神戸モンキーの国、蒸気の記憶

 「私、もうちょっといい環境で働きたいんですよ」
 ある時、あなたはぽつりとそう漏らした。

 それは、三宮の駅前の、騒々しい喧騒の中でのことだった。

 「せめて、普通の喫茶店のような場所で……。ここは、みんな簡単に誰かと寝ちゃったりするじゃないですか。私、そういうのが、どうしても怖くて」

 二十年前の私は、その言葉にどう返していいか分からず、ただ視線を足元に落とした。

 あなたは、自分の「純潔」を守ろうとしていた。それは単なる肉体的な意味ではなく、この泥沼のような人間関係の中で、自分だけは美しくありたいという、切実な祈りのようでもあった。

 「あなたが、いつかこの場所を無事に卒業するまで。幸せな結婚でもして、この不潔な王国を振り返ることもなくなるその日まで、自分もここにいよう」

 私は、誰に告げることもなく、そう誓った。

 それはあなたへの愛情というより、あなたという「まともな基準点」を失ってしまえば、私自身もまた、あの蒸気の中に溶けて消えてしまうのではないかという、生存本能に近い恐怖だった。

 二十年後の今、私は考える。

 あの時、あなたが私の隣にいたのは、単なる偶然だったのか。

 それとも、あなたは私の中に、自分と同じ「迷子」の匂いを感じ取っていたのだろうか。
 記憶の中のあなたは、いつも少しだけ、寂しそうな色を瞳の奥に宿していた。

 私たちが初めて、会社の外の世界で、二人だけの長い夜を過ごすことになる、あの日の夕暮れまでは。