女ー男じゃない!

 綱の前列、空いた隙間に飛び込んだ瞬間、小春と目が合った。

 視線だけで交わした一瞬のやり取りだけれど、それだけで次に何をすればいいか分かった。

 ほとんど同時に、互いの肩が寸分違わぬ角度で綱に入った。

 踏み込む足の位置、体重を乗せるタイミング。
 考えようとする前に、身体が勝手に揃っていく。

「押すよ!」

 誰かの声に合わせて、一斉に力をかける。

 綱が軋み、足元の地面が低く鳴った。

 押し返せてはいるが、それがかえって相手の闘争心に火をつけたのか、まるで鉄の壁のように崩れない。

 ほんの数十センチの領土を奪い合う、息の詰まる時間。

 包帯の下で、足首がじくりと主張を始めている。

 それでも今は、気にしないと自分に言い聞かせる。

 あと少しのはずなのに、その少しがやけに遠い。

 声も、力も、まだ足りない。
 だけど、もうこれ以上は絞り出せそうにない。

 *

 ――あ。夏樹ちゃんが、いる。

 一瞬、その姿に心臓が跳ねた。

 足、大丈夫なの?
 なんで、戻ってきたの?

 でも、必死に綱に食らいつく横顔を見て飲み込んだ。

 これは、夏樹が自分で決めたことだから。

「耐圧前進! 女子全員、声を張れ!」

 チアの号令にも、いよいよ切迫した響きが混じってきた。

「ソーレ ソレ!」

 東側の正しい応援はこれなんだと、頭では分かっている。

 でも、どうしても心と声が噛み合わなくて、ぎこちない。

 転入してきたばかりの私には、このリズムがまだ身体に馴染んでいない。

 それでも伝えたい、 届かせたい。

 そのとき、男子たちの列が砂の上をずりっと滑るように、後ろへ下がった。

 ええい、もう我慢できない!

「頑張れ、夏樹ちゃん!負けるな、みんなー!!」

 考えなんて何もなくて、無我夢中で気持ちのままに声を出した。

 ……あ、やっちゃった。

 女子たちが、戸惑ったように静まり返って私を見ている。

 それでも、すぐに誰かが続いた。

「ふ、踏ん張れー!」
「まだおせ……押せ押せ!」

 皆の音程はバラバラで、声も整っていない。

 でも、そんなのどうでもよかった。

 声に乗った熱が、どんどん広がっていく。

 他のクラスからも、それぞれの思いを乗せた声が上がり始める。

 グラウンド全体が、ひとつのうねりになっていく。

 *

「……頑張れ!」

 気づけば、俺は立ち上がっていた。

 無意識にこぼれた声に、自分で驚く。

「あ」

 隣に座る佐藤先生に気づいて、思わず言葉を止めた。

 先生は一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。

「どうしたの? 気持ちを伝えるのにスタイルなんてないでしょ」

 そう言って立ち上がり、ぱん、と手を叩く。

「その調子! まだまだ!」

 ……ずるい。

 おかしくて、でも、胸のつかえが取れたような気がした。

「ほら、風間さんも声を届けて上げなさい」

 と、先生が俺の背中を押した。

 俺はテントを飛び出して、皆のいる応援に向かうと、今度こそ、深く、深く息を吸い込んだ。

「行けーーー!!」

 *

 空気が、変わった。

 背中越しに流れ込んでくるのは、まとまりはないけれど、感情の乗った、まっすぐな声。

 視界の端の応援席で、跳ねるように叫んでいる菜月や志織たちの姿が見えた。

 うん、聞こえているよ。

 それは、私だけじゃない。

 小春も、後ろの連中も、全員の肩の入り方が変わった。

 呼吸が揃う。
 全員が叫ぶ。

 合図なんて要らなかった。

 同時に、残された全力を地面に叩きつけて踏み込む。

 綱が、ぐっとこちらに寄る。

 相手側の足が、砂を噛み切れずにわずかに滑った。

 逃すな、考えるな、ただ押せ。

 地面を削る感触。
 息が追いつかない。
 足首が悲鳴を上げている。

 それでも、止まらない。

 綱の結び目が白線を越えた瞬間、長く鋭い笛がグラウンドに響いた。

 一瞬静寂が訪れて、直後に爆発的な歓声が天を突いた。

 勝った、勝ったんだ。

 視界の向こうで、菜月たちが飛び跳ねながら、両手を振っている。

 怪我の痛みも息の苦しさも、全部ひっくるめてこの一瞬のためだったんだと、ただそう思った。

 力が抜けた瞬間、痛む膝を支えきれず、その場にへたり込んだ。

 笛の音が遠ざかるにつれて、身体の芯に残っていた熱も、少しずつ引いていった。

 代わりに、遅れて痛みが戻ってくる。

「……っ」

 足首に力が入らず、視界がぐらりと揺れた。

「夏樹ちゃん!」

 名前を呼ばれて顔を上げると、さっきまで応援席にいたはずなのに、いつの間にか菜月がそこにいた。

「無茶しすぎ!」

 そう言いながらも、責める声じゃない。

 しゃがみ込んで、私の足元を見る。

「やっぱり、ズキズキする?」

「うん。ちょっとだけ」

「ちょっとだけって顔じゃないよ」

 と、苦笑いしながら言う。

「でも」

 今度は満面の笑顔で。

「かっこよかったぞ!」

 そして右手を挙げた。

 ああ、わかってる。

 ――ハイタッチ。

 グラウンドのざわめきが、ようやく現実の音として戻ってきた。

 勝ったクラスの歓声。
 負けたクラスの拍手。
 誰かが転んで、誰かが笑っている。

 男子たちの間でも、次々と手が重なる。

「ナイス!」
「よく押したね!」

 その波は応援席まで届き、志織たちも、自然と輪に引き込まれていく。

 パン、パンと、言葉はいらない。

 泥だらけの手も、赤くなった掌も、全部ひっくるめて。

 体育祭の最後は、そんなふうに、笑顔と熱気で締めくくられた。