女ー男じゃない!

「皆さんもご存知のとおり」

 朝のホームルームが始まる直前に、佐藤先生は教壇の前でそう切り出した。

「わが国は、戦後の復興期において、他の発展国と同様に人的資源の最適配分を目的とした政策を取りました」

 この言い回しは、もう何度も聞いている。
 歴史の授業でも、公民でも、進路指導でも。

「生活圏を東西に分け、男女の役割を制度的に整理することで、社会全体の効率化を図ったわけです」

 誰もメモは取らない。
 あまりにも当たり前すぎる、常識だからだ。

「ただし」

 先生は一度言葉を切って、教室を見回した。

「その制度は、すべての状況に当てはまるわけではありません。震災復興支援、人道的理由による移動。そうした例外も、当然存在します」

 教室の扉に、ちらりと視線が向く。

 そして、扉が開いた。

 一歩、教室へと足を踏み入れてきた女子生徒の姿を見た瞬間、教室の空気が一変した。
 彼女が身に纏っていたのは、セーラー服だった。

 ——セーラー服?

 ざわつく、というほど露骨じゃないけれど、どこかで誰かが息を呑んだのが分かる。

 強烈な違和感がそこにはあった。

 私達の常識では、セーラー服は男子生徒の将来の肉体労働者の証だ。   
 それでも同時に、不思議なほど彼女のそれは、自然でもあった。

 スカート丈は、こちらの制服より短い。
 脚そのものより、その無防備さに、視線が迷う。
 眩しいというほどでもなく、恥ずかしいと断定するのも違う。
 ただ、こちらの方が勝手に意識してしまっているような、奇妙な居心地の悪さがあった。

 それは見慣れないというよりも、見ていいのか分からないものが、視界に飛び込んできた感覚に近かった。

 いつも冷静な志織でさえ不意を突かれたように言葉を失っているようだった。

「静かに」

 先生はすぐには言葉を繋げない。
 教壇からクラス全体を見渡し、生徒たちが好奇心を飲み込み、口を閉ざすのを待った。

「紹介します。西側生活圏からの転入生です」

 生徒は、教壇の横に立った。
 少し丸みのある大きな瞳に、柔らかな頬。
 肩にかかるラフなボブヘアーが、動くたびにふわりと揺れる。

「彼女の母親が、震災復興人材支援に従事することになり、特例的に転入となりました」

 西側出身。例外措置。臨時転入。

 条件だけ見れば、彼女は特別な事情を持つ転入生だった。
 けれど当の本人は、そんな空気とは無縁みたいに、妙に自然体で佇んでいる。

「滞在期間は未定です。制度上も、緊急的な人道支援に基づく移動ですから」

 先生は、はっきりとした口調で告げた。

「東側の制度をこの生徒に適用することはできません」

 数人が、無意識に姿勢を正した。

「制服についても同様です。以前通っていた学校の制服を着用しています。西側では女子生徒の一般的な服装です」

「奇異な目で見ないように」

 奇異な目という言葉に、何人かが目を逸らした。
 見ていなかったつもりでも、見ていたことを、指摘された気分になったのだろう。

「自己紹介を」

 転入生は、一瞬だけ教室全体を見渡し、それから、にこっと笑った。

「はじめまして!小泉菜月です。よろしくお願いします」

 明るくてよく通るその声は、作った感じがなくて人懐こい。

 その屈託のない笑顔を見た瞬間、誰もが同じような既視感を抱いたに違いない。

 深夜にたまに流れてくる、西側のドラマのワンシーンみたいだ、と。

 遠い世界の映像。
 現実味が薄いのに、なぜか強く残る存在感。

「席は、そこです」

 指示され、菜月が通路を歩き出すと視線が集まるものの、本人は気にした様子もなく、むしろ少し楽しそうだった。

 その途中で私と、ふと目が合った。

「……小泉、夏樹です」

 思わず名乗ると、佐藤先生が「ああ、まだ言ってませんでしたね」と口を開いた。

「本来なら同名にならないよう配慮するところですが、今回は緊急の受け入れだったため、対応が間に合いませんでした」

 教室に、控えめな笑いが広がる。

 菜月は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべていたが、すぐにぱっと顔を輝かせた。

「ええっ、同じ名前!? よろしくね! 字はなんて書くの?」

「……季節の『夏』に、樹木の『樹』」

 私は苦笑いをしながら、肩をすくめてみせた。

「女っぽい字って、よく言われるんだけど」

 すると、菜月は間髪入れずに首を振った。

「え? そんなことないよ! 夏の日差しに向かって真っ直ぐ伸びる樹みたいで、すごくカッコいい名前だよ!」

 その思いがけない言葉に、思わず何度も瞬きを繰り返した。

 その反応を見て、菜月はようやく自分が、違う基準で話していることに気づいたようだった。
 その言葉は軽く、自然で、けれど確実に教室の空気を変えた。

 かっこいい、という響き。

 その言葉に、私の中の何かが確かに熱を持つのを感じた。

 この転入生は、ただの特例では終わらない。
 その場の誰もが同じことを感じている気がした。

 チャイムが鳴り終わるより早く、教室の重心が一点に傾いた。
 気づけば、教室中の好奇心が菜月の席へ集まっていた。

「ねえ、西側ってさ」

「向こうの学校って、ほんと自由なの?」

「あれってドラマだからでしょ?」

 質問は矢継ぎ早で、内容はばらばらだ。
 普通の転校生だったなら、もう少し遠慮があっただろう。
 けれど菜月は普通じゃない。
 だから遠慮も、配慮も、半分くらい消えている。

 そんな中、一人の女子が感嘆を漏らすように切り出した。

「でも何より驚いたのは」

「女子がセーラー服着てるって、本当に本当だったんだ」

 その言葉は、教室にいた全員の胸の内にあった、最大の違和感を言い当てた。

「そうそう!」と、重なり合うような肯定の合唱が起きる。

 対する菜月は、くすぐったそうな笑みを浮かべ、弾んだ声で応じた。

「あはは、それこっちのセリフだよ!男の子と女の子の制服がキレイに逆転してるから、ドッキリ仕掛けられてるのかと思っちゃったもん!」

 教室に、はじけるような大笑いが広がった。

「男の子、女の子」という呼称の響きも、裏表のない屈託のない笑い方も、東側で当たり前とされている女子としての振る舞いから、軽やかに、そして鮮やかにはみ出している。

 けれど、その規格外の明るさが毒になることはなかった。
 むしろ、菜月が笑うたびに、目に見えて柔らかく、しなやかに解けていくのを感じた。