女ー男じゃない!

 砂埃と熱気に満ちたグラウンドとは対照的に、集会テントの影は、時間の流れまで違うようだった。
 外の喧騒は向こう側に押しやられ、拡声器の指示や歓声も、くぐもった音みたいに耳へ流れてくる。

 テントの中はひんやりとしていて、紙の匂いに、土埃の匂いが微かに混じっている。
 簡易の机と椅子、その中央には、山のようなスコア表と、それに黙々と向き合う志織の背中があった。

「正直、圧倒されちゃった」

 何気なく口にすると、志織はペンを動かす手を止めた。

「分かるよ。ああいうの、慣れてないと眩しいよね」

「眩しい、っていうか……」

 その言葉にくすぐったさを覚えて、視線を巡らせた。

「なんか、みんなが一つになってて。見てるだけなのに、私までドキドキしちゃって」

「うん。男子たち、かっこいいよね」

 志織の、軽い調子なのに的確で逃げ場のないその言い方に、私は思わず頷いてしまった。

「うん、すっごく!」

「だよね」

 志織は目を細めると、再びノートに視線を落として、迷いのないペン運びで数字を書き込み始めた。

 私が隣に立っても、その動きは一切乱れない。
 まるで、人の気配など最初から存在しないかのようだった。

 並んだ数字は、規則正しく、整然としていて、それは人の記録というより、部品の稼働ログに近い印象を受ける。

「すごいね、これ」

 気づけば、私も隣に腰を下ろしていた。

「みんなのスコアなの?」

 身を乗り出すように覗き込むと、志織はようやく顔を上げた。
 その瞳は涼しく澄んでいて、少しも疲れを見せていない。

「うん、そう。連携の効率、負荷への耐性。個々の数値と、集団としての安定度」

 志織はノートに記録した数字を端末に入力すると、表示されたグラフをこちらへ向けた。

「こうやって俺たちが頭を使っているから、男子たちも安心して、身体を動かすことだけに集中できるでしょ?」

 その言葉は、さっき私がグラウンドで感じた直感と、ぴたりと重なった。

 誰かが合図を出す前に、誰かが動く。
 考える前に、役割が身体に流れ込むようなあの光景。

 自分の中で、ようやく見えてきた気がした。

「こっちは、先にやることを決めて体で覚えちゃうから、迷わないでパッと動けちゃうんだね」

 そう言うと、志織のペン先が一瞬止り、微かな沈黙が流れた。

「驚いた。さすが外を知っていると、観察眼が鋭いね」

 感心したように頷くと、こちらへ向き直った。

「確かに、このシステムは俺たちに迷う隙を与えない。それが、東側なりの優しさだからね」

 ノートを閉じ、志織は視線をテントの外、白く揺れる陽炎の向こうに向けた。

「じゃあ、ちょっとした雑談として聞いてくれないかな。菜月ちゃん、あなたはどっちが正しいと思う?」

「え?」

 どっちって、何のことだろう。

「夏樹ちゃんのこと」

 志織が私ではなく、テントの外の方を指差した。

「彼は今、進路で迷っているみたい。俺から見れば、東側の慣習の中で息苦しくて、もがいているように見えるんだよね」

 その言葉が、すぐには理解できなかった。

 夏樹が、迷っている?
 あんなに、迷いなく動いていたのに?

「中にいるのが幸せなのか、外へ出ようとするのが正解なのか」

 志織の声は淡々としているのに、その一言一言が、不思議と私の内側に広がっていく。

「菜月ちゃん、あなたなら」

 一瞬、言葉を探すように視線を落としたかと思うと、今度は言いにくそうに頬を指でかいた。

「……実は俺もさ。進路とか関係なく、この慣習に戸惑うことは正直あるんだ」

 思いもよらない告白に言葉を失っていると、志織は苦笑混じりに肩をすくめた。

「特にね、菜月ちゃん。あなたを見ていると」

 志織は深く息を吸ってから、胸元に手を当てた。

「もし俺が……もし俺も、西側の――」

 そこまで言って、言葉の先を飲み込んだ。

 そして、いつもの静かな、けれど何もかもを見透かしたような微笑みを浮かべた。

 そのまま私の後ろへ視線を向け、軽く手を振った。

 振り返ると、少し離れたところに、土埃にまみれ、顔を真っ黒にした夏樹がいた。

 さっきまで、あの迷いのない型の一部だった彼とは別人みたいに、少し気恥ずかしそうに。

 それでもこちらに気づいた途端、ぶんぶんと大きく手を振ってくる。

 志織の問いへの答えは、私の喉の奥で固まったままだ。

 夏樹が抱えているという迷いの正体もわからないし、彼に渡すべき正解なんて、私は何ひとつ持っていない。

 それでも、真っ黒になった手を振る夏樹に、応えずにはいられなかった。

 *

 正直、きつかった。

 息が切れているのは、走ったせいだけじゃない。
 身体は、ちゃんと動いていた。
 言われた通りに、教えられた通りに。

 それなのに競技の最中、ほんの一瞬だけ迷いが生まれた。

 以前なら、身体を動かす時に余計なことを考えるなんてなかったはずなのに、頭のどこかで「これでいいのか」という疑問が何度も浮かび、そのたびに少しずつ苦しくなっていった。

 浮かんだ迷いを、首を強く振って追い払った。
 考えるな、ただ動けばそれでいい。
 それが、ここでの正しい生き方なんだ。

 そう言い聞かせている中、ふと視界の端に入ったテントに、菜月の姿を見つけた。
 その瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。

 理由は分からない。

 ただ、あそこにいると分かるだけで、もう少しだけ頑張れる気がした。

 私は、思いきり手を振った。
 子どもみたいだと思いながら、それでも止められなかった。

「菜月ちゃん!」

 *

「夏樹ちゃん!」

 私は志織に「行ってくるね」とだけ告げると、手を振り返しながら駆け出した。

 背後で、風が揺れた。

 振り返らなくても、志織の静かな視線が、私の背中にじっと注がれているのが分かった。