神戸モンキーの国、蒸気の記憶

 荷物をまとめ、使い古した名札を事務室の机に置き、私はエレベーターに乗った。
 フロアでは、あなたが客を案内する張りのある声が響いていた。

 「いらっしゃいませ!」

 その声を聞きながら、私は振り返ることができなかった。もし振り返って、あなたの顔を見てしまったら、私はこの場所から逃げ出すことができなくなるような気がしたからだ。

 三宮の駅へ向かう道すがら、私は何度も深く息を吸った。

 塩素の匂いがしない、排気ガスと人混みの混ざった「外の世界」の空気。それは驚くほど軽く、そしてひどく冷たかった。

 私は自由になった。けれど、その自由の代償として、私はあなたという、あの時代における唯一の誠実さを切り捨ててしまったのだという感覚が、重く心にのしかかっていた。

 その後、私は神戸を離れた。

 知人が経営する飲食店に身を寄せ、新しい人生を始めようとした。けれど、あの王国で過ごした日々の亡霊は、容易には私を放してくれなかった。

 夜、眠りにつこうとすると、決まってあの湿った蒸気の匂いが漂ってくる。そして、暗闇の向こう側で、あなたの「まだ処女なんです」という震える声が聞こえてくるのだ。

 結局、私が移り住んだ先の飲食店も、二年も経たずに倒産した。
 経営者は多額の借金を抱えて夜逃げし、私には未払いの給与だけが残された。

 「結局、俺はどこへ行ってもダメなのか」

 そう絶望したとき、私の脳裏に浮かんだのは、あの場所で、どんな不当な扱いを受けても明るく「いらっしゃいませ」と叫び続けていた、あなたの姿だった。

 あなたは、私が逃げ出した後も、あの場所で戦い続けていた。
 自分が信じるものを、たった一人で守り続けていた。

 それに比べて、私はどうだ。少しの不条理に打ちのめされ、安易に逃げ出し、新しい場所でも失敗を繰り返している。