その日、僕はサークルの飲み会で慣れない酒をしこたま飲まされていた。
一年生だけど、一浪して入学しているから同級生からは浮いていた。おまけにもう二十歳になっていると知られてしまい、先輩たちにおもしろがって飲まされたのだ。
とにかく、いつも以上に頭がぼーっとして、みんなから離れてふらふらと歩く僕の隣に瀬名先輩がいることも、大して疑問に感じていなかった。
「白尾くん、そっちは道路だから。危ないよ」
「はぁい……」
足元がおぼつかなくて、何度も電柱や看板にぶつかりそうになる。そのたび、隣を歩く先輩の手が僕の背中や肩にそっと添えられた。
「あ~、そっちじゃなくてこっちね」
「んー……」
痺れを切らしたのか腕を掴まれて、引き寄せられる。ふらつくままに先輩の方へと引っつく。ぐらぐらする視界のなか、間近で見上げた先輩の顔は妙に真剣だった。
高いところにある街灯の光が、茶髪を少し伸ばして毛先を遊ばせた瀬名先輩の輪郭をふちどっている。先輩は、人好きのする端整な顔立ちをしている。じっと見つめ、思ったままの声が漏れた。
「きれーな顔……」
「は? そっちだろ」
先輩の頬にさっと朱がさしたように見えたけど、視界が揺れているせいで確信が持てない。ゆら、ゆら。路地が暗い海になって、二人きりで小舟に乗っている気がした。
僕は綺麗な顔だなぁ、と相変わらず考えながら、じっと見つめつづけた。
「なんなの? わざとなの?」
「……ふぇ? なにがですか?」
「白尾くん、彼女いないんだよね」
「ふぁい」
「彼氏もいない?」
「ぁい。僕に恋人なんてできるはずないじゃないですかー。こんなに浮いてるのにっ」
「じゃあ、俺と付き合ってくれる?」
「はぁーい。いいですよー……」
「っ……寝るな!」
なんとか受け答えをして、気づけば目を閉じていた。唇に息がかかるほどの距離で、先輩が何かを怒っている。でもとにかく眠くて、他のことに構う余裕がない。
そのまま先輩に引っ張られて歩いて、何度も住所を聞き出され、気づけば自分のベッドで寝ていた。
翌日、激しい頭痛と共に目覚めた僕は、昨晩のことを忘れかけていた。
——瀬名天瑞先輩からの、LIMEの通知を見るまでは。
『祥。昨日付き合うって言ったこと、忘れたなんて言わせないからな?』
僕、白尾祥は「ぼーっとしてる」とよく言われる。誰かにそう言われたら大抵迷惑をかけたときなので、とにかく謝るようにしている。
大学受験で解答欄を一個ずつずらして記入してしまい、浪人する羽目になったときは土下座する勢いで親に謝った。より偏差値の高いこの大学に翌年合格できたのは、結果的に良かったとは思うけど。
ときおり大きなやらかしをするのだが、今回はその中でも特殊な例だ。——いつの間にか、瀬名先輩と付き合うことになってるって……本当になんで?
先輩は発言を撤回する気はないらしく、僕も嫌ってほどではないからそのまま付き合いつづけている。
先輩が言ってしまったようで、僕たちの関係はサークル内で知れ渡り、冗談半分で受け入れられていた。瀬名先輩はノリが軽くてビジュも良くて、学年を問わず男女も問わず人気がある。
事実は知らないが、チャラそうに見えるからこそ「いま白尾と付き合ってんの? ウケる」と思われて終わりだった。僕にはそのノリがよく分からない。
高校のときからテニス部だったので、大学でテニスサークルに入ったのは自然な流れだった。しかし入ってみれば「飲みサー」だとか「ヤリサー」だとか言われて、付いていけない部分が大いにある。
あれ以来お酒は飲みたくない。だけど、テニスは好きだから続けたい。瀬名先輩と付き合ってから、お酒の席で守ってくれるようになったのは思わぬ収穫だった。
本当に意外なことに、先輩との交際は穏やかで、不満が一つもない。僕が先輩に何も求めないからかもしれないけど、先輩はぼんやりしがちな僕の世話を進んで焼こうとするのだ。
そんなこんなで一ヶ月半が経ち——僕は、女の先輩に呼び出しを受けていた。
「白尾、天瑞と別れてくんない?」
「……へ?」
「天瑞はおもしろがって付き合ってくれてるんだろうけどさ、もう満足したでしょ? 男が好きなら、そのお綺麗な顔でゲイバーでも行ってきたらいいじゃん」
「ええ……?」
姫花先輩は瀬名先輩と同じ二年生で、いつも厚塗りの化粧をしている。サークルのときも運動するとは思えない格好で来て、とにかく誰かと喋りつづけている印象だ。
どうして彼女に別れろと言われているのか、理解できなかった。だって、僕と瀬名先輩のことだ。
瀬名先輩がおもしろがって付き合っていると言ったのだろうか? あと、ゲイバーとか言われてもよく分からない。なんのため?
「ああもう、いっつもぼーっとしてて、苛々する! 私の邪魔しないでって言ってんの!」
「ええっと、すみません。先輩は、瀬名先輩のことが好きなんですか?」
やはりぼーっとしているのが駄目らしい。なんとなく姫花先輩の言いたいことを察して問いかけると、先輩の顔はさらに真っ赤になった。
「そう! 悪い? あんたは天瑞を誰にも渡したくないほど好き? 苦しくて泣きたくなるほど好き? そうじゃないなら、別れてよ。私の方が天瑞を幸せにできるんだから」
「……はぁ」
姫花先輩がすごく瀬名先輩のことを好きだということだけは伝わってきた。抜けた相槌を打つ。
僕はといえば、先輩のことは普通に好きだ。年齢が同じだから話も合うし、先輩として色んなことを教えてくれるし、話すのが上手いから一緒にいて楽しい。
でも、ここで姫花先輩に反論するほどの想いを持ち合わせていないのも事実だった。
(まあ、別れてもいいかな……)
実は瀬名先輩と一緒にいないとき、僕は陰口をよく言われる。「男好きそうな顔」とか「大人しそうに見えてビッチ」とか、普通に聞こえてくる。
あまり気にしないようにしていたけど、こうして呼び出されたこともあって、面倒くさいな……という気持ちが上回ってきた。
「分かってんの!?」
「分かりました。じゃあ、僕はこれで……」
「え」
了承を返してさっそく姫花先輩に背を向けると、呆気に取られた声が聞こえた。しばらくして「見張ってるからね!」と再び言われ、振り向いてぺこりと会釈した。
見張られるのは嫌だけど、これ以上会話を続けたくなかったのだ。
家に帰った僕は、うーんと悩んでいた。交際を解消するにはそれらしい理由が必要だ。でも、先輩を振る理由が思いつかない。
先輩は優しくて、おもしろくて、テニスも上手い。まだ一緒に過ごした時間も長くないから、悪いところが思い当たらなくて困る。
嘘をつくのは苦手だ。それに、下手な言い訳じゃ先輩に納得してもらえない気がする。姫花先輩の名前を出すのは駄目だってことは、さすがに分かるし。
(先輩に振ってもらう方が、遥かに楽じゃ……? そうだ。僕が嫌われることをして、振られよう)
相談できる友だちさえいない僕はそれを最適解だと信じ、密かに決意をしたのだった。
一年生だけど、一浪して入学しているから同級生からは浮いていた。おまけにもう二十歳になっていると知られてしまい、先輩たちにおもしろがって飲まされたのだ。
とにかく、いつも以上に頭がぼーっとして、みんなから離れてふらふらと歩く僕の隣に瀬名先輩がいることも、大して疑問に感じていなかった。
「白尾くん、そっちは道路だから。危ないよ」
「はぁい……」
足元がおぼつかなくて、何度も電柱や看板にぶつかりそうになる。そのたび、隣を歩く先輩の手が僕の背中や肩にそっと添えられた。
「あ~、そっちじゃなくてこっちね」
「んー……」
痺れを切らしたのか腕を掴まれて、引き寄せられる。ふらつくままに先輩の方へと引っつく。ぐらぐらする視界のなか、間近で見上げた先輩の顔は妙に真剣だった。
高いところにある街灯の光が、茶髪を少し伸ばして毛先を遊ばせた瀬名先輩の輪郭をふちどっている。先輩は、人好きのする端整な顔立ちをしている。じっと見つめ、思ったままの声が漏れた。
「きれーな顔……」
「は? そっちだろ」
先輩の頬にさっと朱がさしたように見えたけど、視界が揺れているせいで確信が持てない。ゆら、ゆら。路地が暗い海になって、二人きりで小舟に乗っている気がした。
僕は綺麗な顔だなぁ、と相変わらず考えながら、じっと見つめつづけた。
「なんなの? わざとなの?」
「……ふぇ? なにがですか?」
「白尾くん、彼女いないんだよね」
「ふぁい」
「彼氏もいない?」
「ぁい。僕に恋人なんてできるはずないじゃないですかー。こんなに浮いてるのにっ」
「じゃあ、俺と付き合ってくれる?」
「はぁーい。いいですよー……」
「っ……寝るな!」
なんとか受け答えをして、気づけば目を閉じていた。唇に息がかかるほどの距離で、先輩が何かを怒っている。でもとにかく眠くて、他のことに構う余裕がない。
そのまま先輩に引っ張られて歩いて、何度も住所を聞き出され、気づけば自分のベッドで寝ていた。
翌日、激しい頭痛と共に目覚めた僕は、昨晩のことを忘れかけていた。
——瀬名天瑞先輩からの、LIMEの通知を見るまでは。
『祥。昨日付き合うって言ったこと、忘れたなんて言わせないからな?』
僕、白尾祥は「ぼーっとしてる」とよく言われる。誰かにそう言われたら大抵迷惑をかけたときなので、とにかく謝るようにしている。
大学受験で解答欄を一個ずつずらして記入してしまい、浪人する羽目になったときは土下座する勢いで親に謝った。より偏差値の高いこの大学に翌年合格できたのは、結果的に良かったとは思うけど。
ときおり大きなやらかしをするのだが、今回はその中でも特殊な例だ。——いつの間にか、瀬名先輩と付き合うことになってるって……本当になんで?
先輩は発言を撤回する気はないらしく、僕も嫌ってほどではないからそのまま付き合いつづけている。
先輩が言ってしまったようで、僕たちの関係はサークル内で知れ渡り、冗談半分で受け入れられていた。瀬名先輩はノリが軽くてビジュも良くて、学年を問わず男女も問わず人気がある。
事実は知らないが、チャラそうに見えるからこそ「いま白尾と付き合ってんの? ウケる」と思われて終わりだった。僕にはそのノリがよく分からない。
高校のときからテニス部だったので、大学でテニスサークルに入ったのは自然な流れだった。しかし入ってみれば「飲みサー」だとか「ヤリサー」だとか言われて、付いていけない部分が大いにある。
あれ以来お酒は飲みたくない。だけど、テニスは好きだから続けたい。瀬名先輩と付き合ってから、お酒の席で守ってくれるようになったのは思わぬ収穫だった。
本当に意外なことに、先輩との交際は穏やかで、不満が一つもない。僕が先輩に何も求めないからかもしれないけど、先輩はぼんやりしがちな僕の世話を進んで焼こうとするのだ。
そんなこんなで一ヶ月半が経ち——僕は、女の先輩に呼び出しを受けていた。
「白尾、天瑞と別れてくんない?」
「……へ?」
「天瑞はおもしろがって付き合ってくれてるんだろうけどさ、もう満足したでしょ? 男が好きなら、そのお綺麗な顔でゲイバーでも行ってきたらいいじゃん」
「ええ……?」
姫花先輩は瀬名先輩と同じ二年生で、いつも厚塗りの化粧をしている。サークルのときも運動するとは思えない格好で来て、とにかく誰かと喋りつづけている印象だ。
どうして彼女に別れろと言われているのか、理解できなかった。だって、僕と瀬名先輩のことだ。
瀬名先輩がおもしろがって付き合っていると言ったのだろうか? あと、ゲイバーとか言われてもよく分からない。なんのため?
「ああもう、いっつもぼーっとしてて、苛々する! 私の邪魔しないでって言ってんの!」
「ええっと、すみません。先輩は、瀬名先輩のことが好きなんですか?」
やはりぼーっとしているのが駄目らしい。なんとなく姫花先輩の言いたいことを察して問いかけると、先輩の顔はさらに真っ赤になった。
「そう! 悪い? あんたは天瑞を誰にも渡したくないほど好き? 苦しくて泣きたくなるほど好き? そうじゃないなら、別れてよ。私の方が天瑞を幸せにできるんだから」
「……はぁ」
姫花先輩がすごく瀬名先輩のことを好きだということだけは伝わってきた。抜けた相槌を打つ。
僕はといえば、先輩のことは普通に好きだ。年齢が同じだから話も合うし、先輩として色んなことを教えてくれるし、話すのが上手いから一緒にいて楽しい。
でも、ここで姫花先輩に反論するほどの想いを持ち合わせていないのも事実だった。
(まあ、別れてもいいかな……)
実は瀬名先輩と一緒にいないとき、僕は陰口をよく言われる。「男好きそうな顔」とか「大人しそうに見えてビッチ」とか、普通に聞こえてくる。
あまり気にしないようにしていたけど、こうして呼び出されたこともあって、面倒くさいな……という気持ちが上回ってきた。
「分かってんの!?」
「分かりました。じゃあ、僕はこれで……」
「え」
了承を返してさっそく姫花先輩に背を向けると、呆気に取られた声が聞こえた。しばらくして「見張ってるからね!」と再び言われ、振り向いてぺこりと会釈した。
見張られるのは嫌だけど、これ以上会話を続けたくなかったのだ。
家に帰った僕は、うーんと悩んでいた。交際を解消するにはそれらしい理由が必要だ。でも、先輩を振る理由が思いつかない。
先輩は優しくて、おもしろくて、テニスも上手い。まだ一緒に過ごした時間も長くないから、悪いところが思い当たらなくて困る。
嘘をつくのは苦手だ。それに、下手な言い訳じゃ先輩に納得してもらえない気がする。姫花先輩の名前を出すのは駄目だってことは、さすがに分かるし。
(先輩に振ってもらう方が、遥かに楽じゃ……? そうだ。僕が嫌われることをして、振られよう)
相談できる友だちさえいない僕はそれを最適解だと信じ、密かに決意をしたのだった。



