はぁぁぁぁぁ……っ、と大きくため息をついて、うなだれた。
歩いていること自体が奇跡的なくらい、僕は打ちのめされていた。
まったくなんて日だ。
まったく、なんてくだらない日なんだ。
いったい僕が何をした。
僕がいったい何をしたっていうんだ!?
まったく嫌になる。何もかもが空しくて、バカらしい。
僕の他愛のない……ささやかな幸せすら叶えてくれない世界が、嫌で嫌で堪らなかった。
「そうだろう、そうだろう。あんたは何もしてないさ。本当に何もしていない」
どこからか、声が聞こえてきた。
振り返ると、腰の曲がった、長い白髪をフードの両脇から垂らしている、胡散臭い婆さんが立っていた。
僕はぎょっとした。
ええっ? なんだ、コレ? いつの間に?
それから慌てて周囲を見回した。
今の今まで歓楽街を歩いていたはずだった。けばけばしいネオンと喧騒の中を、歩いていたはずだ。
ところが今僕が立っているのは、何もない場所。本当に何も無い。人もいないし、車も走ってない。店どころか建物の一件もない。街灯もなく、ふと見上げたところには空すらなかった。
例えるなら、霧の中、あるいは煙の中。……同じようなものだけど。
真っ暗でもなく、明るくもない。物音もしない。
居るのは僕と、奇妙な婆さんだけだった。
「何を驚いているんだい?」
「いや、驚くだろ、ふつう」
「驚きたいのはこっちだよ。……老婆の姿とは、いただけないねぇ。まぁ、これも演出だからしかたないかね」
「はぁ?」
老婆は腰に手を回し、トントンと叩く。
改めて老婆を見たが、まるで童話か絵本に出てきそうな、いかにも悪者っぽい魔女風だ。
煤けた灰色のマントを頭からひっかぶり、髪はばさついた白髪。声はしゃがれていて、鼻は当然わしっぱな。あばた顔は醜く、血走った目はいやらしく光っていた。その目が僕を見据えている。
そして、老婆はどこから取り出したのか、墨色の壺を僕に差し出して言ったのだ。
「これをおまえさんに授けよう。ああ、金はいいよ。特別サービスってやつさ。おまえは『選ばれた者』だからね」
「…………」
ははぁ。どうせ宗教かマルチ商法の勧誘だろう。よくある手合いだ。至極当然に、僕は思った。
『選ばれた者』という言葉にちょっとだけドキリとしたのは、ヒミツだ。
要りませんと、僕はすげなく断った。
「要らないわけはないね。おまえさんはいつでも欲してるじゃないか」
「本当に要りませんから。てゆーか、ここどこで、あなた誰ですか? あ、もしかしてこれ夢ですか? 飲みすぎちゃったからなぁ。酒が回って、道端に倒れてるとか、そんな感じ?」
僕はもうどうでもよくなっていたから、今の状況も、なぜだかあっさり受けて入れてた。夢なら夢で、それでいい。
ほんともう、どうだっていい。
そんな僕に、老婆は言った。気のせいでなければ、少し、笑って。
「ああ、そうとも。これは夢さ」
夢だと断言されて、天邪鬼な僕は少しむっとした。
こういう時は、「夢だけど、夢ではない」とか、そういう台詞を言ってもらいたかった。それが定石ってもんだろ。
「それで、この壺だがね」
老婆は僕に構わず続ける。強引に壺を押し付けられて、結局僕は壺を受け取っていた。
「これは願いをきいてくれる壺さ。……なんでもね」
「は? なにそれ? あぁ、あれ? くしゃみをすると魔王が飛び出てくる、あの壺? 形こんなんじゃなかったと思うけど?」
「生憎魔王は入ってないねぇ」
「じゃあ……桃源郷的なとこで美味い酒が飲めるとか?」
「違うね」
「じゃもっと古典的に、名前を呼ばれると吸い込まれるって壺?」
「その壺じゃないよ、残念ながらね。そっちの方が手っ取り早そうだが。あれは入手困難なんだよ」
「へー……」
僕は気のない声を返す。
老婆は壺を指差して言った。
「その壺に、願いを聞いてくれと言うだけでいい。そうすれば、願いを聞くモノが現れるって寸法さ」
「願いを、ねぇ?」
うーんと僕は首を捻る。
つまりはやっぱり、魔人とかが出てくるアレなのでは?
心が、ほんの少し……本当に少しだぞ! 少しだけ、揺らいだ。
「ここじゃぁなんだしね。おまえさんの部屋で試してみるがいいさ」
「は?」
聞き返す間も与えられなかった。
まさに、一瞬。
僕は、僕のアパートの、僕の部屋にいた。部屋のど真ん中、土足のままで。
僕はびっくり仰天して、今度こそ本当に、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。



