女ー男じゃない!

 放課後の教室は、まるでキックオフを待つスタジアムみたいに、期待と緊張感に包まれていた。
 皆は選手が姿を現すのを今か今かと待ち構える観客のように、何度も扉に目を向けている。

 理由はもちろん、ただひとつ。
 今日の制服交換イベントだ。
 ……ただ、私にはいまいちこのイベントがピンと来ていなかった。

「小春ちゃんて、こういうの一番楽しむ人だと思ってたから意外だな」
 夏樹が、借りてきたライオンでも見るような目を向けてきた。
 私もそれには、妙に他人事のように頷いた。

「だって志織君だよ?こういうの興味ないと思ってたからさ。そりゃあ調子狂うよね」

「まあ……。志織君なりに思うところがあるんじゃないかな。迷いみたいなの、誰にでもあると思うんだけど。小春ちゃんもそんなことない?」

「ないよ、全然」
 私は即答した。 
 迷いとか、一体何を言っているんだろう。
 これはもしや頭の良い人特有の、高度なジョークってやつなのか?

 まだまだ私も精進が足りないなと、心のメモに書き留め……いや、殴り書きでいいや。
 どうせ読み返さないし。
 そんなふうに、久しぶりに頭をフル回転して、私の知性の高さを再確認していた、そのときだ。

 ガラッと勢いよく扉が開いて――
「ただいまー!」
 跳びはねるように、元気いっぱいに菜月が飛び込んできた。

 こっちの制服のポロシャツとスラックスに着替えている。
 シルエットがすっきりして、いつものふわっとした雰囲気が、引き締まって見える。

「あれ、なんか……」
 拍子抜けしてしまった。
 てっきり制服負けして、背伸びした子供みたいになると踏んでたから、からかってやるつもりだったのに。
 皆からも「似合ってるよね」なんて声が聞こえてくる。

 そのまま菜月は教室の真ん中で、くるりと回った。
「ねえこれ!めっちゃ動きやすいんだけど!見て見て!スラックスだからこんなこともできちゃうよ!」

 そう言って、腰を左右にぶんぶん振りながら、妙なステップを踏み始めた。
 腕を振り上げ、回って、しかも舌をぺろっと出しながら。
 「……わあ?」
 教室が、どうしたものかという空気に包まれた。

 完全にアホだ。
 だけど嫌いじゃない、むしろ。
 私は自分の冷めた態度が情けなくなった。
 せっかくのイベント、無駄にしてなるものか。
 同じアホなら踊らにゃ損だ。

 謎の衝動に突き動かされ、菜月の横に飛び出して滅茶苦茶な踊りをデュエットする。
 楽しいー!

「やめなさいって!」
「何してんの、あんたたち!」
 教室がどっと笑いに包まれた。
 夏樹も呆れたような顔をしているが、口元が緩んでいるのを私は見逃さなかった。

 ひとしきり騒いで息を切らしたところで、私は辺りを見回した。
「ねえ、ところで志織君は?」
「あ、忘れてた!もうとっくに来てるのかと思ってて。呼んでくるね!」
 そう言うなり、菜月は廊下へ小走りで消えた。


 嵐が去ったように、少しだけ空気が落ち着きを取り戻した。
「志織君ってさ」
 私は席に戻ると、夏樹の机をつついた。
「朝から、明らかに変だったよね。ニヤニヤしながら、視線も落ち着かなくて隙だらけって感じでさ」

「そうだね。授業中も、机の横の紙袋をずっと見ていたし。分かりやすいくらいに上の空だった」

 夏樹は頬杖をついたまま、窓の外へ視線を向けた。

「……楽しみだったんでしょ。志織君なりに」
 その声は、からかいでも否定でもなかった。

 私は、うーんと唸った。
 志織は、もしかして西側に憧れてた?
 そんな素振り、あったっけ?
 なかった気がする。
 じゃなかったら、ないように見せていただけ、とか?

 そこまで考えて、私は首を振った。
 ないない、考えすぎだ。

 なかなか志織と菜月は戻ってこなかった。
 迷子にでもなったのかな、と心配になりかけた頃。

 再び扉が開いたが、またしても菜月だけだった。

「志織君は?」
「あのね。なんかさー」
 菜月が困ったような顔をして、扉のほうを指さした。

「現実が見えたら恥ずかしくなった、とか言ってね。そこから動かないの」
 扉の向こうを覗くと、志織が影に隠れるようにもじもじしていた。
 顔が赤い、信じられないくらい真っ赤だ。

「ほらほら志織君!」
 菜月が手を掴んで、半ば強引に引っ張ぱり出した。

「わあ……」
 皆の感嘆の声が漏れた。
 教室に入ってきた志織のセーラー服姿は、西側の女子そのものだった。

 凛としていて、背筋が伸びている。
 どこかスポーティで、それでいて線はやわらかい。

 ……可愛い。

 菜月のような天真爛漫な明るさとは、全く違うタイプ。
 静かで、澄んでいて。
 それは確かに志織なのに、そっくりの別人みたいだった。

「やば、普通に西側の女子じゃん!」
「スカートも、すごく似合ってるよ!」
 歓声が上がるたび、志織の顔はますます赤く染まっていく。
 その肩は小刻みに震えていて、次第に皆も異変に気づき始めた。

「……っく」
 志織がかすかな嗚咽を漏らしたかと思うと、口元を手で押さえた。
 
「え…、大丈夫?」
 何事かと、ざわめきが走る。

「……っくぅっ」
 その場で膝から崩れ落ちそうになる。
 うつむいた目尻に、光るものが見えた。

 あ、まずい。
 これは笑えない。
 志織は羞恥心と、自分でも整理のつかないものに押しつぶされそうになっている。

 隣の菜月は、じっと志織を見つめて両手をぎゅっと握りしめている。

 この場をなんとかしなければと一歩踏み出そうとしたが、それを遮るように、

 ――パンパン!

 と、夏樹が手を叩く音が教室に響いた。
「終了終了!」
 そう言いながら、志織のもとへ歩み寄り、そっと肩に手を置いた。
「十分でしょ」

「はい皆、まわれ右!」
 夏樹のその言葉に誰も逆らわず、一斉に後ろを向いた。

 やがて扉の開く音がしたので振り返ると、菜月が志織の肩を支えながら出ていく後ろ姿が見えた。
「志織君、頑張った。頑張ったね」
 なぜか菜月の声まで潤んでいるようだ。
 何でだ。

 扉が閉まると、教室には静けさだけが残った。
 まさか夏樹がこういう場面で動くとは思わなかったので驚いた。

「意外だね」
「……かもね」

 夏樹の表情には、心なしか苦々しさが滲んでいた。

「なんか、他人事には思えなかったから」
 それだけ言うと、帰り支度を始めた。

 他人事じゃないって何が?と、聞こうとしてやめた。

 なんだかんだ。
 夏樹は、ちゃんと見ているんだ。
 志織が抱えていた、ただの布以上の重みを。
 菜月の、優しさ以上の強さを。