ここは、夢の中。
いつだって私の世界を優しく満たしてくれる、大好きな莉人くんを想像する、一番幸せで甘やかな時間。
彼の屈託のない笑顔や、耳に心地よく響く声を思い浮かべ、温かい光に包まれているはずだった。
――あれ? ここは……?
脳裏に描いていたはずのピンク色の淡い世界が、突如としてノイズを立てて歪み始める。
視界に走る、無機質なデジタル・グリッチ。
足元から温もりが急速に奪われ、代わりに冷たいコンクリートのような床の感触が、私の意識を現実的な覚醒へと引きずり戻した。
大好きなアーティストを想像する甘い時間は、一瞬にして、見知らぬバーチャル世界へと書き換えられてしまったのだ。
見上げると、空はどんよりとした群青色。
周囲には、私と同じように戸惑い、自分の身体を不安そうに見つめる見ず知らずの「プレイヤー」たちが大勢集まっている。
「……ようこそ、哀れな迷い子たち」
頭上から、鼓膜を不快に震わせるスピーカー越しの声が響いた。
ステージの上に立っていたのは、不気味なシルエットをまとった、この世界の『支配人』。
「今日、ここに集まったお前たちには、2人1組のペアで『バーチャル夫婦バトル』をしてもらう」
支配人の冷酷な言葉が、ざわめく空間に突き刺さる。
「慎重にペアを選ばないと、後悔するぞ。……一度でも選択を誤れば、お前たちに帰る場所はない」
その言葉が、単なる脅しではないことはすぐに分かった。
なぜなら、私の手元から、現実世界で買ったばかりだった、あのお気に入りの日守莉人くんの音楽(CD)が、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に消え去っていたからだ――。
「……ねえ、大丈夫?」
背後から突然かけられたその声に、私は弾かれたように振り返った。
その瞬間、全身の細胞がざわめく。
間違えるはずがない。それは、過酷なこの世界にはおよそ似つかわしくない、私が夢にまで見たあの甘くて優しい声――日守莉人くんの声そのものだった。
「最初にお互いの名前、言っておこっか。あ、本名じゃなくて、この世界での名前ね」
彼は少しだけ悪戯っぽく笑うようなニュアンスを声ににじませた。
「俺は、シュウちゃん。君は?」
「……萌木結」
自分の名前を名乗る私の声は、恐怖と混乱で小さく震えていたと思う。お気に入りの曲を奪われ、世界のルールも分からない。そんな私を安心させるように、彼は一歩、私との距離を縮めた。
「……結ちゃんね。大丈夫。僕に任せて」
シュウちゃんは、そっと自分の唇に人差し指を当てながら、トーンを落とした声でそう囁いた。その仕草があまりにも優美で、私は息を呑む。
本当なら、彼の顔を真っ直ぐ見て、その表情を確かめたかった。でも、私にはそれができなかった。
周囲で脱落者が続出していくゲームへの緊張と恐怖。そして何より、私の前に立つ彼の圧倒的な身長の高さに気圧されて、どうしても顔を見上げることができなかったのだ。
視界に入るのは、スタイルの良さが際立つ彼の高い胸元と、唇に添えられた綺麗な指先だけ。
顔は見えない。だけど、その声と、そこから伝わってくる本質(ぬくもり)だけは、私を絶対に裏切らないと確信できた。
「さあ、いこう。俺たちの夫婦バトルを始めよう」
高身長の彼が私の手を見守るように引き寄せたとき、どんよりとした群青色の空の下で、私たちの過酷なサバイバルが静かに幕を開けた――。
