女ー男じゃない!

 体育祭の翌日。

「……ウソ」

 目が覚めて、枕元の時計を見ると、まだ五時だった。

 てっきり今日は、身体が鉛みたいに重くて起きられないだろうと思っていたから、アラームも設定していなかったのに。

 外はもう薄っすらと明るく、カーテン越しにやわらかな光が差し込んでいる。

 室内ではルームメイトの2人による、豪快なイビキの合唱祭が開催されていた。

 寝返りを打つと、膝がじくりと熱を持った。

「ああ、そうだった」

 痛みと一緒に、昨日の転倒が蘇った。

 ベッドの端に腰を下ろし、指先で包帯の端をそっと探る。

 少しはマシになったかなと、淡い願いをかけながら、ガーゼをゆっくりと剥がした。

「うわ」

 傷口を見て、思わず顔をしかめた。
 甘かった、まだ赤い。

 視覚で確認した途端、痛みまで調子に乗ってまた主張を始めた。

 ぼんやり膝をさすっていると、昨日の体育祭が、勝手に頭の中で再生された。

 応援席のざわめきと、押し合う無数の足音。
 そして、その喧騒を突き抜けて聞こえた声。

 “頑張れー!”

 あれは、菜月か、志織か、それとも、まとめて全員の声だったのか。

 東側が作り上げた形に、西側のまっすぐな気持ちが重なった。

 あの瞬間、どちらか一方だけでは生まれなかった熱が、確かにそこにあった気がした。

 記憶を辿るうちに、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
 今日くらいは、こんな風に余韻に浸っていてもいいだろう。

 いつもなら休日は友達と河川敷を走るのだけれど、今日はやめておいて良かった。 
 さすがにこの足では無理だ。

 かと言って、イビキは子守唄には程遠くて二度寝する気にもなれない。

 仕方なくジャージを羽織って寮の外に出ると、朝の空気は澄んでいて気持ちがよかった。

 軽く屈伸をしてみると、伸ばすたびに膝が抗議するが、動けないほどではなかった。

 体育祭翌日の五時から元気な人はさすがにいないのか、中庭は静まり返っていた。

 テラス席のチェアに腰掛けると、ひやりとした感触に小さな悲鳴をあげてしまった。

 読書という気分でもなかったので、なんとなく持ってきた進路調査票を開いた。
 考えるというより、ぼんやりと眺める。

“研究職”

 勢いで書いた文字を、指でなぞった。

 理由は単純だ。

 答えが一つじゃない問題を、時間をかけて追いかけられるから。

 派手なものでなくていい、誰かの生活の底で静かに役に立つものがいい。

「今日の研究対象は、この膝かな」

 ​自嘲気味につぶやいた瞬間、昨日の転倒が鮮明に蘇った。

“大丈夫、夏樹ちゃん!?”

 応援席から飛び込んできた、菜月の姿。

 西側由来の黒船、なんて思ったこともあったけれど。

 違う。

 五月の穏やかな日差しの中、のんびりと季節の移ろいを運んでくる、夏鳥みたいな。

 思えば菜月が転入してきてから、景色の色が少しだけ明るくなったような気がする。

 と、我ながら何を真面目に感傷に浸っているんだと、可笑しくなった。

 その時、迷いのない、一定のリズムでこちらへ近づいてくる足音が響いた。

「夏樹ちゃん、生きてるかー?」

「やっぱり」

 それまでの静寂を打ち破るかのように現れた小春は、向かいのチェアを引いた。

「さっすが体力おばけ。早すぎない?」

「お互い様だよ」

「私の部屋、みーんな爆睡。情けないったら。窓開けたら、夏樹ちゃんがいるじゃん。だから偵察に来たよ」

 笑いながら、ちらりと私の膝を見る。

「まだ赤い?」

「まあまあ」

「ふーん」

 チェアに深く身体を預けながら、小春は大きく伸びをした。

「なんだか夏樹ちゃん、最近ちょっと変わったよね」

「は?」

「悪い意味じゃなくてさ。怪我して戻るとか、前ならしなかったでしょ」

「……そんなことないよ」

「ふーん」

 指をぱちんと鳴らすと、納得したような顔をした。

「夏樹ちゃんってさ、普段は素直なのに、決めつけられると急に嫌がるでしょ」

「嫌ってほどじゃ」

「嫌がってるよ。バレバレ」

 間髪入れずに返ってきた。

「『こういう人でしょ?』って言われると、困ったような顔するもん」

 ​言われてみれば、確かにそうかもしれない。

 競技も、勉強も、そして制度も。

「器用貧乏って言われない? あ、これ褒め言葉だからね」

 小春はあくびをひとつ漏らすと、話を締めるように笑った。

「ま、余計なお世話だったかな。でしょ?」

 なんだか自分の内側を覗かれているようで居心地が悪かったので、無理やり話題を切り替えた。

「そう言えば。小春ちゃんは進路決めるの早かったよね。東部総合物流アカデミーでしょ?」

 手に持っていた進路調査票を、大げさに掲げて見せた。

「うん、特殊搬送科。震災のとき止まったでしょ? ああいうの嫌いなんだよね」

「大変そうだね、あそこは」

「でもさ、あれ動いてないと世の中が止まるから……。なんてね! 公務員だからおいしいかなって。単純でしょ?」

 熱っぽく語り出したかと思えば、照れくさくなったのか、すぐにいつものおどけた調子に戻った。

「先生が、私なら推薦枠でいけるって。ただし、物理はもっと頑張らないと、とはクギ刺されちゃったけどね。そこで! 我らが夏樹ちゃんの出番なわけですよ」

「つまり、それを言いに来たってわけね」

 わざとらしくため息をついて追い払う仕草をすると、小春は待ってましたとばかりにニヤリと笑った。

「あれあれ、そんなつれない態度とっていいのかな?」

 そう言うと、ポケットからスマホを取り出した。

 そこには無様に転ぶ私の姿が、絶妙に情けない角度で写っていた。

「それ、どこから!」

 慌ててスマホを奪い取ろうと手を伸ばすと、小春は「おっと」と身を翻した。

「写真担当の先生。やっぱり撮ってたらしくてね、データもらったんだ」

「……」

「さすがに公式記録には使わないって言ってたよ? まあ」

 勝利を確信した顔で、スマホを掲げた。

「これをどうするかは、私次第だけど?」

「こいつ!」

「いやー、芸術点高いよ? 重力の研究資料として保存する?」

「消して!」

「では、物理指導五回で手を打ちましょうかね」

「それ、脅迫じゃない」

「違いますー、高度な交渉ですー」

 五月の朝の空気が、少しだけ柔らいだ。