僕のキスはニキビを治せる

 放課後の教室は、昼間の賑やかさが嘘のように静まりかえっていた。
 六月には珍しい晴れの日。マンダリン・オレンジの西日が差し込む窓際だけが明るくて、机に腰をもたれる千葉(ちば)未散(みちる)の姿は、まるで雑誌の一ページのようだった。百川(ももかわ)咲也(さくや)は忘れ物を取りに戻っただけのつもりだったのに、偶然にもその人物と視線をかち合わせてしまう。

「……咲也」

 名前を呼ばれたのは久しぶりだった。それもそのはず、未散はモデルとして忙しく、学校にいる時間も少ないからだ。幼馴染なのに、最近はろくに話すことすら減っていた。
 とうに自分とは違う世界の人間になってしまった──咲也はそう思っていた。

「どうしたの、こんな時間まで」

 咲也が尋ねると、未散は居心地悪そうに視線をそらした。そっと頬に触れては、悩ましげなため息をひとつ。

「ここ、ニキビできちゃってさ」
「ニキビ?」

 ずいぶんと弱々しげな様子に首を傾げる。たかがニキビ程度でそれほど落ち込むなんて、と思っていれば、未散は「スキンケアには気を遣っていたんだけど」と肩を竦めてみせた。

(ああ……そういうことか)

 咲也は詳しくないなりになんとなく納得する。写りが命のモデルにとって、たしかにニキビは深刻な問題だった。たったひとつだろうと、未散がこうして落ち込んでしまうのも無理はない。

「しかも今日の夜、撮影があるんだ。よりにもよって、こんな時に……マネージャーに怒られちゃうかな」
「それは……大変だね」

 未散の指先が触れている場所に、小さな赤い点が見える。普通の男子なら気にも留めないようなものなのに、未散は本気で困っているらしかった。その美しい横顔に、憂いの影が差してしまうほどには。
 ふと、咲也は胸の奥がざわつくのを覚える。「自分にしかできないことがある」──それに気づいた瞬間、自然と口が動いていた。

「じゃあさ、そのニキビ……僕が治してあげようか?」
「……え?」

 咲也の唇からこぼれたのは、そんな突拍子もない提案。未散が驚きに目を見開けば、部屋の空気が立ちどころに変わるのが分かった。

「本当に?」

 未散の声はいつも通りのはずなのに、不思議とどこか頼りなげに聞こえた。言葉の端に年相応の、それでいて懐かしい響きが滲む。

「どうやって?」
「……どうにかして」
「なんだそれ」

 咲也の答えに、未散はくくっとおかしそうに笑う。端正な顔立ちが花咲くようなそれはたしかに綺麗で、けれどわずかに覗くあどけなさが愛らしかった。

「じゃあ……お願いしようかな」

 未散がゆっくりと近づいてくる。夕陽の色を背中に、足元の影が長く伸びれば、未散の姿勢の良い長身が映えるようだった。

「目、閉じて」
「……目?」

 言われるまま瞼を閉ざす未散を、咲也はじっと見つめる。艶のある黒髪のセンターパート、その下に覗く眉は凜々しく、一方で睫毛は可憐に長い。表情ひとつで甘くも色っぽくもなる完全なルックスを前にすると、咲也は高さを合わせようと背伸びした。手を差し出し、頬に触れると、きめの整った肌がひどく熱く感じられた。
 この温かさは自分のものか、それとも未散のものか。そもそも、こんな距離で未散を見るのはいつぶりだろうか。数年くらい前まで当たり前だったのに、今は息が詰まりそうだった。……ああだって、今や未散はこの学校の王子様どころか、〝国民の初恋担当〟とまで言われるほど、遠い存在になっていたから。
 咲也は赤くなった小さな点に唇を寄せる。そっと触れた瞬間、未散が小さく息を飲むのが分かった。時間にしてほんの数秒足らず。口先を離すと、赤みは既に薄くなっていた。

「……治った」

 咲也の呟きに未散が目を開ける。瞳を揺らしつつ「……今、何して──」と言いかける未散を遮り、「ほら、触ってごらん。治ってるよ」と確認を促せば、すらりと伸びた指がニキビのあった場所に触れた。

「そんな、でも……え?」

 驚きと困惑に、未散は思わず瞠目する。視界に咲也を捉え「……ねえ」と呼びかけると、未散はもう一度問いを口にした。

「今……俺にキスした?」

 高い鼻筋をほんのり赤く染める未散に、咲也は何も言わないまま目瞬きだけを重ねる。
 未散の問いを耳にした瞬間、胸の奥がツンと痛んだのは、きっと気のせいではなかった。