石そそく垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも (志貴皇子 巻八 一四一八)
春、未だし頃。
空高く飛び交う鳥の鳴き声が、冷たい風がやがて甘やかな青風に変わることを忙しなく報せている。常磐なる杉の木からこぼれる光も日に日に和らいだものになり、大御和の神奈備も、その御姿を新たな緑に染め直していく。
淡い春光を身に浴び、清水が入った甕を両腕で抱えて木々の隙間に覗く空を仰ぎみているのは、才ある姫巫女だった。娘はやわらかな陽射しのような麗容の持ち主であり、ひとつに束ね、背に流した緑の黒髪も嫋やかに美しい。
姫巫女は、ふと、神社のわき道に目を向けた。道は緩やかな曲がり道だが、草木が邪魔をして見通しはよくない。
何者かが駆けてくる気配がした。石を蹴る足音が近づいてくる。
しかし、姫巫女である娘は慌てふためいて立ち去ることはしなかった。
「お姉さま! お姉さま!」
と、その声が聞こえたからだ。
息せき切って駆けてきたのは、十歳ほどの年頃の童女だった。
振り分け髪は、櫛を通せばさぞや美しいだろうに、腰まで伸ばした黒髪は、今はすっかり乱れ、草までひっかかっている。
少女は頬を紅潮させ、何やら興奮しきった様子だ。「お姉さま、聞いて」と息も整えずに声を発する。発せられた声は小鳥の鳴き声にも似て、少々甲高く、忙しない。
「お姉さま、聞いてください、とても……とても素敵なことがあったのです」
「まあ、あなたったら、またそんな風に男の子のように走って。裳裾もすっかり汚れてしまっているわ」
そう窘めてはみるのだが、どうしても厳しくはしきれない。つい笑みがこぼれてしまう。
「ほら、髪もすっかり乱れて。そういえば、今日は髪洗いには吉日だったはず。さっそく」
「お姉さま、わたし、三輪山の神様にお会いしましたの!」
姉の言葉を遮って、いずれ巫女としての教育を受けることになるだろう少女は目を輝かせてそう言った。
その手に、一輪の白菊の花を持っている。他愛もない野の菊だが、まるで神宝のごとく大切そうに胸に押し抱いている。
姉巫女は、あどけない妹を愛しげに見つめ返した。
「それはよかったこと。この時期はおみいさまのお姿を拝見しやすいと、お父様からお聞きしたことがあるわ」
「違うわ、お姉さま。蛇のお姿ではありませんでしたの!」
「え?」
「ヒトのお姿をしていらっしゃったの。とっても美しい殿方で、それにお優しくていらして、このお花を採っていただいたの」
自慢げに、手に握り締めていた白菊を、姉に差し出した。
「まあ、額田の君」
「……いえ、本当は、三輪の神様であられるのかは、分からないけれど」
ヌカタ、と呼ばれた少女は屈託なく笑う。夢見るようなまなざしを空へと向けて語を続けた。
「けれど、もしも三輪の神様……大物主神様がヒトのお姿でご降臨なさったら、きっとあのような方なのではないかしら」
あんなにもお美しく凛々しい殿方は初めて見たんですもの、と未来の姫巫女は無邪気に笑う。
姉巫女は苦笑で応えるばかりだった。
「あとになっていらした随身の方が、アヤノミコ様とお呼びになってたわ、たしか」
「まぁ……」
姉巫女は目を見開いた。
「それはもしや、今上の…… 天皇の……皇子様でいらっしゃったのでは?」
「あ、そういえば。ミコ様といえば、そうですよね」
今頃になってハタと気付いたらしい少女は目を瞬かせ、小首を傾げた。
「でも、皇子様がこのような所においでになるなんて。ずいぶんと気軽そうないでたちでしたけど……」
「 鎮花祭も間近ですから、この付近の警備を、皇子様御自ら行い、巡按しておられたのかもしれませんね。それよりも額田の君、皇子様に花を採っていただいたの?」
「だって、神拝所に飾る花がほしかったんですもの」
そう言った少女の口調はいかにも暢気で恐れ気がない。
花を探して散策していると、手頃な花を川のほとりに見つけた。ところが花は川向こうにあり、川を飛び越えるか水に入って渡るか、考えていたところへ、「皇子様」が現れたのだという。花が欲しいのかと尋ねられ、頷くと、ならば私が採ってしんぜようと申し出てくださった、というのだ。
「それで採っていただいたの?」
「はい。笑って、皇子様は軽々と川を飛び越して、花を採ってくださいました」
「あなたらしいこと」
姉巫女は、物おじしない無邪気な妹を声高に窘めたりはしない。懐きやすい妹の人柄を多少心配しつつも、誰よりも好ましく思っているのだ。
それに、まだこの幼い妹には、「皇子」がいかに尊貴な身分であるかは理解しにくいだろう。まだ「世間」を知らぬ稚苗のような少女なのだ。
それゆえに、神の存在が身近に感じられるのかもしれない。
「今朝、起きた時にふと、とても良い事が起こるって予感があったんです。素敵な何かに出逢えるような……。だから、やっぱりあの方は三輪山の神様の化身でいらっしゃったんだわ。こんなにも胸がどきどきするんですもの!」
天真爛漫なこの妹は、豊かな感受性の持ち主であり、同時に霊的な感能力が高い。その心は常に神界に向けられているがごとく、自然の理ともいえる神意を、ごく当たり前のこととして見顕すことができる。
巫女としての天稟に恵まれている少女だが、それを自覚するにはまだ幼すぎ、そして無邪気すぎた。
少女は胸を高鳴らせる「予感」に喜びを抑えきれずに、高らかに「予言」した。
「わたしはいつかまたあの方とお会いしますわ。ええ、きっと!」
光を纏う少女は、まだ地に落ちる影の存在を知らなかった。
姉巫女の名は 鏡王女 。
そして妹の名は、 額田王。
やがて二人は、時代の大きなうねりに呑み込まれ、数奇な運命を辿ることとなる。
光と影とを共に携えて。



