「――あっ!」
短い悲鳴と共に、漆塗りの御膳が宙を舞った。汁物が床に飛び散り、白磁の器が甲高い音を立てて砕ける。
仕事を始めて数日。小夜を待っていたのは、彼女を「玄武の宮の寵愛を狙う泥棒猫」と敵視する先輩女官たちからの執拗な嫌がらせの数々だった。
「あら、いらしたんですか? 気付かなかったわ」
小夜にぶつかった給仕の女官はわざとらしく声を張り上げる。
「ほんと、のろまなんだから。玄武の宮のお側仕えなどと、よくいえたものだわ」
「私たちの邪魔をするのが趣味なのかしら」
冷ややかな声が小夜耳に届く。
朝一番には、小夜が担当したわけでもない高級な花瓶が割られ、その責任をすべてなすりつけられた。そして今、昼食を運ぶ女中が故意に衝突したのだった。
「大丈夫ですか、小夜様」
椿が素早く小夜に駆け寄り、遠くで控えている黒曜へ「まだ出てくるな」と目くばせする。
「そこのあなた、どこを見てるの? 小夜様は初めからここにいたでしょう!」
椿が叫ぶ。しかし、先輩女官たちは鼻で笑った。
「証拠はあるのかしら? 新人さーん」
「お前たち、ふざけるな!」
怒りをあらわにする椿を小夜は必死でなだめる。
「……庇ってくださってありがとございます。でももういいのです。すべてわたしの不注意ですから」
「小夜様……」
椿は悔しさに唇を噛み締める。一番身近に居ながら、なぜ防げなかったのかと自分を責めずにはいられない。そんな椿に小夜は安心させるように微笑んでみせる。
「片づけを手伝ってくれますか、椿様」
「はい、もちろんです」
小夜は痛む膝を押さえながら、汚れた床を雑巾で拭き始める。女官たちは二人を囲むようにして嘲ながら見ていた。
「何事だ!」
低く響く声に、廊下の空気が一瞬で凍りついた。廊下の向こうから豪奢な着物姿の暁が歩いてくる。背後には、いつものように無表情な北辰が従っていた。
「暁さ……いえ、玄武の宮様……」
小夜が震える声で呼びかけると、暁は黄金の瞳を細め、散らばった器と小夜を見下ろした。
「朝に続き、また粗相か」
「殿下、誤解です!」
椿は必死で訴えるが、暁は聞く耳を持たない。
「規律を乱す出来の悪い女官には、相応の罰が必要だな」
周囲の女官たちが「当然の報いだわ」とほくそ笑む。
「二人きりでじっくりと、教育し直してやる。北辰、小夜を執務室へ連行しろ!」
暁は北辰に顎で合図する。
「御意」
小夜は北辰に促され、重い足取りで執務室へと向かった。
――ガチャン、と重厚な扉が閉まる。
小夜は部屋の隅で身を縮め、これから下されるであろう”罰”に怯えていた。
「まったく。このような騒ぎなど、前代未聞だ」
「申し訳ございません、暁様」
暁はゆっくりと歩み寄り、床にへたり込む小夜をそっと抱き上げた。
「痛むところはないか? 小夜 」
さっきまでの冷徹な声が嘘のように、優しく小夜の耳に響いた。
「あ、あの、暁様……お仕置きは……?」
「これからする」
そのまま執務室の椅子に自分ごと座らせ、膝の上に小夜を囲い込む。
「こうして、お前を誰の目にも触れさせず、俺の腕の中に閉じ込めてやるぞ」
暁の逞しい腕の中で、小夜は戸惑いを隠せない。
「これがお仕置きですか?」
「そうだ。それより小夜、やっと二人きりになれたのだから、もっと楽にしたらどうだ」
暁は小夜の体を向き合わせると待ちきれないとでもいうように唇を奪った。すると暁の力強い気に満たされて沈んでいた小夜の心がふわりと軽くなる。
「大変だったな」
「……はい」
労りの言葉に小夜は涙ぐむ。暁はそっと眦の涙を拭う。
「不始末はお前のせいではないと分かっている。すぐにその首謀者を叩き斬ってやりたかったが、肩入れすればお前の立場が悪くなるだろう」
「叩き切るだなんて、そんな……」
「情けをかけるのか? 俺はお前が傷つくのを見て、心が張り裂けそうだったというのに……」
暁は、机の上に用意されていたきらびやかな菓子皿を引き寄せた。
「褒美をやろう」
「でもこれは暁様の……」
「じゃあ、毒味をしてくれないか?」
そう言いながら、暁は自ら砂糖で作られた菓子を一口齧り、直接小夜の唇へと押し込む。ふわりと花の香りが広がった。
「旨いか?」
「……はい。なんだかとても懐かしい味がします」
「そうだろう。お前が好きだと言っていた花の香の金平糖だ」
暁の使者が寺へ運んできた品々の中にいつも入っていた。誰かに見つからないように二人でこっそりと摘んで食べた懐かしい味。
「覚えていてくださったんですね」
「忘れる筈がない。幼かった俺にはお前の存在は救いだったのだ」
物心付く前に山寺へ預けられた暁は母親の温もりを知らない。
暁の母親は側室でありながら、玄武の加護を受けた男児を産んだ。
激怒した皇后は草木の生えない北の地へ追いやり、次々と暗殺者を送り込んだ。皇后には現皇帝の巫女を殺害したとの噂が絶えなかった。母親は
皇子の身を案じ、山寺へと預ける事に決めたのだった。
世間から隔離された退屈な日々に彩りを添えたのは間違いなく小夜の存在だった。
「わたしもです。兄様がいてくれたから毎日寂しくなかった」
孤児となり寺へ引き取られた小夜もまた、暁の存在を心の拠り所にしていた。
「小夜、俺にはお前が必要だ」
暁の言葉に小夜の胸は熱く震えた。
「ありがたきお言葉……一生暁様にお使えする覚悟でございます」
思いが溢れ視界が歪む。暁は小夜の眦の涙を指で拭うとひしと抱きしめた。

