壺を床に置き、ついでに靴も脱ぎ、僕は胡坐をかいてうなっている。
夢かもしれないが、今のところこれは夢じゃないらしい。
壺は実在していた。
墨色の壺。大きさはサッカーボールくらいか。ひょうたんのくびれが太くなったような妙な形の壺で、その口は小さい。
コツコツ指でつついてみる。陶器製だろうか。持ち上げると存外軽い。
「……願いをきく、ねぇ?」
と、僕が思いきり疑わしそうな独り言を発した、次の瞬間。
壺の口からいきなり白い煙がボワンと飛び出し……――、
「はぁい、願い聞かせてもらうわよ~っ」
若い女の子が煙と一緒に現れたもんだから、僕はぱっかり口をあけ、のけぞった。
「へぇ、こういうのが趣味なんだぁ? あぁ、知ってるこれ。アラビアンナイト風ね。ありきたりな想像だけど、むさいおっさん姿の魔人よりはマシね」
「なっ、なっ?」
空中に浮かんでいる女の子は、楽しそうに自分の格好を確認している。胸を触ってみたり、まとっているベールをめくってみたりと、大はしゃぎだ。
彼女は、彼女が言ったように、アラビアンナイトに登場しそうな踊り子風の格好をしていた。
目の保養になる程の美少女だ。
黒い瞳に黒い髪。白磁の珠肌に薔薇の唇。
胸ははちきれんばかりに大きく、腰はきゅっとくびれ、形のいい尻を惜しげもなくさらしてくれている。
僕はまた、ぎゅぅぅっと頬を抓った。
「あら、夢じゃないわよ? そんなに抓ることないのに」
「は、はあ、そうですか……」
僕はなんとも間の抜けた声を返した。
「さ。ちゃっちゃと済ませましょ?」
壺から現れた女の子は宙に浮かんだまま、僕に笑いかける。
「あなたの願いを、聞かせて? こうだったらいいなって望む事、たくさんあるでしょ?」
「――なくはない……けど」
「煮え切らないわねぇ。どんな願いでもいいのよ?」
「どんなのでも?」
「うんうん」
壺の精霊かもしれない彼女は、満足げに頷いている。
僕はおそるおそる、尋ねてみた。
「願いをきいてくれるって、ほんとに?」
「ええ聞くわよ?」
「数の制限とかは?」
「ないわ。いくつでも、どれだけでも。あ、でも今日かぎりよ」
「今日だけ、限定?」
「そう、今日だけ。その代わり思いつく限り言っていいわ」
「……金は取らないと言ったけど」
僕の声は、知らず知らず慎重なものになっていた。
金は取らないけど、こういう場合、その他の何かを取るかもしれない可能性は高い。
「魂とか、そういうのを取るんじゃないの?」
「魂?」
彼女はコロコロと笑って、答えた。
「魂って、つまり、命のことね?」
「あ、ああ、そうなるかな」
「命なんてとりゃぁしないわよ。あたし達が貰うのは、あなたの願いだけ」
「願い?」
「そ。願いを貰うわ、あなたの」
僕は訝しげな顔をして聞き返した。
「それが契約……とかいうやつ?」
「やぁねぇ、今日限りって言ったでしょ? 今夜あなたの願いを聞いたら、金輪際あなたと会うことはないわ。だから契約なんて結ぶ必要はないの。契約を盾に取ったりもしないわ。その逆も然りよ」
「クーリングオフは?」
「いちいち面倒くさいこと聞くのねぇ。契約はしないっていったでしょ。今日限り、言ったっきり。だから返却とかはきかないわ。……まあ、取り消しはきかないわ」
「なるほど」
「あとから勧誘電話なんかもしません」
彼女はにっこり営業スマイルだ。胡散臭いったらない。
――だが、つまり。
「つまり持続性……継続の必要性はないってこと?」
「ええ、そうよ。――ねぇ、もう質問はいいでしょ?」
「………」
僕は眉をしかめたまま、暫時黙り込んだ。
考え込んでる僕の顔を、彼女は「まぁだぁ?」と、おねだりをする子供のように覗き込んでくる。
たっぷり――と、言ってもものの一、二分だったろうけど――考え、僕は結論を出した。
願い事なら、山ほどある!
僕は勢いづけて立ち上がった。
今目の前にいる彼女が悪魔だろうがペテン師だろうが、コスプレイヤーだろうが、どうだっていい!
いや、どうでもよくはないが、願いをきいてくれるっていうんなら、言葉に甘えさせてもらおう!
僕は、念を押した。
「ほんとに願い事、いくつでも、どれだけでも、きいてくれるんだな?」
「ええ、聞くわ、きっちりとね」
「わかった」
ごくんと、唾を飲み込む。それから深呼吸をし、僕は一気に「願い事」を吐き出した。
地位と名誉と財産と権力と腕力と女、だ。
なんでも言うことを聞く手下が欲しい。
僕をいじめる奴らに天誅を下して欲しい。僕を虚仮にする奴ら全てを消し去って欲しい。
もちろん僕をアシとメシ代にしかしてこなかった「彼女」にも天罰を与えてほしいし……
「――それから?」
くすっと笑って、彼女が続きを請う。まだ、他には、と。
とびきりの美女との快楽が欲しい。働く必要のない贅沢な暮らしが欲しい。
「重複してるわね。他にはないの? もっともっと、欲張りなこと言っていいのよ?」
――もっと…? ――もっと、と言われても。
頭をフル回転させても、具体的な言葉……願いは、そうたやすく出てこない。
もっと、あーしたいこーしたい、ってのはあったはずなのに。
「もうお仕舞い? ――存外少なかったわねぇ」
彼女はこれみよがしなため息をついた。
「いっ、いいだろ、少なかろうがなんだろうが! 願い、きいてくれるんだろ?」
「あら、ええ」
彼女は小首を傾げ、艶然と笑った。
「たしかに。あなたの願い、聞かせてもらったわ。――えっと、そうねぇ」
彼女は白い指を唇にあて、考え込むような顔をした。
ここまできて、嘘でーす、ほんの軽い冗談でしたぁ、「ドッキリでぇす」なんて言ったら、はったおすぞ! いくら温厚な僕だって!
「じゃ、ちょっと目を瞑ってくれるかしら?」
「な、何をするんだ?」
僕は一瞬たじろいだ。
「大丈夫。痛みは……たぶんないわ。目は開けないでね」
「わかった。……その代わり、全部、ちゃんと叶えてくれよな?」
僕は、その場に立ったまま、言われた通り目を閉じた。
「叶えて……?」
彼女の薄ら笑う声が、耳をくすぐった。
そうして、何かが僕の上にのしかかってくるような重圧感を、同時に感じて――



