北の暁


 どれくらい時が過ぎたのだろう。
ふと顔を上げると灯取りの窓からは丸い月が覗いていた。
まるで憐れむように小夜を静かに照らしている。
ガチャリ、と重い鍵の音がして、扉が開いた。
入ってきたのは、小夜を指導してくれていた年配の女中頭。その手には、死に装束を思わせる白い着物が握られていた。
「小夜……」
「女中頭様! 申し訳ございませんでした。わたし、殿下に無礼を働いてしまって……」
 小夜は地面に額をこすりつけて謝罪の言葉を述べる。
「頭をお上げなさい。皆があなたに茶会の給仕を押し付けたばかりに……どう詫びたら許してくれる?」
「そんな。すべてわたしが悪いのです」
 小夜は力なく首を横に振る。
「……小夜。短い間だったけれど、よく働いてくれたわね。ありがとう」
 ぽつりと告げられた別れの言葉。女中頭の目には涙が浮かんでいる。
宮中のルールを破り、暁の宮の機嫌を損ねた女官がどうなるか、誰もが知っている。
小夜の髪を整え、白い衣を着せ替える女中頭の手が小さく震えていた。
(あぁ、わたしは本当に死ぬのね)
 白い衣を見つめながら、小夜の脳裏にここへ奉公に出る日の記憶が鮮明に蘇る。
『小夜。お前がどこへ行こうとも、神の加護は共にある。……健やかに行くのだよ』
 旅立つ小夜の背中を、温かい手で何度もさすってくれた寺の住職。身寄りのない孤児だった自分を引き取り、実の娘のように優しく育ててくれた恩人。
(ごめんなさい、住職様……。せっかく育てていただいたのに、何一つ恩返しもできないまま、処刑されてしまうなんて。お寺のみんなにも、もう二度と会えないのね……)
 じわり、と目元に涙が浮かぶ。
けれど、この涙は自分を憐れむものではない。自分のせいで大切なお寺や住職様に迷惑がかかるかも知れないと思うと不安で堪らなくなる。
「玄武の宮がお呼びだ。外へ出ろ」
 現れたのは、北辰だった。
小夜は女中頭へ丁寧に頭を下げると牢屋の外へ出た。
「連れて行け」
 左右から屈強な男たちに腕を掴まれた小夜は、夜の暗い廊下を引きずられていく。一歩進むごとに、死が近づいてくる。
北の御殿のひんやりとした空気は、まるで沼の底にいるようだった。
やがてたどり着いたのは大きく重厚な漆黒の扉。暁の、私的な寝所だった。
「殿下。例の女官を連れてまいりました」
「中へ」
 ギィ、と不気味な音を立てて扉が開く。小夜は背中を強く押され、倒れ込むように部屋の中へと足を踏み入れた。 背後でバタリと重厚な扉が閉まる。人払いがされた、静まり返る寝所。
小夜は床に平伏(ひれふ)し、死の宣告を待っていた。
そこへ重い足音が近づき頭上から氷の刃のような声が降ってくる。
「……あのような公の場で、俺を兄と呼ぶなど、お前はよほど命が惜しくないと見える」
 小夜はぎゅっと目を瞑った。
(――殺される)
 そう絶望した瞬間、暁の長い指が小夜の顎を掴みゆっくりと上を向かせた。
恐怖に怯える小夜の瞳に映ったのは、感情のない冷酷な暴君の顔ではなかった。
「久しぶりだな、小夜」
「……え、あの……」
 驚きに目を見張る小夜の目の前にあるのは、酷く愛おしそうに眉を下げて笑う、あの日の兄様の顔。
「なんて顔をしてるんだ。怖がらせてすまなかったな。あそこには他の目が多すぎた」
「ほ、本当に……兄様、なのですね」
 小夜の問いかけに、暁の端正な顔からふっと温かい笑みが漏れる。
「ああ。大きくなったな、小夜」
 間違いなく、ずっと会いたいと思っていた兄様だった。
張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れる。小夜はそのまま、ヘナヘナと暁の胸の中へ倒れ込むようにして崩れ落ちてしまった。
「おっと……大丈夫か? よほど怖かったんだな。すまない」
 暁は小夜の軽い身体をひょいと横抱きにすると、静かに天蓋付きの寝台へと横たえた。
その拍子に乱れた白い着物の隙間から小夜の豊かな胸元がはだけ、白い肌に刻まれた赤い字のような紋様が暁の目に飛び込んでくる。
「……小夜、これはなんだ⁉︎」
 暁は小夜の着物の襟を、ぐいっと両手で強引にはだけさせた。
「あ、あの、兄様……なにを?」
 小夜が顔を赤くして身を竦めるが、暁は焦った様子で問い詰める。
「この胸元の紋様は、どうした。いつからある」
「生まれた時からです……住職様からは決して人に見せてはいけないと言いつけられていました。とても大切な印だからと……」
 その言葉に、暁は寺の住職から聞いた話を思い出す。
『――暁様。特別な印を持つ娘こそが貴方様を麒麟へ導く存在でございます』
 住職はこうも言っていた。
『深く結ばれることで内なる力が覚醒するのです』と。
「住職が言っていたのは、これのことだったのか。麒麟に導くとはつまり……」
 嗚呼、と暁は天を仰いだ。この幼馴染が探すことさえ諦めた巫女だったとは。
「”こういうこと”って? ねえ、兄様。小夜にも教えてくださいな」
 ねだるような視線を向ける小夜に暁はハッと我に返った。
「……あぁ、すまない。その印はな、四神の巫女の証だ」
 集められた女たちの中から巫女を探す為、義務感だけで後宮に通った時期もあった。中には鳴り物入りで後宮に入った自称巫女がいたが、その日のうちに攫われ無惨な姿で送り返されてきた。偽物だったのだ。
『もう、うんざりだ』と暁は思った。
だから暴君を装い、後宮の女たちに暇をとらせ、この荒廃した北の御殿に引きこもることで、自ら皇位継承権を放棄したつもりだった。それなのに。
運命は二人を逃がさなかった。
「小夜、お前は我が玄武の巫女になる覚悟があるか?」
 暁は小夜の華奢な肩を掴むと、噛み締めるように問いかける。
「……巫女? わたしが……?」
 小夜は目を見張った。孤児として山寺で育った自分がそのような存在であるはずがない。
「そうだ。信じられないのだろう? ならばその封じられた力を、少し解放させてみよう」
 暁は小夜の顎を掴み、顔を近づける。鼻先が触れ合うほどの至近距離に小夜は驚きに目を見開いた。
かつて優しかった兄様の面影はそこにはない。目の前にいるのは抗えない力を持った”男”そのものだった。
「兄様、なにをなさるのです――」
 暁は小夜の体をを寝台(しんだい)へと押し込むようにして、彼女の唇に自身の唇を押し当てた。
 その瞬間、小夜の胸元に刻まれた紋様が淡く発光した。同時に、身体から放たれた清らかな光が水の波紋のように北の御殿へと広がり、他の皇子からの呪詛(じゅそ)によって、立ち込めていた不浄な瘴気(しょうき)をも一瞬にして浄化していく。
「……これは、いったい……」
 呆然とする小夜の耳元で、暁が囁く。
「これがお前の力だ。俺と触れ合ったことで、玄武の力を発動させたんた」
 小夜は混乱していた。理解が追いついていかない。だが混乱の理由はそれだけではなかった。小夜が口づけを交わしたのは生まれて初めてだったのだ。
「どうした? どこか痛むか?」
 小夜を気遣うように暁は聞く。
「……いいえ」
 むしろ、力がみなぎる様な感覚さえある。
「これでわたしは玄武の巫女になったのですか?」
「そうではない。真の巫女となるには四神の力を持つものと深く結びつく必要があると聞いた」
「結び付き、ですか? 兄様との?」
 純粋な小夜にはその言葉に意味が理解できない。首を傾げ、真っ直ぐに暁を見つめる。長いまつげに潤んだ瞳。幼さを残しながらも美しく成長した小夜の視線に暁は視線をそらした。
これからしようとしていることは、小夜の未来を根こそぎ奪う行為だ。だが、彼女を他の皇子(あに)たちに奪われるくらいならいっそ――。
「ああ、そうだ。これからお前を抱くぞ」
 暁は抗う隙を与えない。強引に小夜の白い首筋に唇を這わせる。
「ま、待ってください。心の準備が出来ておりません……」
「それなら今しろ」
 暁が再び小夜の唇を塞ごうとしたその瞬間――バァン‼︎と寝所の扉が凄まじい勢いで開いた。
「なにごとですか、殿下ーーっ⁉︎」
 飛び込んできたのは北辰だった。
北辰は、寝所から暁のものとは違う"気"が発せられたことで。主人の身に危機が迫ったと危惧し駆けつけたのだ。
抜刀しかけていた北辰の視線が、ベッドの上で、肌が露わになった小夜を庇うように抱きしめている暁の姿へと向けられる。
「この女め! 今すぐ暁様から離れろ!」
「騒ぐな、北辰」
 暁はピシャリと言い放ち、小夜の身体を愛おしそうに腕の中に隠した。北辰はその場に跪きながらも、信じられないものを見るように小夜を見つめた。
「殿下、まさか、その下女が……本物の?」
「そのようだ。……だが、契りは交わしていない。巫女の力はまだまだ覚醒途中だ。今、他の皇子たちに気付かれてはならぬ。絶対に守り通せ」
「御意……っ! 直ちに警備を強めます!」
 北辰が興奮に胸を震わせながら退出していく。暁は小夜を抱きしめて「北辰に救われたな」と笑う。
「今日の所は休むとするか。疲れただろう」
「……はい。兄様」
 安堵の表情を浮かべる小夜に暁は目を細める。
「ハハハ、ほっとしたか」
「……いえ、その……はい」
「だがな、小夜。俺にいつ抱かれてもいいように心の準備とやらをしておくようにな」
 暁の言葉には抗えない強さがあった。小夜は自らの宿命を受け止めるが如く、コクリと頷いた。