久遠の国の領主は再会した初恋の娘を溺愛する

 槐は柊の心を大切にしてくれる。だからこそ、ぴくりとも動かない心が申し訳なくて苦しい。一緒にいると楽しいと感じ、心やすらぐ。だが、それ以上の感情はなかった。
 夫婦となり、閨で組み敷かれた日のことを思い出す。肌を重ね合わせようとしているのに少しも心が動かない。心が伴わない私を槐様は抱けないと言った。
 幼い日は焦がれていた。十七になるころには膨れ上がった恋心を抑えるのに必死だった。でも、十年の時が経ち、私にとって槐様は頼りがいのある兄のような存在になったのかもしれない。私は槐様と家族でいられたらいい。それ以上の感情を返すことができない。椿様が仰るように、槐様に焦がれる椿様を側室にされたほうがこの国のためになる。きっと、槐様ご自身ののためにも。
 そう思いいたった柊は、槐が戻ってきた際に居住まいをただした。
「どうした改まって」
「槐様、どうか椿様を側室にお迎えください」
 槐の顔が驚きに満ち、そして曇る。
「なぜ」
「この国の将来のためには、側室が必要かと」
「……それがおまえの本心か?」
「え……」
「領主の俺がこのようなことを言うのは褒められたことではないが、この際、国などどうでもいい、おまえの心が知りたい」
 問われて迷う。私は、どうしたいのだろう。
「即答できないか……。俺はおまえのことが好きだ。おまえ以外の女と番う気はない。跡継ぎのことは気にするな、幸い甥がいる」
 槐の気持ちに応えたい。それなのに、なぜこんなにも心が動かないのか。苦しくて、思わず涙が零れ落ちる。
「俺のことが嫌いか?」
「いえ、とんでもないことです。私は、槐様のことが好きです」
「……それなら、傍にいてくれ」
「はい……」
 苦しい。受け取るのと同じくらい、いや、それ以上に思いを返したいのにそれができない。
「自分を責めるな、俺はおまえと共にいられるだけで幸せだ」
「はい……」
 そんなはずはないだろう。槐は柊の気持ちを慮ってくれている。瞳を閉じると、はらりと涙が零れ落ちた。こちらに背を向けた槐の背を見ながら、心が苦しくなる。
 そういえば、あの時は恥ずかしくてドキドキしたのに、どうして槐様と触れ合っても同じように恥ずかしくならないのだろう。
 秋の神殿で楸に支えられた時のことを思い出した。楸のことこそ兄のように思っていた。少しの恋愛感情もない。それなのに普通に触れられただけでドキドキした。男の人に触れられたからだ。ならば、槐と触れ合っても鼓動が早くならないのはおかしい。
 そう言えば、現世に帰る前に冬の神様と何か話をした気がする。私の願いをひとつ叶えてくれると。そのときに私は何を願ったのだろう。思い出せない。私なら、何を願うだろう。
 考えているとだんだんと瞼が重くなる。確か、槐様に関する何かだったはず……そう思いいたったところですとんと眠りに落ちた。

***


 祝言を挙げ、柊と念願の夫婦となったが実感がわかない。ふわふわと足元が浮いているよなそんな気持ちだった。柊が戻ったと分かったとき、叫んでしまいそうになるほど嬉しかった。実際に再会し、腕に抱いたときは心臓がうるさいくらいに鳴った。
 結婚を申し込んだときも、承諾してもらったときも、祝言を挙げたときも、そして今、こうして雪音を組み敷いている瞬間も、心臓がうるさいくらいに鳴っている。
 だが、柊はたぶんそうではない。槐に再会したときも、結婚を申し込まれたときも、祝言の時も。夜の帳がおり、褥を共にするときになっても、柊はおどろくほどに落ち着いていた。神の国で過ごしたことで、すっかり大人びてしまったのかもしれないとも思ったが、それとも違う。まるで、心がここにありはしないように感じる。
 槐は柊から離れ、隣の布団に背を向けて転がる。
「急に悪かった。おまえにも心の準備がいるよな」
「心の準備は必要ありません。私は槐様の妻になったのでしょう? ならば、すべて槐様に委ねます」
 淡々と紡がれる柊の言葉が悲しかった。もともと感情の起伏が大きなほうではなかっただろう。子供のころはよく笑顔を見せてくれたが、年頃の娘になるとはにかむ程度になった。それでも心の動きは見えた。幽世に行くまでは、柊の心は間違いなく自分に向いていたと思う。それが、今の柊からは何も感じられない。
 もう槐のことなどすきではないのかもしれない。それとも、幽世で何かあったのだろうか。神の国で暮らしたことで、感情の起伏が昔以上に緩やかになったのかもしれない。
 柊を手に入れたからこそ思う。肩書だけの妻ではなく、柊の心が欲しい。
「柊の心を待ちたいんだ。おまえの心の準備ができるまで、俺はおまえに触れない」
「……わかりました。善処します」
 善処などしなくていい、ただ、自分のことを好きになってもらいたい。あれから、一月が過ぎたが、柊の心には全く動きがないように見える。昔のように頬を赤らめたりもしない。
 だが、楸に支えられたときはほほを赤らめた。どういうことだ、楸のことが好きだったと言うのか。そんな風には少しも感じなかった。ふたりは兄妹のようだった。
『ずいぶんとぼんやりとしているな』
 神殿で仕事をしていると珍しく夏の神が語り掛けてきた。夏の神とは槐が父の跡を継いでから初めて対峙した。夏の神は少し年上の兄の容姿をしている。槐の年齢に合わせて容姿を変えているようだった。
「妻を娶りました」
『知っている。半年も前のことだ、俺にもあいさつに来ただろう。冬の神が気に入っている娘だったか、美しいがずいぶんと大人しい娘だ。おまえも物好きだな』
「物静かなところは柊の良いところです。柊は容姿ももちろん美しいのですが、心根の美しい娘なのです。俺は昔から柊のことが好きでした。柊も俺のことが好きなのだと思っていました。でもどうやら今は違うようで……彼女の心がわからなくて」
『一国の領主とあろうものが恋煩いか、それも自分の妻になった女に。簡単なことだろう、おまえのことを好きになるもう命じればいい。おまえにはそれだけの力がある』
「それは嫌なのです」
『ほう。ならば俺が一肌脱出でやろうか?』
「一体何をしてくださるというのですか。大丈夫です、柊のことは俺がどうにかしたいのです。あなたに頼ることではない」
『まあ待て、人間のおまえではどうにもならないことがある』
「と、言いますと?」
『おまえが望むなら冬の神と話をしてきてやろう。幽世で何があったのか聞くことができるかもしれない』
「本当ですか!」
 夏の神の申し出に槐は俯いていた顔を上げる。幽世で何があったのか分かれば、柊に起こった変化の理由がわかるかもしれない。
『言い出しておいてなんだが、あれは好き嫌いの激しいやつだ。質問の内容が気に入らなかったら一生教えてはもらえないだろうが』
「冬の神について教えてください、好みの物など……」
『ない。強いて言うならその柊という娘だろう。あれを差し出すと言ったら、冬の神は久遠の国を未来永劫豊かにしてくれるだろうさ。冬は四季の礎だからな』
「そんなことは絶対にしません」
 きっぱりと言い切ると夏の神は呆れたような表情になる。
『まったくひとりの女と国の未来を天秤にかけ前者をとるとはな、統治者として褒められたものではないな』
「褒められなくていい。俺は柊を犠牲にして得た富などいらない。自分の手で国を豊かにします」
『人間ごときができることなどたかが知れている、愚かなことだ』
「柊が傍にいてくれるのなら、俺は愚かでいたいのです」
 即座に答えると夏の神は楽しそうな表情になる。
『安心しろ、俺はそんなおまえのことが気に入っている。愚かだとは思うがおまえの決断を尊重しよう、何を聞きたい』
 夏の神はそう言うと手を差し出してきた。槐がその手をつかむと、意識がふわりと浮く。眩しい光がはじけ、思わず目を閉じる。瞼に感じる光が淡くなったのを感じてゆっくりと目を開けると、目の前に幼い少女の姿があった。
『夏の神、なんの用だ』
 子供が不機嫌そうに声をかけてくる。槐をぎろりと睨んでいた。夏の神の姿はない。否、自分の姿が夏の神になっていることに気が付く。なるほど、夏の神は槐の魂だけを連れてきたらしい。
『連れているのは柊の夫だな、何の用だ』
 目の前の子供が冬の神であると理解した。槐は口を開いた。
「久遠の国を治める槐と申します」
 だが、冬の神の耳には届いていないようだ。代わりに夏の神が槐の言葉を伝える。
『久遠の国を治める槐だと名乗っている』
 冬の神がゆっくりとした口調で口を開く。
『そんなことはとうに知っている。わざわざこんな場所まで来るとはな、柊のことか』
「柊の変化について、何かご存じではありませんか?」
 夏の神伝手に伝えられる槐の問いかけに、冬の神は何も答えず、じっと槐を見つめるばかりだった。硝子玉のような青い瞳が槐を捉えている。
 冬の神が口を開くのをひたすら待つ。しばらく槐を見つめていた冬の神はふっと視線を外した。
『心当たりがあるのはおまえの方ではないか?』
「どういうことでしょうか?」
『私は柊のことをとても気に入っている。手放したくないと望むほどに、だが、柊は人の世に未練を残しているようだった。だから手放してやることに決めた。それが、柊の望むことだと思ったからだ』
「未練……それはどのような?」
『知らん。だが、私は柊を人の世に帰す前にひとつだけ願いを叶えてやった』
 それは、どんな願いだというのか。ゆっくりとした冬の神の口調に苛立ちながらも、平静さを保つ。
「願いとはいったい?」
『聞きたいか』
「はい、それを聞きに来たのです」
『……柊の願いは、おまえへの思慕を消すことだ』
 冬の神の言葉に、目の前が真っ暗になる。柊の心が少しも自分に向いていない理由がわかった。
 柊はやはり俺のことを愛してくれていた。それなのに、なぜ。
「なぜ……」
『私の知るところではない。だが、ひとつだけおまえに有益な情報をやろう。おまえにとっては都合の良い内容だ。私には柊の想いを消す力はなかった、だから、想いを消す代わりに心を凍らせることにしたのだ。悲しみも、苦しみも、何も感じないようにしてやった。結果として、柊の望むことと同じになると思ったからな』
「なる、ほど……」
 柊の心に動きが見えなかった理由がわかったことは嬉しい。槐のことが嫌いになったからではない。柊の心は凍り付いているのだ、どんなに揺さぶろうとも動くことはない。
『その氷をおまえに解かすことができるか?』
「やります」
『私の創り出したものだ。人間の力で解かせるとは思えないが……万が一にでも柊がそれを望むことがあったら解けるだろう。すべては、柊次第。もしも柊は私のもとに戻りたいと願ったときは、私は遠慮なく連れていく』
槐は再びその場にひれ伏す。
「冬の神よ、貴重な情報をありがとう互いざ増した。俺は、いぇ、私は必ず柊の心を取り戻します」
『なんでもよい。だが、これ以上柊を悲しませるな』
「柊を……ですか?」
『気が付いていないのか……柊の周りに、柊を蔑むものがいるだろう。かの者が柊の心に害をなしている。それを取り除け』
「それはいったい……」
『自分の妻のことだろう、自分で気が付け。それすらできないのなら、柊の心は手に入らない。柊が幸せを感じていないとわかれば、いずれ私は柊を連れ戻す。代わりにこの地には未来永劫の実りを約束しよう。耐え忍ぶ冬は、豊かな季節を迎えるためには必要な期間だ』
 それだけ言い残すと、冬の神は槐と夏の神をもとの神殿に戻したらしい。目を開けると見慣れた神殿が写る、目の前に夏の神の姿がある。
「冬の神は柊の心を凍らせたそうです」
『らしいな』
「柊は、どうして俺への気持ちを失くしたいと願ったのでしょうか」
『さあ。あの娘、以前はおまえに惚れているように見えたが……なにか不都合があったのだろう』
「俺は柊の心を取り戻します」
『いいのか? この地の冬はそれなりに厳しいだろう? 柊を冬の神に差し出せば、冬の神は未来永劫この地を守ってくれる。領主として、賢い選択はどちらだろうな』
「……俺は、愚かな領主なのです。領土の民よりも、私欲を優先してしまう」
 答えると夏の神はふっと笑った。
『俺はそんなおまえのことを気に入っている。冬の神の加護などいらぬ、俺がそれ以上の加護をおまえに与えてやろう。焦がれた女の心を解かしてこい。対価として、うまい餅を持ってこい。一緒に食うぞ』
「……ありがとうございます」
 槐は夏の神に向かって深々と頭を下げた。