「柊、一緒に出掛けないか?」
忙しいであろう槐が今まで以上に声をかけてくるようになった。
「お仕事はよろしいのですか?」
「仕事の一環だ。国の者たちの様子を聞きにいく。冬は問題なく越せそうか、困っていることはないかとかな。おまえもついてきてくれ」
「そういうことでしたら喜んで」
身支度を整えると槐に手を引かれた馬に乗る。
「屋敷での生活には慣れたか?」
「はい」
「よかった。おまえは屋敷のみなにも歓迎されている。もとより一緒に働いていたものばかりだ、おまえの帰りをみな待ち望んでいた」
「私も嬉しいです」
「椿とはうまくやっているか?」
「はい……」
椿はことあるごとに柊に嫌味を言い、仕事を投げ出しているが、夏の神の手前告げ口するようなことはできない。屋敷に大きな問題は起こっていない、自分だけが我慢すればよい状況であれば無理に耳に入れる必要もないだろう。
「あれは国のことを考えてくれている、仲良くしてやってくれ」
椿の実家は国に多額の援助金を出しているらしい。それに、槐は椿のことを買っているようだった。
「はい……」
城下町に着くと人々に声をかけて回る。普段から気さくに声をかけているのが伝わってくる。
「旦那様、今日は奥方様もご一緒で」
「ああ、困ったことはないか?」
「ええ、これまでないほどに今年は豊作になりそうです」
「それはよかった」
「きっと奥方様が冬の神の加護を得たからでしょう、安心して冬が越せそうです」
人々が柊に向かって拝むので柊は慌てて首を横に振る。
「みなさんの努力の賜物ですよ」
「そうおっしゃっていただけてありがたいです。やる気が出ます。それにしても、あの柊が旦那様の奥方になられるなんて、喜ばしいことです」
「柊は俺の願いを叶えてくれたのだ」
「長い片思いでしたよねえ、見ているこちらも微笑ましかったです」
「じゃ、じゃあ俺たちはもう行く」
照れたような表情で槐は馬を歩かせる。
「本当に、長い片思いだった。この十年間おまえを想わない日はなかった」
「私も、槐様のことを考えない日はありませんでした」
そう、毎日槐様のことを考えていた。ちゃんと食事はしているか、大きなけがをしていないか、病に掛かってはいないか……。そんなことばかりを考えていた。
十年の時の間にきっと椿様とご結婚されて……。こちらに帰ることがあればきっと淡い恋は終わっているのだと思っていた。
そう思いいたったところでハッとする。現世に帰ってくるときに冬の神と何か話をしなかっただろうか。願い事の……。そうだ、冬の神はひとつだけ願いを叶えてくれると言った。
私は、なにを願ったのだろう。覚えていない……。
人々と交流し終え、小高い丘に登ると国中が一望できた。山間にある小さな国だが、四季の神々の加護で豊かな土地である。小金色に輝く田や、緑豊かな畑が見える。豊かに水の流れる川に、青々とした空。美しい国だ。
「俺はこの地をおまえと一緒に治めていきたい」
心に、キリキリと何かがきしむ音がする。
「はい……」
「柊、俺はおまえのことが好きだ。心から愛しいと思う。一刻の領主としては向いていないかもしれない。だが、おまえがいるからこの国の人々のことも、同じように愛しく思える」
冬の池に張っていた氷が、わずかに割れるような音が聞こえる、心が鳴る。
「柊……」
槐が熱いまなざしで見つめてくる。わずかに鼓動が聞こえる。それが自分の胸から響いていることに驚いた。心が、わずかに動く。
「槐様」
「口づけてもいいか?」
「はい、もちろん」
ゆっくりと熱がおりてくる。唇でそれを受け止めると、一筋の涙がこぼれた。槐が驚いたような顔をしている、顔が熱い。
「柊……」
「ごめんなさ、泣いたりして。私、たぶん嬉しくて……嬉しくて……」
震える声で言うと、槐が力強く抱きしめてくる。
「愛している」
「……私、私も……」
心がわずかに震える。愛しいと言う気持ちを思い出したような気がした。どうして今まで忘れていたのだろう。こんなに鮮烈な感情なのに。
「楸におまえを渡しはしない、絶対に」
「楸様? なにかありましたか?」
「いや、なにもない。おまえは俺のことだけを見ていてくれたらいい」
少し不機嫌そうに答える槐に、十年前の幼さの残る少年のころの槐を見つけて心が温かくなる。
「笑うな……」
「ごめんなさい、なんだか、槐様が可愛くて、愛しくて……」
「かわいいと言われるのは少し侵害だが……おまえが嬉しそうならいい」
「ふふ」
思わず笑みが漏れる。久し振りに感じる感情のような気がする。心地よい時間だ。
「柊、おまえに教えてもらいたいことがある」
「なんでしょうか?」
「冬の神におまえが未練を抱えたまま幽世に来たと聞いた。だから現世に帰したとも、おまえの未練はなんだ、俺はそれを知りたい。そして失くしたい」
「未練……ですか?」
問われて考える。幽世に行く前の自分が抱えていた未練など、ひとつしかない。ただ、口にするのは恥ずかしい。戸惑っていると、槐がじっと見つめてくる。柊は根負けして口を開いた。
「…ただ、槐様に想いを伝えたかったと……椿様と結婚なさると聞いていましたから、言ったことろでせんないこと。槐様を困らせるだけだと思っておりました」
そう告げると槐が強く抱きしめてくる。
「愛している柊」
ミシミシと音を立てていた心がはじけた。パリンと体の中で音が響いて、途端に温かな気持ちがあふれ出てくる。
「私もです……」
冬の神が凍らせた心が、完全に解けた瞬間だった。
***
柊の心に確かな変化が表れている。そう感じた矢先、柊が体調を崩した。
「柊様はお加減が優れなくて、今夜もひとりで眠りに就きたいそうです」
椿がそう言って部屋に入れてくれないのである。調子が悪いのなら、一目見舞いたいのだが、柊が嫌がっているらし。やっと、心が通じ合えたような気がしていたのに。会えないことがもどかしい。
「早く良くなってくれと伝えてくれ。その身を案じていると」
「かしこまりました」
そんな日々が続いたある日、楸に柊の様子を尋ねてみたが、楸が首を傾げた。
「おかしいですね、日中柊様は楽しそうに庭のお手入れをされていましたよ」
楸の話では柊が調子を崩しているなど聞いていないと言う。もしかして、槐に会うのが苦痛なのだろうか。楸には元気な様子を見せ、槐には会いたくないと言う。柊の心が更にわからなくなってしまった。
ある夜更けに椿が訪ねてきた。今夜も柊はひとりで休みたいと言っているらしい。無理に押し入るわけにもいかず、部屋で仕事を片付けていたところだ。
「槐様よろしいですか?」
「どうした、柊になにか?」
「はい。あの、差し出がましいことなのですが、一言お伝えしたくて」
「なんだ?」
「柊様は槐様と褥を共にするのを怖がっているようです」
「柊が……」
心を通わせるようになったから、強引に抱かれると心配しているのかもしれない。柊は俺が求めることを断ることなどできないだろう。だからそれを恐れて一緒に過ごしてくれなくなったと言うのか。
「そこで提案がございます」
「言ってみろ」
「その……実は私、どうやら春の神の加護を得たようなのです。これもきっと四季の神のご意思。どうか私を側室にお迎えください。そうすれば柊様のお心の不安も和らぐはずです」
「……なん、だと」
「春の神が私の前に姿を現してくださいました」
「……それは、本当か」
「確かでございます。どうか柊様のためにも、国のためには私を妻にお迎えください」
椿の言うとおりかかもしれない。ひとりしか妻がいないと言う状況に、柊が重圧を感じていた可能性は否定できない。もとより控えめな性格の女だ。領主の妻という役目を重荷に感じていた可能性はある。
それにしても、椿が春の神の加護を得るとは。
「考えておく」
答えると椿は表情を明るくした。
「よろしくお願いいたします」
妖艶に微笑む椿から視線を外す。
「下がれ」
「え……もう、下がってよろしいのですか?」
「当たり前だ、早く柊のもとへ行け」
居座ろうとする椿を追い出すと、槐は頭を抱えた。自分の想いは柊にとって重荷なのかもしれない。
一緒に出かけた日に心を通わせることができたような気がしていたが、それは槐の思い込みだったのだろう。
***
翌日、椿が春の神の加護を得たことで、椿の実家が中心となって盛大に祝うことになった。一躍時の人となった椿は柊を見つけてにやりと笑みを見せる。
「私、春の神の加護を得たのよ」
「おめでとうございます」
「ちょっと、もっと嬉しそうにしなさいよ。これで槐様は私を妻に迎える気になるはず、あなたも肩の荷が下りるわよ」
国のことを考えたら喜ばしいことであるのに心が苦しい。柊は無理やり笑みを浮かべ、椿のことを祝福した。
***
椿が春の神の加護を得たことで、人々は槐が椿のことも妻に迎えるものだとまことしやかに噂するようになった。槐としてはその気はないが、国民のことを考えたら抗うわけにもいかなくなる。もやもやとした感情を抱えたままの槐は春の神殿を訪ねていた。神官たちが真っ青な顔をしている。
「何があった」
「お忙しい中足をお運びくださいありがとうございます。春の神のご神体にひびが入りました」
「どういうことだ」
「春の神がお怒りです」
「なぜ……」
「わかりません、ですが、このままでは四季が巡らなくなるかもしれません。どうか夏の神に春の神のことを聞いてください」
槐は眉をひそめる。
「わかった。すぐに夏の神殿に行ってくる」
馬を走らせて夏の神殿にたどり着くと、夏の神を呼ぶ。姿を見せた夏の神は難しい顔をしていた。
『まずいぞ、槐』
「春の神殿で神官たちから春の神がお怒りだと聞きました」
『ああ、そのようだ。どうやら、自分の加護を得たと嘘をついている者がいるらしくてな』
夏の神の話に言葉を失う。つまり、椿は春の神の加護など受けていないということか。
『春の神は向こう百年春は訪れないと言っている。あれは気まぐれだが、一度言い出したことは遂行する性質だ』
「それは困ります……なんとか許しを請うことはできないでしょうか」
春はあらゆる生命の芽吹く時期である。春が来なければ、この地の作物は育たない。
『槐、不幸中の幸いだが、冬の神がおまえに力を貸すと言っている』
夏の神の声が槐の心に光を照らす。
「それはありがたいことです」
『春の神を説得してくれるそうだ。冬の神は俺たちの間で最も強い力を持つ神、春の神も言うことを聞くだろう』
「よろしく頼みますとお伝えしてください」
表情を明るくした槐に対して、夏の神は暗い顔をする。
『ただ、代わりにおまえの最も大切な者を渡せと言っている。春の神を説得すのに力を使うのだろう。冬の神は長い眠りに就く、その間、四季が正常に巡るよう世話をする者がいる』
「俺の最も大切な者、それは……つまり」
柊を寄こせと言うこと。
「できない……」
「領主様!」
夏の神殿の神官たちが慌てて槐に声をかける。
「いや、……ほかの方法を考える。時間をくれ」
神官たちは複雑な顔をしたまま槐に深く頭を下げた。屋敷に戻ったら楸に話をして椿の処遇を考えなけばいけない。椿のことはいい、問題はどうやって冬の神に柊から手を引いてもらうかということだ。
「椿のやつ、どんでもないことをしてくれたものだ」
重たい頭を抱えながら槐は帰路に着いた。
***
槐と思いが通じ合ったと言うのに、最近槐はあまり柊のもとを訪れない。どうやら仕事が忙しいらしい。
「槐様も今夜は別室でお休みになられるそうよ」
夕刻になり槐が屋敷に戻ってきたらしい。言づけを得た椿がそう告げてきた。
「そうですか」
「代わりに私が呼ばれているの、あなたはゆっくりと休んでいてちょうだい」
「……わかりました」
少し前のように、槐のことをなんとも思わなくなっていたらよかったのにと心底思う。槐のことが好きなのだという気持ちを思い出した今、椿が槐と夜を過ごすと思うと嫉妬で頭がおかしくなってしまいそうだった。
「槐様に私を側室に迎えるようお願いしてみたの。そうしたら考えるって言ってくださったわ、当たり前よね、私は春の神の加護を得たのだから、いずれ槐様のお子を産むのは私よ」
「そう、ですか……」
心が痛む。椿は槐のことをきっと愛している。感情表現に富んだ椿を側室に迎えられたら、槐は幸せになるだろう。自分のような面白くもない女を妻にしている今よりもきっと。春の神が椿に加護を与えたのは、四季の神々も椿が槐の妻になることを望んでいるから。
「あ……」
はらりとこらえきれなくなった涙がこぼれ落ちる。柊の涙を見て、椿は口角を持ち上げた。
「今更槐様を想ったって無駄よ。槐様はあんたのことは諦めたの。あんたみたいなつまらない女をいつまでも思ってくれるはずがないでしょう? 私が身籠ったら私が正室のようなもの。あなたは離れでも作って隠居してちょうだい。ここにいたいというのなら、離縁してまた使用人に戻るのはどう? あんたは働くのが好きですもの、私の付き人にしてあげようかしら」
だめだ、耐えられない。少し前まで何ともなかったはずなのに、今は心が苦しい。私は槐様のことがどうしようもなく好きなのだ。槐様に見限られて、ようやくわかった。痛いほどに。
「あはは、なによその顔。槐様が興覚めするのも当然よ」
椿が高らかに笑う声が部屋の中に響き渡ると同時に障子戸が開いた。
***
椿を問いただそうと柊の部屋に着くとふたりが話している声が聞こえた。
「今更槐様を想ったって無駄よ。槐様はあんたのことは諦めたの。あんたみたいなつまらない女をいつまでも思ってくれるはずがないでしょう? 私が身籠ったら私が正室のようなもの。あなたは離れでも作って隠居してちょうだい。ここにいたいというのなら、離縁してまた使用人に戻るのはどう? あんたは働くのが好きですもの、私の付き人にしてあげようかしら」
なんの話をしているのだ。この声は椿のもの、到底領主の妻に語り掛けるような口調ではない。
「あはは、なによその顔。槐様が興覚めするのも当然よ」
我慢ならなくて障子戸を開けると、柊を抱き寄せた。槐を見た椿の顔が固まる。
「柊、体調は良いのか?」
「はい、私はなんとも……」
不思議そうな顔をしている柊を見つめる。顔色も悪くない、体調が悪いと言うのが偽りだったことがよくわかる。冬の神が言っていた、柊に害をなしている者は椿であった。今まで気が付きもしなかった自分に腹が立つ。
「槐様……どうして。今夜も別室でお休みになられると……」
「ああ、おまえが柊の調子が悪いと言ったから仕方なくそうしていたが。今の話はなんだ」
槐は非難するような声で椿に問いかけると、椿はその場にひれ伏す。
「申し訳ございません。すべては久遠の国を思ってのことでございます。私を妻に迎えれば、春の神のご加護できっとお役に……」
「春の神と言ったな。椿、春の神がおまえに腹を立てている」
「春の神様が……ど、どうしてですか!」
椿は青い顔をする。何か思い当たる節があるのだろう。
「おまえ、春の神の加護を得たと嘘を吐いたな」
槐が問いただすと、椿は怒りを露わにする。
「だって、槐様が悪いのです! 私が妻になるはずだったのに柊なんかを待つって言うから! でもずっと我慢していたのです、あなたのことが好きだから……。もうすこしで妻になれるはずだったのに、今度は柊が帰ってきたりして、私の計画はめちゃくちゃよ!」
自分を正当化しようとする椿に強い怒りを感じた。必死に冷静さを取り繕って告げる。
「椿、おまえにはもうこの地に居場所はない」
「お待ちください槐様! 槐様!」
縋りつこうとする椿をその場に残し、柊を横抱きにして自室に向かう。
「会いに来られなくて悪かった。寂しい思いをさせたな」
柊は大丈夫だと笑うだろう。寂しいと思っていたのは自分だけかもしれない。だが、柊は潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
「はい、寂しかったです」
「本当に……?」
「はい、椿様と槐様が一緒にいられると思ったら苦しくて……会いに来てくださってありがとうございました。嬉しかったです、とても」
心が乱される。柊のことが愛しくてたまらなかった。手放せるはずがない。だが、どうやって春の神の許しを得たらよいのか見当もつかなかった。春の神と話をするしかない。
「今夜は一緒に眠ろう柊」
「はい」
ひとりで眠っていた寝所に柊を下ろす。月の美しい夜だ。柊の瞳を見れば、自分を受け入れてくれていることが伝わる。
「いいのか?」
「はい」
肌を重ねると、互いの鼓動聞こえてくる。十年以上思い続けた初恋が叶った。
***
「柊様、いらっしゃいますか?」
体に残るけだるさを感じながら、柊は目を覚ました。まだ暗い。声の主は楸だ。慌てて衣を羽織る。
「どうかしましたか?」
「槐様に内密にお伝えしたいことがあります」
槐が規則正しい寝息を立てていることを確認してから急いで身支度を整え、部屋を出る。楸は暗い顔をしていた。
「椿様が春の神の怒りを買われました。怒りを鎮めるために、冬の神が力を貸してくださるそうです」
楸は一呼吸おいてから再び口を開く。
「柊様、冬の神はあなたを所望されています。代わりにこの国を救ってくださると。槐様はあなたを手放すことなどできないでしょう、ですから私からお伝えいたします」
「わかりました」
柊に迷いはなかった。長く抱えた初恋は叶った。槐から、多くの愛情をもらった。もう十分だ。
「冬の神殿に参りましょう」
柊の言葉に楸は泣きそうな顔になる。
「おまえにはいつも我慢させてばかりだったね、柊」
「いいえ、私、いつも幸せでした」
柊は笑顔で屋敷を後にした。
神殿にたどり着くと神官たちが悲壮な顔をしていた。十年前のあの日とよく似ている。
「冬の神様、どうか春の神様の怒りをお鎮めください」
『よく来た、柊。おまえのことをずっと待っていた。その願い、叶えよう。久遠の国に未来永劫の実りを約束しよう』
辺りが冷え込み、ちらちらと雪が舞う。
さようなら、槐様。あなたのことを愛していました。
柊が瞳を閉じた時、世界がゆがんで景色が変わった。静謐に満ちた冬の世界だ。目の前に冬の神がいる。
「ただいま戻りました」
『また会えて嬉しい。現世はどうであった?』
「幸せな時間を過ごせました」
『そうか。少し待っておれ、春の神と話をつけてくる』
幽世は時間の流れがわからない、思い出すのは槐のことばかりだった。長くすれ違ったのは、自分の心が幽世の生活を経て鈍くなっていたからだろう。恋心を、思い出すことができてよかった。
「槐様……」
名前を呼ぶだけで胸が締め付けられる。
どのくらいの時間が経ったのかわからないが、冬の神が戻ってきた。
『随分と腹を立てていた』
「そうでしたか……」
『だが安心しろ、久遠に春はやってくる』
「本当ですか! ありがとございます冬の神様」
これで久遠の国は安泰だろう。槐様には椿様がいらっしゃる。今は拒絶されていてもいずれは仲睦まじくなるかもしれない。そうであるべきだと思う。想像するだけで心がちぎれそうになる。もう、柊にはどうすることもできないというのに。
私は久遠の国を選んだのだ。想いを伝えることはできた。結ばれることもできた。これ以上望むものは何のない。
『柊』
「はい、なんでしょうか」
『いや、なんでもない』
冬の神は珍しく困ったような顔をしていた。
さらさらさらさらと月日が流れていく。
忙しいであろう槐が今まで以上に声をかけてくるようになった。
「お仕事はよろしいのですか?」
「仕事の一環だ。国の者たちの様子を聞きにいく。冬は問題なく越せそうか、困っていることはないかとかな。おまえもついてきてくれ」
「そういうことでしたら喜んで」
身支度を整えると槐に手を引かれた馬に乗る。
「屋敷での生活には慣れたか?」
「はい」
「よかった。おまえは屋敷のみなにも歓迎されている。もとより一緒に働いていたものばかりだ、おまえの帰りをみな待ち望んでいた」
「私も嬉しいです」
「椿とはうまくやっているか?」
「はい……」
椿はことあるごとに柊に嫌味を言い、仕事を投げ出しているが、夏の神の手前告げ口するようなことはできない。屋敷に大きな問題は起こっていない、自分だけが我慢すればよい状況であれば無理に耳に入れる必要もないだろう。
「あれは国のことを考えてくれている、仲良くしてやってくれ」
椿の実家は国に多額の援助金を出しているらしい。それに、槐は椿のことを買っているようだった。
「はい……」
城下町に着くと人々に声をかけて回る。普段から気さくに声をかけているのが伝わってくる。
「旦那様、今日は奥方様もご一緒で」
「ああ、困ったことはないか?」
「ええ、これまでないほどに今年は豊作になりそうです」
「それはよかった」
「きっと奥方様が冬の神の加護を得たからでしょう、安心して冬が越せそうです」
人々が柊に向かって拝むので柊は慌てて首を横に振る。
「みなさんの努力の賜物ですよ」
「そうおっしゃっていただけてありがたいです。やる気が出ます。それにしても、あの柊が旦那様の奥方になられるなんて、喜ばしいことです」
「柊は俺の願いを叶えてくれたのだ」
「長い片思いでしたよねえ、見ているこちらも微笑ましかったです」
「じゃ、じゃあ俺たちはもう行く」
照れたような表情で槐は馬を歩かせる。
「本当に、長い片思いだった。この十年間おまえを想わない日はなかった」
「私も、槐様のことを考えない日はありませんでした」
そう、毎日槐様のことを考えていた。ちゃんと食事はしているか、大きなけがをしていないか、病に掛かってはいないか……。そんなことばかりを考えていた。
十年の時の間にきっと椿様とご結婚されて……。こちらに帰ることがあればきっと淡い恋は終わっているのだと思っていた。
そう思いいたったところでハッとする。現世に帰ってくるときに冬の神と何か話をしなかっただろうか。願い事の……。そうだ、冬の神はひとつだけ願いを叶えてくれると言った。
私は、なにを願ったのだろう。覚えていない……。
人々と交流し終え、小高い丘に登ると国中が一望できた。山間にある小さな国だが、四季の神々の加護で豊かな土地である。小金色に輝く田や、緑豊かな畑が見える。豊かに水の流れる川に、青々とした空。美しい国だ。
「俺はこの地をおまえと一緒に治めていきたい」
心に、キリキリと何かがきしむ音がする。
「はい……」
「柊、俺はおまえのことが好きだ。心から愛しいと思う。一刻の領主としては向いていないかもしれない。だが、おまえがいるからこの国の人々のことも、同じように愛しく思える」
冬の池に張っていた氷が、わずかに割れるような音が聞こえる、心が鳴る。
「柊……」
槐が熱いまなざしで見つめてくる。わずかに鼓動が聞こえる。それが自分の胸から響いていることに驚いた。心が、わずかに動く。
「槐様」
「口づけてもいいか?」
「はい、もちろん」
ゆっくりと熱がおりてくる。唇でそれを受け止めると、一筋の涙がこぼれた。槐が驚いたような顔をしている、顔が熱い。
「柊……」
「ごめんなさ、泣いたりして。私、たぶん嬉しくて……嬉しくて……」
震える声で言うと、槐が力強く抱きしめてくる。
「愛している」
「……私、私も……」
心がわずかに震える。愛しいと言う気持ちを思い出したような気がした。どうして今まで忘れていたのだろう。こんなに鮮烈な感情なのに。
「楸におまえを渡しはしない、絶対に」
「楸様? なにかありましたか?」
「いや、なにもない。おまえは俺のことだけを見ていてくれたらいい」
少し不機嫌そうに答える槐に、十年前の幼さの残る少年のころの槐を見つけて心が温かくなる。
「笑うな……」
「ごめんなさい、なんだか、槐様が可愛くて、愛しくて……」
「かわいいと言われるのは少し侵害だが……おまえが嬉しそうならいい」
「ふふ」
思わず笑みが漏れる。久し振りに感じる感情のような気がする。心地よい時間だ。
「柊、おまえに教えてもらいたいことがある」
「なんでしょうか?」
「冬の神におまえが未練を抱えたまま幽世に来たと聞いた。だから現世に帰したとも、おまえの未練はなんだ、俺はそれを知りたい。そして失くしたい」
「未練……ですか?」
問われて考える。幽世に行く前の自分が抱えていた未練など、ひとつしかない。ただ、口にするのは恥ずかしい。戸惑っていると、槐がじっと見つめてくる。柊は根負けして口を開いた。
「…ただ、槐様に想いを伝えたかったと……椿様と結婚なさると聞いていましたから、言ったことろでせんないこと。槐様を困らせるだけだと思っておりました」
そう告げると槐が強く抱きしめてくる。
「愛している柊」
ミシミシと音を立てていた心がはじけた。パリンと体の中で音が響いて、途端に温かな気持ちがあふれ出てくる。
「私もです……」
冬の神が凍らせた心が、完全に解けた瞬間だった。
***
柊の心に確かな変化が表れている。そう感じた矢先、柊が体調を崩した。
「柊様はお加減が優れなくて、今夜もひとりで眠りに就きたいそうです」
椿がそう言って部屋に入れてくれないのである。調子が悪いのなら、一目見舞いたいのだが、柊が嫌がっているらし。やっと、心が通じ合えたような気がしていたのに。会えないことがもどかしい。
「早く良くなってくれと伝えてくれ。その身を案じていると」
「かしこまりました」
そんな日々が続いたある日、楸に柊の様子を尋ねてみたが、楸が首を傾げた。
「おかしいですね、日中柊様は楽しそうに庭のお手入れをされていましたよ」
楸の話では柊が調子を崩しているなど聞いていないと言う。もしかして、槐に会うのが苦痛なのだろうか。楸には元気な様子を見せ、槐には会いたくないと言う。柊の心が更にわからなくなってしまった。
ある夜更けに椿が訪ねてきた。今夜も柊はひとりで休みたいと言っているらしい。無理に押し入るわけにもいかず、部屋で仕事を片付けていたところだ。
「槐様よろしいですか?」
「どうした、柊になにか?」
「はい。あの、差し出がましいことなのですが、一言お伝えしたくて」
「なんだ?」
「柊様は槐様と褥を共にするのを怖がっているようです」
「柊が……」
心を通わせるようになったから、強引に抱かれると心配しているのかもしれない。柊は俺が求めることを断ることなどできないだろう。だからそれを恐れて一緒に過ごしてくれなくなったと言うのか。
「そこで提案がございます」
「言ってみろ」
「その……実は私、どうやら春の神の加護を得たようなのです。これもきっと四季の神のご意思。どうか私を側室にお迎えください。そうすれば柊様のお心の不安も和らぐはずです」
「……なん、だと」
「春の神が私の前に姿を現してくださいました」
「……それは、本当か」
「確かでございます。どうか柊様のためにも、国のためには私を妻にお迎えください」
椿の言うとおりかかもしれない。ひとりしか妻がいないと言う状況に、柊が重圧を感じていた可能性は否定できない。もとより控えめな性格の女だ。領主の妻という役目を重荷に感じていた可能性はある。
それにしても、椿が春の神の加護を得るとは。
「考えておく」
答えると椿は表情を明るくした。
「よろしくお願いいたします」
妖艶に微笑む椿から視線を外す。
「下がれ」
「え……もう、下がってよろしいのですか?」
「当たり前だ、早く柊のもとへ行け」
居座ろうとする椿を追い出すと、槐は頭を抱えた。自分の想いは柊にとって重荷なのかもしれない。
一緒に出かけた日に心を通わせることができたような気がしていたが、それは槐の思い込みだったのだろう。
***
翌日、椿が春の神の加護を得たことで、椿の実家が中心となって盛大に祝うことになった。一躍時の人となった椿は柊を見つけてにやりと笑みを見せる。
「私、春の神の加護を得たのよ」
「おめでとうございます」
「ちょっと、もっと嬉しそうにしなさいよ。これで槐様は私を妻に迎える気になるはず、あなたも肩の荷が下りるわよ」
国のことを考えたら喜ばしいことであるのに心が苦しい。柊は無理やり笑みを浮かべ、椿のことを祝福した。
***
椿が春の神の加護を得たことで、人々は槐が椿のことも妻に迎えるものだとまことしやかに噂するようになった。槐としてはその気はないが、国民のことを考えたら抗うわけにもいかなくなる。もやもやとした感情を抱えたままの槐は春の神殿を訪ねていた。神官たちが真っ青な顔をしている。
「何があった」
「お忙しい中足をお運びくださいありがとうございます。春の神のご神体にひびが入りました」
「どういうことだ」
「春の神がお怒りです」
「なぜ……」
「わかりません、ですが、このままでは四季が巡らなくなるかもしれません。どうか夏の神に春の神のことを聞いてください」
槐は眉をひそめる。
「わかった。すぐに夏の神殿に行ってくる」
馬を走らせて夏の神殿にたどり着くと、夏の神を呼ぶ。姿を見せた夏の神は難しい顔をしていた。
『まずいぞ、槐』
「春の神殿で神官たちから春の神がお怒りだと聞きました」
『ああ、そのようだ。どうやら、自分の加護を得たと嘘をついている者がいるらしくてな』
夏の神の話に言葉を失う。つまり、椿は春の神の加護など受けていないということか。
『春の神は向こう百年春は訪れないと言っている。あれは気まぐれだが、一度言い出したことは遂行する性質だ』
「それは困ります……なんとか許しを請うことはできないでしょうか」
春はあらゆる生命の芽吹く時期である。春が来なければ、この地の作物は育たない。
『槐、不幸中の幸いだが、冬の神がおまえに力を貸すと言っている』
夏の神の声が槐の心に光を照らす。
「それはありがたいことです」
『春の神を説得してくれるそうだ。冬の神は俺たちの間で最も強い力を持つ神、春の神も言うことを聞くだろう』
「よろしく頼みますとお伝えしてください」
表情を明るくした槐に対して、夏の神は暗い顔をする。
『ただ、代わりにおまえの最も大切な者を渡せと言っている。春の神を説得すのに力を使うのだろう。冬の神は長い眠りに就く、その間、四季が正常に巡るよう世話をする者がいる』
「俺の最も大切な者、それは……つまり」
柊を寄こせと言うこと。
「できない……」
「領主様!」
夏の神殿の神官たちが慌てて槐に声をかける。
「いや、……ほかの方法を考える。時間をくれ」
神官たちは複雑な顔をしたまま槐に深く頭を下げた。屋敷に戻ったら楸に話をして椿の処遇を考えなけばいけない。椿のことはいい、問題はどうやって冬の神に柊から手を引いてもらうかということだ。
「椿のやつ、どんでもないことをしてくれたものだ」
重たい頭を抱えながら槐は帰路に着いた。
***
槐と思いが通じ合ったと言うのに、最近槐はあまり柊のもとを訪れない。どうやら仕事が忙しいらしい。
「槐様も今夜は別室でお休みになられるそうよ」
夕刻になり槐が屋敷に戻ってきたらしい。言づけを得た椿がそう告げてきた。
「そうですか」
「代わりに私が呼ばれているの、あなたはゆっくりと休んでいてちょうだい」
「……わかりました」
少し前のように、槐のことをなんとも思わなくなっていたらよかったのにと心底思う。槐のことが好きなのだという気持ちを思い出した今、椿が槐と夜を過ごすと思うと嫉妬で頭がおかしくなってしまいそうだった。
「槐様に私を側室に迎えるようお願いしてみたの。そうしたら考えるって言ってくださったわ、当たり前よね、私は春の神の加護を得たのだから、いずれ槐様のお子を産むのは私よ」
「そう、ですか……」
心が痛む。椿は槐のことをきっと愛している。感情表現に富んだ椿を側室に迎えられたら、槐は幸せになるだろう。自分のような面白くもない女を妻にしている今よりもきっと。春の神が椿に加護を与えたのは、四季の神々も椿が槐の妻になることを望んでいるから。
「あ……」
はらりとこらえきれなくなった涙がこぼれ落ちる。柊の涙を見て、椿は口角を持ち上げた。
「今更槐様を想ったって無駄よ。槐様はあんたのことは諦めたの。あんたみたいなつまらない女をいつまでも思ってくれるはずがないでしょう? 私が身籠ったら私が正室のようなもの。あなたは離れでも作って隠居してちょうだい。ここにいたいというのなら、離縁してまた使用人に戻るのはどう? あんたは働くのが好きですもの、私の付き人にしてあげようかしら」
だめだ、耐えられない。少し前まで何ともなかったはずなのに、今は心が苦しい。私は槐様のことがどうしようもなく好きなのだ。槐様に見限られて、ようやくわかった。痛いほどに。
「あはは、なによその顔。槐様が興覚めするのも当然よ」
椿が高らかに笑う声が部屋の中に響き渡ると同時に障子戸が開いた。
***
椿を問いただそうと柊の部屋に着くとふたりが話している声が聞こえた。
「今更槐様を想ったって無駄よ。槐様はあんたのことは諦めたの。あんたみたいなつまらない女をいつまでも思ってくれるはずがないでしょう? 私が身籠ったら私が正室のようなもの。あなたは離れでも作って隠居してちょうだい。ここにいたいというのなら、離縁してまた使用人に戻るのはどう? あんたは働くのが好きですもの、私の付き人にしてあげようかしら」
なんの話をしているのだ。この声は椿のもの、到底領主の妻に語り掛けるような口調ではない。
「あはは、なによその顔。槐様が興覚めするのも当然よ」
我慢ならなくて障子戸を開けると、柊を抱き寄せた。槐を見た椿の顔が固まる。
「柊、体調は良いのか?」
「はい、私はなんとも……」
不思議そうな顔をしている柊を見つめる。顔色も悪くない、体調が悪いと言うのが偽りだったことがよくわかる。冬の神が言っていた、柊に害をなしている者は椿であった。今まで気が付きもしなかった自分に腹が立つ。
「槐様……どうして。今夜も別室でお休みになられると……」
「ああ、おまえが柊の調子が悪いと言ったから仕方なくそうしていたが。今の話はなんだ」
槐は非難するような声で椿に問いかけると、椿はその場にひれ伏す。
「申し訳ございません。すべては久遠の国を思ってのことでございます。私を妻に迎えれば、春の神のご加護できっとお役に……」
「春の神と言ったな。椿、春の神がおまえに腹を立てている」
「春の神様が……ど、どうしてですか!」
椿は青い顔をする。何か思い当たる節があるのだろう。
「おまえ、春の神の加護を得たと嘘を吐いたな」
槐が問いただすと、椿は怒りを露わにする。
「だって、槐様が悪いのです! 私が妻になるはずだったのに柊なんかを待つって言うから! でもずっと我慢していたのです、あなたのことが好きだから……。もうすこしで妻になれるはずだったのに、今度は柊が帰ってきたりして、私の計画はめちゃくちゃよ!」
自分を正当化しようとする椿に強い怒りを感じた。必死に冷静さを取り繕って告げる。
「椿、おまえにはもうこの地に居場所はない」
「お待ちください槐様! 槐様!」
縋りつこうとする椿をその場に残し、柊を横抱きにして自室に向かう。
「会いに来られなくて悪かった。寂しい思いをさせたな」
柊は大丈夫だと笑うだろう。寂しいと思っていたのは自分だけかもしれない。だが、柊は潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
「はい、寂しかったです」
「本当に……?」
「はい、椿様と槐様が一緒にいられると思ったら苦しくて……会いに来てくださってありがとうございました。嬉しかったです、とても」
心が乱される。柊のことが愛しくてたまらなかった。手放せるはずがない。だが、どうやって春の神の許しを得たらよいのか見当もつかなかった。春の神と話をするしかない。
「今夜は一緒に眠ろう柊」
「はい」
ひとりで眠っていた寝所に柊を下ろす。月の美しい夜だ。柊の瞳を見れば、自分を受け入れてくれていることが伝わる。
「いいのか?」
「はい」
肌を重ねると、互いの鼓動聞こえてくる。十年以上思い続けた初恋が叶った。
***
「柊様、いらっしゃいますか?」
体に残るけだるさを感じながら、柊は目を覚ました。まだ暗い。声の主は楸だ。慌てて衣を羽織る。
「どうかしましたか?」
「槐様に内密にお伝えしたいことがあります」
槐が規則正しい寝息を立てていることを確認してから急いで身支度を整え、部屋を出る。楸は暗い顔をしていた。
「椿様が春の神の怒りを買われました。怒りを鎮めるために、冬の神が力を貸してくださるそうです」
楸は一呼吸おいてから再び口を開く。
「柊様、冬の神はあなたを所望されています。代わりにこの国を救ってくださると。槐様はあなたを手放すことなどできないでしょう、ですから私からお伝えいたします」
「わかりました」
柊に迷いはなかった。長く抱えた初恋は叶った。槐から、多くの愛情をもらった。もう十分だ。
「冬の神殿に参りましょう」
柊の言葉に楸は泣きそうな顔になる。
「おまえにはいつも我慢させてばかりだったね、柊」
「いいえ、私、いつも幸せでした」
柊は笑顔で屋敷を後にした。
神殿にたどり着くと神官たちが悲壮な顔をしていた。十年前のあの日とよく似ている。
「冬の神様、どうか春の神様の怒りをお鎮めください」
『よく来た、柊。おまえのことをずっと待っていた。その願い、叶えよう。久遠の国に未来永劫の実りを約束しよう』
辺りが冷え込み、ちらちらと雪が舞う。
さようなら、槐様。あなたのことを愛していました。
柊が瞳を閉じた時、世界がゆがんで景色が変わった。静謐に満ちた冬の世界だ。目の前に冬の神がいる。
「ただいま戻りました」
『また会えて嬉しい。現世はどうであった?』
「幸せな時間を過ごせました」
『そうか。少し待っておれ、春の神と話をつけてくる』
幽世は時間の流れがわからない、思い出すのは槐のことばかりだった。長くすれ違ったのは、自分の心が幽世の生活を経て鈍くなっていたからだろう。恋心を、思い出すことができてよかった。
「槐様……」
名前を呼ぶだけで胸が締め付けられる。
どのくらいの時間が経ったのかわからないが、冬の神が戻ってきた。
『随分と腹を立てていた』
「そうでしたか……」
『だが安心しろ、久遠に春はやってくる』
「本当ですか! ありがとございます冬の神様」
これで久遠の国は安泰だろう。槐様には椿様がいらっしゃる。今は拒絶されていてもいずれは仲睦まじくなるかもしれない。そうであるべきだと思う。想像するだけで心がちぎれそうになる。もう、柊にはどうすることもできないというのに。
私は久遠の国を選んだのだ。想いを伝えることはできた。結ばれることもできた。これ以上望むものは何のない。
『柊』
「はい、なんでしょうか」
『いや、なんでもない』
冬の神は珍しく困ったような顔をしていた。
さらさらさらさらと月日が流れていく。



