――放課後が、来てしまった。
あれだけ見ていたりんちゃんの横顔を、今日は一度も見ることができなかった。
でも、視界の端に映る肩を見て、りんちゃんは夏服も似合うんだなと改めて感心した。
白い学ランから、白い襟付きの半袖シャツに赤いネクタイを着ける形になるんだ。ズボンは相変わらず白い。
俺は似合わないから、色付きのTシャツの上に半袖シャツを羽織る形で着て、先生たちによく注意されている。
ホームルームが終わり、ざわざわとした教室から、ひとり、ふたり、と、クラスメイトたちが廊下に出て行く。
隣のりんちゃんは、動く気配がない。
今日は部活がなくて、バイトの時間までは余裕がある。
だから、りんちゃんが言うように、残っていても問題はない。
ないんだけどお……。
どうしても気まずくて、俺はそっと席を立った。
じりじりとさりげなく教室から出て行こうかなって作戦だ。
窓からは夕焼けが差し込んでいる。
俺が立ち上がったことに気付いたりんちゃんは顔を上げたけれど、声を掛けることはしなかった。
う。
引き留められるよりも、帰りにくくなる。
「じゃーな、赤星」「またなー」
そう言いながら廊下に出ていくクラスメイトたちに「おー、また明日」と手を振って見送ったら、ついに、教室に残ったのは、りんちゃんと俺の、ふたりだけ。
りんちゃんが、椅子から立ち上がった。
「赤星大河」
わっ、フルネーム。
「――話がある」
「は、い」
窓から差し込む夕焼けを背にして、真っ直ぐとこっちを見てくるりんちゃんは、やっぱりきれいで、かっこよかった。
――き、気まずい。
話があると言いながらも、りんちゃんは、何も話さない。
チクタクチクタク、いつもは気にならない時計の針の音が、やけに大きく響いている。
俺は背中に背負ったリュックの持ち手部分をぎゅっと握って、口を開いた。
「あの、さ」
りんちゃんが、俺を見た。
「なんで、くれようとしたの。その、イヤホン」
あんな高価なもの、もらうわけにはいかなかったけれど、その意図を聞くこともしないで受け取らなかったのは、やりすぎだったのかな。
ちらりとりんちゃんを見ながら小さく尋ねると、りんちゃんは一度唇を結んだ。
「――真似したいって言ってただろ」
「前は、どこのかも教えてくれなかったじゃん」
り、りんちゃんが、俺が欲しがっていたのを覚えててくれていた。
それ自体はすごくうれしいんだけど、でも、どうしても違和感が拭えない。
「最近のりんちゃん、へんだよ」
だから、つい、言ってしまった。
りんちゃんは小さく息を呑んで、自分のきれいな黒髪を、ぐしゃりと手で掴んだ。
「――どうしたらいいか、わかんねえんだよ」
それはきっと、りんちゃんの本音だ。
りんちゃんも、困ってた?
俺がりんちゃんの顔をじっと見つめると、りんちゃんは頭から手を離して、身体の力を抜いた。
「小さい頃の話だ」
「うん?」
「俺は社長の息子で、周りがすごく気を遣ってくる。女に間違えられることも多かった。懇親会なんて特にそうだ、名前も知らねえ大人がヘラヘラ親父に媚び売るために近付いてくる。両親には愛想よくしてろって言われるし、窮屈で仕方なかった」
「うん……」
りんちゃんがこんなにいっぱい話してるの、初めて聞いた。
りんちゃんの声は、聞き取りやすい。
俺の耳にすっと入ってくる。
「そんなとき、だ。声がでかいうるせえヤツが、一緒に遊ぼうって言ってきた。そいつは変に気も遣わねえし、思うことそのまんま話して、バカみたいに笑ってて――太陽みたいだった」
「そうなんだ」
りんちゃん、その子のこと、好きだったのかな。
りんちゃんの語り口がすごく優しくて、聞いたこともない声色で語られる『そいつ』に、ちょっとだけ妬ける。
俺が相槌をうつと、りんちゃんは変な顔をした。怪訝そうに眉を寄せている。
「――おまえだよ」
「え!?」
「おまえの話、してんだけど」
え。
ええ!?
えええええ!!!???
「えええええええ!!!??」
声が出ちゃった!
驚きすぎて、理解が追いつかないでいると、りんちゃんがふっと笑った。
それも、優しい笑顔だ。
夢で見たようなきれいな笑みを見て、俺の心臓がどきりと音を立てた。
「り、りんちゃんと、俺、会ってたの!?」
「覚えてねえのかよ」
「いやっ、俺っ、父さんの会社の懇親会で、すげえかわいい子に会って、俺はその子が初恋の女の子だと思ってて」
もしかして、あの子が、りんちゃんだった!!?
キッズルームで、声を掛けた瞬間に、笑ってくれた子を思い出す。
癖のない黒髪で、切れ長の瞳が特徴的な子。
その子のおかげで、俺の女の子の好みは、クールビューティー系に偏ってしまった。
そして、弓道部で、りんちゃんの弓を射る横顔を見た途端に、恋に落ちてしまったんだ。
「りっ、り、りんちゃんだったの……」
衝撃のあまり、力が抜けてその場に座り込んでしまった。
りんちゃんが近付いて来て、俺を見下ろす。
「やっぱり女だと思ってたのかよ」
「えっ、いや、だって、」
「――だから、」
そこは否定できなくて言い訳をしようとすると、りんちゃんも同じようにしゃがみ込んで、俺と視線を合わせてくる。
「だから、言ったんだよ。男同士は無理だろって」
「え」
「俺は、――おまえを、入学式で見つけたときから。もう会えねえと思ってたから、舞い上がった。でもおまえの隣にはいつもロン毛がいるし、そもそも女が好きなヤツだと思ってた」
「え」
「諦めようとしてたのは、俺だ」
ロン毛って、修二のこと!?
ぽつぽつと話してくれるりんちゃんの言葉を聞いて、俺は、じわじわと胸が詰まってくるのを感じている。
でも、まだ、だめだ。
また俺が、変に勘違いして、りんちゃんを困らせてしまうかもしれないから、ちゃんと最後まで聞かないと。
「し、信用できないって」
「――そこまで言わねえとダメなのかよ」
俺が一番引っかかっているところを出してみると、りんちゃんは言葉を詰まらせた。
うっ、やっぱりそこは、まだダメなところなのかな。
俺のことは信用できない……。
自然と眉が下がってしまう。
りんちゃんはそれを見て、何を思ったのか、また自分の頭をがしがしとかいてから、勢いよく立ち上がった。
「おまえが! 俺に告白したくせに!! 色んな男に囲まれてるからだろ!!!」
「ええ!?」
「うるせえなくそ、嫉妬したんだよ! 悪いか!!」
「えええ!?!?」
「あーもう、くそだせえ」
りんちゃんの顔が、少し赤い。
その顔を隠すように、横を向かれてしまった。
俺はまだ、状況が理解できない。
りんちゃんが、嫉妬??
なんで???
「ま、まだわかんねえのか……」
ぽかんとして見上げると、りんちゃんが呟く。
そして観念したように、大きな息を吐いて、片膝をついて俺のことを覗き込んできた。
「おまえが好きだっつってんの」
「ふえ」
俺史上最大級の、間の抜けた声が出てしまった。
青天の霹靂って、きっと、こういうことだ。
「――なんか言えよ」
りんちゃんに促されて、はっとした。
俺はりんちゃんが好きで、大好きで、二回も一目惚れするぐらいにそれはもう大好きで。
そんなりんちゃんが、俺を、好き?
頭の中で反芻すると、じわじわと熱が上がってくる。
耳先まで赤くなってきた自覚があるし、心臓もドンドンとうるさい。
りんちゃんの顔を見ることができなくて、俺は、自分の膝の上に顔を隠した。
「り、りんちゃんさあ」
「んだよ」
「わかりにくすぎるよ」
「――……悪かった」
「ふは」
だって、振られて、無視されて、怒られて、そんな人がまさか、俺のことを好きなんて、気付けるわけがない。
俺が言うと、あのりんちゃんが、素直に謝った!
だから思わず、笑ってしまう。
「――好きです。俺と、付き合ってください」
教室の時計の針が、五時一分を指すには少し早いけれど。
あのときと同じ夕暮れの光を浴びながら、俺は顔を上げて、りんちゃんの目を見てそう言った。
りんちゃんは小さく息を呑んで、それから。
「いいけど」
――やっぱりりんちゃんは、素直じゃない!!
その言い方にも少し笑っていると、りんちゃんの手が伸びてきて、俺の頬に触れた。
この触り方、俺は、知ってる。
「も、もしかして、保健室のことって……現実……?」
「は?」
「ゆ、夢じゃなかった?」
「おま、おまえ、夢だと思ってたのかよ!」
りんちゃんが呆れていると同時に、俺はまた、思い出してしまった。
りんちゃんの腕に、抱き締められたこと。
りんちゃんは目を細めて、頬に触れていた手で俺の顎に触れてきた。
「俺だけ見てろ。――他の男なんか蹴散らしてやる」
低い声でそう言うのは、すごく、ずるい。
俺は何にも言えなくて、りんちゃんの瞳に見惚れることしかできなかった。
部活に行くというりんちゃんに「また明日ね」と手を振って別れて、バイトに向かった。
なんだかすごく、ふわふわする。
これこそ本当に、夢みたいだ。
小さい頃に出会っていたなんて。
そしてりんちゃんが、ずっと、俺を……。
信じられなくて、でもうれしくて、バイト中もずっと集中できていなかった。
「先輩、何かあったんです?」
シフトが終わる時間が同じ金子が、着替えながら聞いてきた。
「えっ!?」
「すごいふわふわしてるっていうか、花飛んでるっていうか」
「そ、そう!?」
「そうです」
「うえー、えへへ」
わ、口許が勝手に緩んじゃった。
金子はそんな俺の笑顔を見て、思い切り半眼になって、「あーあ」と零した。
「そういえば俺、まだココア奢ってもらってませんよ」
「あ、そうだった」
「ココアだけじゃ割に合わないんで、今度学食も奢ってください」
「なんで!?」
「いいでしょ、幸せのお裾分けってことで」
「し、しあわせって」
「祝いませんけどね。絶対。いつでも俺のとこ来てもらっていいんで」
「か、金子ってさ」
顔を背けながら早口で言う金子を見て、俺は思わず尋ねる。
「どこまで知ってんの……?」
金子は一度瞬いて、ふっと笑った。
「さあ。ご想像にお任せします。お先でーす」
金子はひらひらと手を振って、先に控え室を出て行ってしまった。
よくわからないけど、ココアだけじゃなくて、オプションもいっぱいつけてやろう。
◇◇◇
一方その頃、弓道部の部室にて。
「にゃはっ、燐さん、その顔、成功した感じ?」
「よかったですね、おめでとうございます」
千里と千鳥が、白州の顔を覗き込んだ。
白州は思わず、ネクタイをきつく締めすぎてしまって、小さく咽る。
「でもでも、付き合ってからがスタートだかんね!」
「そうですね、まずは連絡先の交換からかと」
「れ、連絡先……」
「ちゃんと燐さんから聞くんだよ~?」
二人のアドバイスを聞いて、白州の表情が固まった。
まだまだ、先が思いやられる。
◇◇◇
「あ」「よ、おつかれ」
バイトが終わって家に帰る途中、駅で修二を見かけた。修二も俺に気付いて、軽く手を挙げてくれたから、走り寄る。
「バイト終わり?」
「うん。修二は練習?」
「そ。またライブあってさ」
世間話をしながら、分かれ道までを一緒に歩く。
賑わう夜の駅を一歩出ると、暗い夜道に出た。
「大河さ」
不意に、修二が俺を覗き込んでくる。
「ん?」
「なんか、いいことあった?」
「え!?」
「はは、顔に出てる」
「ええ!?」
思わず自分の頬をぺたぺたと触ってしまう。
修二は笑って、俺の背中をぽんと軽く叩いた。
「よかったな」
「あ、りがと!」
礼を言ったところでちょうど分かれ道になり、「また明日な」と手を振って修二と別れた。
――俺ってそんなに、顔に出やすい!?
もう少し引き締めないと、と心に誓う俺だった。
部活の朝練でも、俺は集中力に欠けていた。
夜寝て朝起きて、やっぱり昨日のアレは夢だったんじゃねーかなと思ったりしながら制服に着替えて朝飯を食べて登校して部活に参加してって、いつも通りのことをしているんだけれども、要所要所で昨日のりんちゃんの顔が浮かんできてしまって、ポカミスを繰り返した。
「大丈夫かよ大河」「今度は何!?」「しっかりしろー」
同級生からの心配とも野次ともつかない言葉が飛んできて、「ごめんー」と謝りながらボールを拾って戻る。
「大丈夫か」
最後までそんな感じで、部活が終わってから、部室に行くまでの道中で黒岩先輩が声を掛けてきた。
「う、さーせん」
「いや、責めてるわけじゃないんだが」
「あざっす!」
「元気が出てきたな」
お礼を言うと、黒岩先輩が笑って俺の背中をばしっと強めに叩いた。
「いで、」
「その調子でいてくれ」
「うっす」
黒岩先輩の言葉にこくこくと何度も頷いて、歩き出す先輩の背中を見る。
せ、先輩も、なんか気付いた!?
俺はもう一度改めて、自分の頬にぺたぺた触れてみるのだった。
部活が終わって、教室へと向かう。
教室には、りんちゃんがいる。
でも、昨日までの俺とは違う。
俺はもうりんちゃんから逃げないし、りんちゃんも、――。
「邪魔」
うっ、どうしよう、また目が合って笑いかけられちゃったら……。
「邪魔だっつの」
「うわっ」
「どーしたの伝説ちゃん、なんか浮ついてね?」
下駄箱から少し進んだ先で立ち止まって色んな妄想をしていたら、後ろから声が掛かって、首根っこを捕まえられた。
ニヤつきながらそう聞いてくるのは、藍川さんだ。
「げっ」
「ひっでえな、嫌そうな顔すんなよ」
「するでしょ、離してー」
俺が言うと藍川さんはぱっと手を離すから、バランスを崩しかけた。ひどい。
そして俺の顔を、じろじろと見てくる。
「な、なんすか」
「ふーん。ちょっとは吹っ切れたのかよ」
「ど、どういうこと」
「さあな。本命に飽きて遊んで欲しかったらいつでも言えよ」
俺の頬をぐにっと摘んで引っ張ってから、藍川さんは手をひらりと挙げて去って行った。
朝っぱらから、よくわからない人だ。
藍川さんに引っ張られた頬を触って戻そうとしながら教室まで向かう途中で、りんちゃんを見つけた。
「りんちゃん!!」
思わず走り寄って声を掛ける。
でも、りんちゃんはイヤホンを着けていた。
ああ、これは、気付かれないパターンだ。
「はよ」
そう思ったのに、りんちゃんは俺を見て、挨拶をしてくれた!
「えっ! おはよ!」
でもなんで、って戸惑っていると、りんちゃんは片目を細めて、自分が着けているイヤホンの片方を俺に渡す。
聞いてみろってこと?
そのイヤホンを片耳に着けてみると、なんの音楽も、聞こえて来なかった。
「えっ」
「そういうこと」
りんちゃんが手を出して促してくるから、俺はすぐにイヤホンをりんちゃんに返すけれど。
今まで、イヤホンを着けていたときも、りんちゃんには、俺の声が届いていた。
りんちゃん、ずっと、俺の声、聞いててくれたんだ。
じわじわと胸があったかくなって、思わず、りんちゃんの背中に抱きついた。
「りんちゃん、大好き!!」
そして、思いの丈を、思いっきり叫んでしまった。
朝の廊下は人通りが多くて、周りの人もぎょっとして視線を向けてきたけれど、ガマンできなかったからしょうがない!!
りんちゃんは小さく息を吐いて、何も言わずに、俺の頭を撫でてくれた。
これって、結構、すごいことだ。
俺が大々的にりんちゃん大好きを公言して、それをりんちゃんが拒まなかったことが、瞬く間に全校ニュースとなって駆け巡った。あの伝説の噂がすぐに広まるぐらいだ、そういう話が好きな人が多いんだろう。
名前も知らない人からの「おめでとう、よかったな」を数え切れないぐらいに浴びながら、はたと俺はとんでもないことに気付く。
廊下を歩いていた修二を見つけて、慌てて空き教室に引っ張り込んだ。
「わ、なんだよ」
「あ、あのさ、修二」
「なに、つーかすげえ騒ぎになってるけど」
「うん、あの、それでさ」
修二がちらっと廊下を振り返って言う。
そして俺は、修二の耳元に口を寄せて、真剣に聞いた。
「つ、付き合ったあとって、どうしたらいいの……?」
修二は瞬いて、そして、聞いたこともないような特大ため息を吐き出している。
――俺とりんちゃんの物語は、まだ、始まったばかりだ。



