北の暁


 昼過ぎ、言葉通りに北辰が小夜を迎えにやって来た。
その隣には、見かけない若い女と男。女は小夜と同じ年頃だろうか、女官とは違う上質な着物を纏っていた。男は北辰と同じ武官の服を着て、腰に立派な刀を下げている。
女は小夜の前に進み出ると、柔らかく微笑む。
「――さあ、参りましょう」
 鈴を転がしたような可憐な声でそう言った。
「は、はい……」
 周囲の女官たちに、小夜は静かに別れの挨拶を告げた。皆、同情と哀れみの入り混じった複雑な顔で見送ってくれる。
歩き出し、向かう先は暁の住む本殿だと思っていた。小夜は、案内された方角に小さく息を呑む。三人についていくうちに、下級女官は立ち入ることすら許されない、後宮の最奥へと入っていく。
「あの……北辰様、ここは?」
「後宮です」と、隣を歩く女が答えた。
やがて、午前中に女官たちが血眼になって美しく整えていた、例の最高級の一室の前で足が止まる。
「どうぞ、中へ」と、今度は腰の刀に手を添えた男が、促すように扉を開けた。
室内には、見事な織の帳(とばり)や、見たこともないほど豪華な調度品が並んでいる。
小夜は激しく混乱した。なぜ自分が招き入れられたのだろうかと。
「ここへは、高貴な姫君様がお越しになるはずでは?」
「小夜様」
 北辰が振り返り、その厳しい顔を柔らかく綻ばせて一礼した。
「今日からここが、貴方様のお住まいでございます」
「……わたしの、住まい?」
「左様でございます。殿下が巫女殿を他の皇子の害から守り抜くため、こちらを用意されました」
 お妃候補が来る訳ではなかった。自分はまだ兄様の傍にいる事を許されているのだ。
小夜はホッと安堵のため息を吐く。
「この後宮には殿下が張り巡らせた結界がございます。それでもまだ安全とは言い切れない」
安全ではないーーその言葉に小夜は小さく震えた。北辰は一瞥すると話を続ける。
「そこで、小夜様付きの専属の侍女と護衛を配備いたします」
 北辰の言葉に合わすように、隣にいた二人が一歩前へ出て、その場に深く平伏した。
「椿(つばき)にございます、巫女様。お側近くであなた様をお守りいたします。何なりとお申し付け下さい」
 椿の言葉に続き、今度は男が凛とした声を響かせる。
「黒曜(こくよう)と申します。お会いできて、この上なき光栄にございます。我が命にかけてお守りいたします」
「椿はこう見えて忍術の心得があり、隠密(おんみつ)の動きにも長けております。黒曜は私と同じく、殿下直属の兵士として命懸けの鍛錬を重ねてきたキレ者。どうか彼らを信頼してください」
 あまりの怒涛の展開に、小夜の頭は真っ白になった。
風呂敷包み一つを抱えて部屋の真ん中で立ち尽くし、必死に声を絞り出す。
「あ……あの、これは一体どういうことなのですか? 私はお側仕えとして、玄武の宮様のもとで、奴隷のように働くのではなかったのですか?」
「ーーもちろん、働いてもらう」
 低く、耳に響く声。びくりと肩を揺らして振り返ると、いつの間にか部屋の入り口に、壮麗な正装を纏った暁が立っていた。
北辰たちが一斉に道を開け、最敬礼で頭を下げる。
「あ、玄武の宮様!」
「俺から説明しよう。皆は下がって良いぞ」
 人目がなくなると同時に、暁の冷たい眼差しが激しく熱い独占欲の色に変わる。
暁は小夜に近づくと、その細い腰を力強く引き寄せ、自身の腕の中に閉じ込めた。
「昼間はお前の主(あるじ)としてお前を四六時中こき使う。そして夜は、お前はここで、俺として過ごしてもらうつもりだ。異論は?」
「……ありません」
 密着した暁の胸板から力強い鼓動が伝わってくる。暁は小夜の耳元に顔を寄せ囁く。
「お前を、一瞬たりとも俺の目の届かない場所へ離すつもりはない」
「どうして……こんなことまでしてくださるのですか?」
 小夜は探るように尋ねる。
「お前を守るためだよ、小夜。兄たちは、玄武の力が動き出したことに気づいた。必ずお前を奪いに来るはずだ。今すぐ抱いてお前を真の玄武の巫女にしたいが、その望みは叶えてくれぬのだろう?」
 暁の問いに、昨夜の情景が蘇る。
玄武の宮へ巫女として身体を捧げれば、兄様の側に居られるのだろう。自分の身分で玄武の宮と共に生きるには巫女になるしかない。それは分かっている。けれど、心がまだそれを受け入れることができない。
「……それは。もう少し時間が、欲しくて……」
「わかっている。俺とて無理強いはしたくない。だから、お前が巫女だと悟られないように仕事を与える。昼間は女官に紛れて仕事をしろ」
「精一杯働きます」
 働くのは苦ではない。ただ、兄様の求めに応じられない自分が嫌いなだけ。
「ははは、いい心がけだな。でもいいか、これだけは忘れるな。いつか必ず俺はお前を抱く。それまで誰にも、指一本触れさせない」
 暁の腕にさらにぎゅっと力が込められる。冷徹な暴君の仮面の奥に隠された、深い愛情と独占欲。けれど小夜は複雑な思いを抱き苦しむのだった。