもしれない。しかし咲也は限界だった。未散を好きでいることが、苦しかったのだ。
「ごめん。もう、別れる。……未散とは、これ以上付き合えない」
ぴしゃりと言い放ったのは、理不尽で、突然で、未散が拒む隙もない別れ。そうして未散の手が伸びる前に、咲也は背を向けたのだった。すぐにでも未散の隣から離れて、自身の中を巣食うコンプレックスから逃げ出したかったから。
未散が「好き」だと言ってくれた優しさを欠いた自分を、認めたくなかったから。
夢の中の未散は、追いかけてこなかった。ただぼんやりとその場に立ち尽くし、痛々しい表情で咲也を眺めていた。反対に咲也は、ずっと胸を押さえて走っていた。未散の世界から、自分の気持ちから、その全部から──必死に、逃避するかのように。でもどれだけ走っても、未散の姿が消えなかった。あの日の顔が、延々と瞼の裏に焼きついていた。
やがて、視界がじわじわと薄らいでいく。景色がゆっくりと溶けていき、別れの日の記憶が何もない空間へと置き換われば、咲也はそこにひとり佇んでいた。
静かな闇の中で、ふと気配がする。振り向くと、少し離れた場所に未散がいた。中学の頃ではなく、今の未散だ。その表情は今日、海鮮丼の店を出て後に街灯の下で見たときと同じ、柔らかいもの。でもその未散は、何も言わなかった。咲也の方を見ているばかりだった。
「……未散」
咲也は未散のいる方へと歩き出そうとした。けれど足が重くて、うまく前に進めない。未散までの距離はちっとも縮まらなかった。
直感した──これは現在の、自分と未散の間の距離だ、と。別れてからというもの、二人の隔たりはここまで広がってしまっていた。それこそ、手を伸ばしたって届かないくらいに。歩み寄ろうとしても、もはや歩み寄れないくらいに。
(……本当に?)
不意に気がつく。それは咲也が未散を拒んだことはあっても、その逆はなかったこと。つまりここまで距離が開いたのは、咲也がその分だけ未散から離れた、ということだった。
──少しでいいから考えて。……お願い、咲也。
未散はずっと、そこにいた。咲也に近づくことも、離れることもせず、そこにい続けていた。もしや待ってくれていたのだろうか。今日の未散の言葉を聞いて、そんな浮ついた発想が出てくる。
(じゃあ、僕が近づいたら……)
咲也はもう一度、一歩を踏み出す。足元はやっぱり重かった。だって、今さら近づきたいなんて、虫が好すぎる。恐ろしくなって、腰が引けてしまわずにはいられない。でも、それでも──。
──もう一回……咲也とやり直したい。
その一歩は、ほんのわずかだった。もはや足踏みした程度、縮まったとは到底言えない。しかし咲也には、この真っ暗な世界を恐れる必要はないと思える、大きな一歩に感じられた。
向こう側に立つ未散は何も言わない。ただ、そこに立っているだけ。けれど咲也のことを見つめていた。
咲也はぎゅっと手を握りしめる。未散の見えるさらに先で、夢はゆっくりと白んでいった。
気づけば、コンビニの明かりの前に立っていた。何も買うつもりはなかったのに、目に止まったからとそれだけの理由で自動ドアをくぐる。店内を歩いていると、雑誌コーナーの棚が目に入った。その一番手前、誰でも知ってる人気ファッション誌の表紙に、未散がいた。
「…………」
コンビニの白い照明に照らされた未散は、現実離れした美しさで笑っていた。ついさっきまで、海鮮丼屋の個室で向き合っていた未散とはまるで違う。雑誌タイトルや見出しのフォント、特色がふんだんにあしらわれたデザインも相まって、同じ人なのに別世界の住人みたいだった。
咲也は、気づけばその雑誌を手に取っていた。レジへ向かい、二円分のポリ袋とともに受け取る。人差し指と中指の二本で、たった一冊が入ったその袋を提げて帰る家路は、遠回りしていたこともあって妙に距離があった。
「……ただいま」
アパートは真っ暗だった。父の帰りが遅いことは、店を出たときにようやく気づいたチャットで知っていた。咲也はいつものように手を洗い、母への挨拶を済まそうとする。……ああそうだ、ついでに──。
「見ろよ、母さん。未散が表紙の雑誌」
ポリ袋から取り出して、仏壇の前にかざす。だからどうしたという話だが、別にどうということはない。何となく見せたいと思っただけだった。
「あいつ、いつの間にこんな雑誌の表紙飾るようになってたよ。すごくない?」
母から返答はない。当然だ。だってたぶん、もっと前から未散は表紙に姿を見せていた。「すごくない?」なんて今さらすぎる。母が呆れて声も出ないのは不思議ではなかった。
部屋に戻ると、雑に制服を脱ぎ去り、ベッドの上に倒れ込んだ。しばらくシーツに顔をこすりつけては、おそるおそると枕元で雑誌を開く。一ページ目から、大きな文字の「千葉未散」が目に入った。
「…………」
二桁におよぶ巻頭特集。ページをめくるたび、様々な画角から撮られた未散がいた。華やかな衣装、洗練された表情、堂々とした立ち姿。どれも咲也の知っている未散とは違う。
(やっぱり、違う世界の人だ)
そう思った瞬間、錆びた歯車が軋むみたいに胸が痛んだ。
未散は今、華々しい場所で輝いている。その邪魔をしてはいけない。自分なんかが隣にいていいはずがない。……なのに。
──でも俺、まだ咲也のことが好きだ。もう一回……咲也とやり直したい。
未散の言葉が、頭の中で再び蘇る。何度も反響して、そのたびに胸の痛みは積み重なった。
なぜこんなに苦しいのだろう。考え、言語化してみれば、答えはあっさり分かった。本当は自分も、未散とやり直せたらと思っているからだ。けれど、それはできない。未散の世界は遠すぎるうえ、自分みたいな一般人が踏み込んではいけない場所だからだ。……そう、思っていたはずだった。なのに、咲也は未散にキスした。頬にも、唇にも。
「……僕が、未散にキスしたってことは──」
雑誌を閉じながら、咲也は呟く。
「少なからず、気があるってことなんだよな……」
それはいけないことだ。いつしか障害となって、未散の未来を曇らせかねない。そう思うと、胸が縄で縛られたみたいに締めつけられた。……でも、
──まだ分からない? それとも、分からないフリしてんの?
──本当に? それだけじゃないだろ。
未散はそれを責めなかった。むしろ認めてくれさえしたように思う。さもなくば、わざわざあんな風に言うだろうか。あえて言及するような真似をするだろうか。
咲也は無意識に胸をかきむしった。罪悪感と嬉しさが同時に押し寄せて、どうしようもなくなる。そんな中で、咲也の腕についたキスマークが目に留まれば、今度は未散の腕に残った虫刺されと、まるでおそろいみたいなその印とが、頭から離れなくなった。
思わず顔を覆った。どうしてこんなに苦しいのか。どうしてこんなに嬉しいのか。答えは分かっている。ずっと前から、本当は分かっていた。
「……未散が、好きだ」
諦めようとしても、諦められない。その気持ちを抱えたまま、どうすればいいのか──咲也が分からないのは、それだけだった。
◇ ◇ ◇
その晩、咲也は夢を見た。まるで昔の記憶がそのまま流れているような、やけに鮮明な夢だった。
最初に浮かんだのは、中学の頃の教室だった。クラスメイトとどうでもいいことで、どうでもいい喧嘩をしていたときのこと、その場の一人が咲也の家庭のことを嘲ったのだった。
突然のことに、ひどく驚いたのを覚えている。喧嘩の内容に、咲也がひとり親なことはまったく関係なかったからだ。にもかかわらず、父子家庭だというだけで心ない言葉を投げられた。理不尽すぎて、何も言い返せなかった。けれどそんなとき、未散が迷いなく前に出てきてくれて。
「それ、今のどこに関係あったんだよ」
声を失った咲也の代わりに、未散は声を張り上げた。
「咲也に謝れ。それだけは絶対に違うだろ」
まっすぐで強い、芯のある声で、未散は咲也のために怒ってくれた。それは未散が幼馴染で、咲也の家が父子家庭になる前のことも知っていたからかもしれない。でもそれ以上に、未散自身がまっすぐで強い、芯のある人間だから言えたのだろう。周囲の様子を窺ってばかりの、諦めがちで臆病者な咲也は、とてもそんな風には振る舞えないから。
夢の中の咲也は、当時の自分と同じように胸が熱くなる。あの瞬間から──いや、あの瞬間を契機に、咲也は自分が、未散を意識していることに気づいたのだ。
場面がふっと変わる。今度は放課後の帰り道。夕陽に照らされる中で、未散は不意にそれを口にした。
「咲也のことが好きだ。俺と付き合ってほしい」
唐突な告白だった。だからそのときも咲也は驚いて、すぐに答えることができなかった。自分のどこに好きになる要素があったのか、ピンとこなかったのもある。しかしそんな咲也に、未散はくすりと笑ってみせて。
「咲也はさ……優しいよね。周りのこと見て、気配って」
一瞬、それはどうだろうと思った。なぜならそれは、咲也自身がネガティブに思っていることだったからだ。
例えば咲也は、困っている人がいれば助けようとするだろう。協力を求める人がいれば力になろうと思うし、雨に濡れる人がいれば傘を傾ける。が、咲也にしてみれば、これらは「優しさ」という枠組みには当て嵌らなかった。きわめて当たり前な親切で、わざわざ評価されるようなものではなかった。咲也がそうするのは、それが「当然」であり、そしてしなかったときに罪悪感を覚えるのが嫌だったからだ。
「うん。だから……そういうところだよ。俺が好きなところは」
未散は言う。咲也が「当然」と思っている優しさや親切は、決して当たり前ではないことを。普通の人は、仮に優しさや親切を働かなかったとしても、罪の意識を感じることはないことを。だからこそ、未散は咲也のそういうところが好きなのだという。けれど説明されたところで、やはり咲也は理解できなかった。
自分より優しい人も、気を配れる人も、世の中には五万といる。自分を特別好きになってもらえる理由ではない以上、未散の話は納得できなかった。だって、もし自分より優しい人が現われたら、きっと未散はそちらを選んでしまうから。そしてそうなってしまったら、胸に秘める未散への気持ちは、たぶんぐちゃぐちゃになってしまうから。
「じゃあ……俺とは付き合えない?」
ズキリと胸が痛む。未散の問いは、少しばかりずるかった。まず、そういう言い方をされると、咲也は断れないからだ。それに咲也も、少なからず未散に気がある。未散のあの、綺麗な顔立ちに切なさが帯びていくのを見れば、拒否するなんてできるはずがなかった。
(……違う)
それは単なる言い訳でしかない。本当のところ、咲也は素直に嬉しかったのだ。未散に「好き」と言ってもらえて、シンプルに嬉しかった。幸福感は溢れるほどに胸を満たし、世界をワントーン明るく見せるほど。でも自分と未散が釣り合うのか不安で、その防衛反応が出たにすぎなかった。
実際、諦めていたのだろう。自分は臆病者で、見た目も人間性も自分よりずっとかっこいい未散と付き合えるはずがない、と。しかし今という瞬間は訪れた。なら、初めから咲也に拒む理由なんて無かった。
「つ、付き合う。僕も……未散のことが好きだから」
そうして二人は付き合い始めた。ともに初めての交際ということ、そして同性を理由に周りに隠していたこともあり、手探りだらけだったように思う。それでもお互いの「好き」という言葉を信じていたから、日々は穏やかで心地よかった。
咲也は未散のまっすぐなところが好きだった。未散も、咲也の素直でない気質を見てくれていた。それが嬉しくて、誇らしくて、夢の中の咲也はよく笑っていた。未散も、あの頃はすぐ隣で笑ってくれていた。教室、帰り道、夜のバッティングセンターに、貯金して行った遊園地──。あらゆる時と場所で二人の笑顔が輝く。なのに、場面は無慈悲にも次々移り変わってしまう。鮮やかな色彩が褪せていけば、それは未散がモデルとして輝き始めた頃の記憶だった。
当時のクラスメイトがオーディションに応募したことを契機に、未散は芸能界に足を踏み入れた。それはほんの小さな一歩だったはずだが、まじめな未散は仕事にもきちんと向き合い、着実に実力を形成していった。雌伏のときを過ごす中、あるときSNSに投稿された「ネクストブレイクタレント」を特集するポストがバズったことで注目され、一躍時の人に。付き合い始めてから約一年が過ぎた頃には、未散はモデルの仕事に追われるようになった。
初めは咲也も応援していた。「もっとかっこいい未散の姿が見たい」とか、そんなことを言った記憶がある。でも、未散が撮影で学校を早退したり、雑誌やソーシャルメディアでの露出が増えるたびに周囲の反応が変わっていったりすると、だんだん気が気ではなくなっていった。未散のいる世界がどんどん遠くなっていくことに、不安を覚えだしたのだ。
夢の中の咲也は、胸が苦しくなった。隣にいるのに、手が届かない。隣にいることで、未散の可能性を閉ざしてしまう気がして恐ろしかった。そして──別れの日の記憶が、目の前に落ちてきた。
「や、やっぱり……無理だ」
きっかけは、クラスの女子たちが未散のことを熱狂的に話していたこと。これまでもそういう場面は何度かあったから、突発的にダメになったわけではない。けれど未散を愛する人が目に見えて増える中で、自分のような存在が恋人であることの劣等感と、自分だけのものにはなってくれない嫉妬心とで、これ以上の我慢は耐えられなくなってしまったのだ。
告白されたときと同じ帰り道。無理だと伝えたそのとき、未散は驚いたように目を見開いて、「待って、咲也──」と引き止めようとした。
もしかしたら、話をしようとしてくれたのかもしれない。「心配しないで」、「大丈夫だから」と、言ってくれようとしたのかもしれない。しかし咲也は限界だった。未散を好きでいることが、苦しかったのだ。
「ごめん。もう、別れる。……未散とは、これ以上付き合えない」
ぴしゃりと言い放ったのは、理不尽で、突然で、未散が拒む隙もない別れ。そうして未散の手が伸びる前に、咲也は背を向けたのだった。すぐにでも未散の隣から離れて、自身の中を巣食うコンプレックスから逃げ出したかったから。
未散が「好き」だと言ってくれた優しさを欠いた自分を、認めたくなかったから。
夢の中の未散は、追いかけてこなかった。ただぼんやりとその場に立ち尽くし、痛々しい表情で咲也を眺めていた。反対に咲也は、ずっと胸を押さえて走っていた。未散の世界から、自分の気持ちから、その全部から──必死に、逃避するかのように。でもどれだけ走っても、未散の姿が消えなかった。あの日の顔が、延々と瞼の裏に焼きついていた。
やがて、視界がじわじわと薄らいでいく。景色がゆっくりと溶けていき、別れの日の記憶が何もない空間へと置き換われば、咲也はそこにひとり佇んでいた。
静かな闇の中で、ふと気配がする。振り向くと、少し離れた場所に未散がいた。中学の頃ではなく、今の未散だ。その表情は今日、海鮮丼の店を出て後に街灯の下で見たときと同じ、柔らかいもの。でもその未散は、何も言わなかった。咲也の方を見ているばかりだった。
「……未散」
咲也は未散のいる方へと歩き出そうとした。けれど足が重くて、うまく前に進めない。未散までの距離はちっとも縮まらなかった。
直感した──これは現在の、自分と未散の間の距離だ、と。別れてからというもの、二人の隔たりはここまで広がってしまっていた。それこそ、手を伸ばしたって届かないくらいに。歩み寄ろうとしても、もはや歩み寄れないくらいに。
(……本当に?)
不意に気がつく。それは咲也が未散を拒んだことはあっても、その逆はなかったこと。つまりここまで距離が開いたのは、咲也がその分だけ未散から離れた、ということだった。
──少しでいいから考えて。……お願い、咲也。
未散はずっと、そこにいた。咲也に近づくことも、離れることもせず、そこにい続けていた。もしや待ってくれていたのだろうか。今日の未散の言葉を聞いて、そんな浮ついた発想が出てくる。
(じゃあ、僕が近づいたら……)
咲也はもう一度、一歩を踏み出す。足元はやっぱり重かった。だって、今さら近づきたいなんて、虫が好すぎる。恐ろしくなって、腰が引けてしまわずにはいられない。でも、それでも──。
──もう一回……咲也とやり直したい。
その一歩は、ほんのわずかだった。もはや足踏みした程度、縮まったとは到底言えない。しかし咲也には、この真っ暗な世界を恐れる必要はないと思える、大きな一歩に感じられた。
向こう側に立つ未散は何も言わない。ただ、そこに立っているだけ。けれど咲也のことを見つめていた。
咲也はぎゅっと手を握りしめる。未散の見えるさらに先で、夢はゆっくりと白んでいった。


