椅子に座りますか

 *  *  *

 数十分後。

 私は、焦げ臭い異臭が漂うグランドホテル東京の大宴会場に立っていた。

 そこに広がっていたのは、『無差別テロ』という言葉から想像する光景とは似ても似つかない、あまりにも異様な現場だった。

 天井から吊り下がる琥珀色のシャンデリアも、豪華な祭壇も、招待客のために並べられた円卓も、そのほとんどが原形を留めている。

 破壊されているのは、たった一箇所だけだった。

 会場の最前列、もっとも格式の高い客のために用意されていた『特等席――主賓席』。その椅子だけが跡形もなく吹き飛び、床にはすり鉢状の黒焦げのクレーターが穿たれていた。

 そして何より異常だったのは、被害者の遺体がほとんど何も残っていないことだった。

 千切れた手足も、大きな血溜まりもない。特等席に座っていた天楽建設の社長は、局所的な超高温を生み出す指向性の爆発によって、その肉体そのものを焼き尽くされていた。

 爆心地に残されているのは、黒く焼け焦げた床と、原形を失った椅子の残骸だけだった。

 肉片も、骨片も見当たらない。

 まるで犯人は、社長の命を奪うだけでは飽き足らず、その人間がこの場所に存在していた痕跡そのものを、この世界から焼き消そうとしたかのようだった。

 これは無差別テロではない。会場にいた大勢の人間を巻き込むことが目的なら、こんな爆発のさせ方をする必要などない。

 犯人は、ただ一人の人間を正確に狙い、その存在だけを消し去った。
 これは――『処刑』だ。

 クレーターの縁へ慎重に足を踏み入れた私は、そこでふと視線を落とし、息を呑んだ。

 爆発による火球から僅か数センチだけ外れた、主賓用サイドテーブルの端に、後から意図的に配置したとしか思えないほど整然と『それ』が置かれていた。

 ――本物の、バスの降車ボタンだった。

 黄色い枠の中央にあるオレンジ色のランプには、『とまります』という文字が浮かび、その光がゆっくりと明滅している。

 私には、その光そのものが警察を嘲笑っているように見えた。

 犯人は、警視庁が論理的に推論を積み重ねた末に『バス』という囮へ食いつくことを、最初から知っていたのだ。

 私はゴム手袋をはめた手で、慎重に降車ボタンを拾い上げた。
 その瞬間、指先に僅かな違和感が伝わった。
 裏側に、何か薄い紙のようなものが貼りついている。
 私はゆっくりと降車ボタンをひっくり返した。

 黒い裏面の中央に、白いラベルシールが寸分の歪みもなく貼られていた。無機質なゴシック体で記されているのは、たった一言だった。

『椅子に座りますか』

 その文字を読んだ、まさに次の瞬間だった。

 チー……という微かなノイズが、手元から聞こえた。

「……?」

 シールのすぐ横を見ると、ボタンの裏面に小さなスピーカー穴が開けられている。
 そこから、声が流れた。

『遅かったね、刑事さん』

「……!」

 心臓を直接、氷で撫でられたような感覚が走った。

 昼間、特捜本部のプロジェクターをジャックした、あの機械音声だった。
 理知的でありながら、ひどく冷酷な男の声が、今度は私の手のひらの中から直接響いている。

『特等席の座り心地は、どうだい? 少し遅かったみたいだけどね』

「貴様……!」

 だが、私が声を上げた時には、通信はすでにプツンと途絶えていた。
 強烈な悪寒が、背中から全身へ駆け抜ける。

 このシールも、今の音声も、死んだ天楽建設の社長へ向けて用意されたものではない。

 すべてが終わったあと、警察が焼け跡へやって来る。そこでバスの降車ボタンを発見し、拾い上げ、裏返して、この言葉を読む。

 犯人は、そこまで計算していた。

 つまり、これは最初から私たち――警察へ向けて仕掛けられたメッセージだったのだ。

 まるで犯人が、どこか安全な場所からこちらを見下ろし、現場へ辿り着いた私たちが絶望する様子を楽しんでいるかのようだった。

 私は手の中の降車ボタンを見つめた。

 本来、バスの降車ボタンは『降りる』ために押すものだ。つまり、座っていた席から立ち上がる意思を知らせるための装置である。

 しかし、その裏側に記された一文を読んだ瞬間、その意味は呪いのように反転する。

『椅子に座りますか』

 奴は、たった一つの言葉と、たった一つの物によって、警察組織そのものを自分の盤上の駒として弄んでいる。

 私は降車ボタンを手にしたまま、白いラベルへ記された文字を見つめ続けた。
 それはまるで、私自身を次の『特等席』へ手招きしているように見えた。

 *  *  *

 証拠品を携えて新宿署へ戻ると、私は百五十名近い捜査員がひしめく道場ではなく、その隣に設けられた幹部用の小さな別室――コア会議室へ呼び出された。

 中へ入った瞬間、異様な空気を感じた。

 狭い室内には、お通夜を思わせる重苦しい沈黙が立ち込めている。

 上座に座る高山捜査本部長は顔面を蒼白にしたまま腕を組み、その脇には郷田管理官が立っていた。

 グランドホテル東京で爆発が起き、天楽建設の社長が死亡したという第一報そのものは、私がホテルへ向かう前にすでに本部へ入っている。

 私がここへ呼ばれたのは、それ以外の情報を報告するためだった。
 重い扉を閉めると、郷田がすぐに私へ視線を向けた。

「真下。ホテルの現場で、妙なものが発見されたそうだな」
「……はい」
「現場からの速報では、主賓席の近くでバスの降車ボタンが見つかったと聞いている。お前が回収したんだろう。詳しく報告しろ」

 私はテーブルへ近づき、証拠袋に収められた降車ボタンを、その中央へ置いた。
 高山の眉が僅かに動いた。

「……これが?」
「はい。グランドホテル東京の大宴会場、爆心地のすぐそばに置かれていました。ただし、偶然そこに残っていたものではありません」
「どういう意味だ」
「爆発の火球から、ぎりぎり外れる位置に置かれていたんです。あとから警察が発見して回収することまで計算したとしか思えません」

 郷田が険しい表情で証拠袋を覗き込んだ。
「……バスの降車ボタンか」
「そうです」
 私は証拠袋越しに、その裏側を示した。
「裏には、これが貼られていました」

 白いラベルに記されているのは、『椅子に座りますか』という一文。
 高山の表情が強張った。

「それだけではありません。私が現場でこの降車ボタンを拾った直後、内部に仕込まれていたスピーカーから音声が流れました」

「音声?」

「昼間、ここのプロジェクターをジャックした犯人と同じ機械音声です」

 室内の空気が一段と重くなった。

 郷田が低い声で尋ねる。
「……何と言った」

「『遅かったね、刑事さん』。それから、『特等席の座り心地は、どうだい? 少し遅かったみたいだけどね』と」

 誰も、すぐには言葉を発しなかった。
 その意味を説明する必要などなかった。
 郷田の拳が僅かに震える。

「……最初から、俺たちがバスへ向かうことを読んでいたというのか」
「そう考えるしかありません」
 私は続けた。
「しかも、問題は降車ボタンだけじゃありません。爆発そのものが、無差別テロとはまるで違っていました」

 高山が私を見る。

「どう違う」

「宴会場全体は、ほとんど無傷です。シャンデリアも祭壇も円卓も残っています。破壊されたのは、最前列にある主賓席の椅子だけでした」

 私は、現場で見た黒焦げのクレーターを思い出した。

「爆発は座っていた人間一人だけへ集中するよう仕掛けられていました。爆心地に残されていたのは、黒く焼け焦げた床と、原形を失った椅子の残骸だけです。天楽建設社長の肉片も、骨片も見つかっていません」

 高山の顔が引きつった。

「……なんだと! 残骸すら残ってないだと」
「はい。周囲への被害を極端に抑えながら、社長だけを確実に消し去っていました」

 私は迷わず続けた。
「あれは無差別テロじゃありません。犯人は明確な意思を持って、天楽建設の社長一人だけを狙っています。私には、あれは単なる殺人ではなく――『処刑』に見えました」

 高山の顔から、さらに血の気が引いた。
 郷田もすぐには何も言わず、テーブルの上に置かれた降車ボタンを睨みつけていた。

 しばらくして、彼は低く吐き捨てた。
「……クソッ」
 高山は椅子の背もたれへ深く身体を預け、額へ手を当てた。
「西口のバスは……完全な囮だったということか」
「囮であり、同時に犯人から警察への挑発だったんだと思います」
 私は答えた。
「我々に『バス』という答えを出させて、大量の捜査員を西口へ向かわせ、その間に本当の標的をホテルの『特等席』で殺す。さらに現場へ降車ボタンまで残して、自分たちが騙されたことを警察自身に確認させた」

 高山は何も答えなかった。

 やがて、その沈黙を破ったのは郷田だった。
「……本部長。マスコミへの正式発表は、まだ出していませんよね」

 高山がゆっくり顔を上げた。
「ああ。ホテルで爆発が起き、死亡者が出たことまでしか明らかにしていない。事件の詳細については、現場検証の報告が上がるまで待つよう広報課へ指示している」
「それなら、まだ間に合います」
 郷田が高山を庇うように一歩前へ出た。
「本日十八時過ぎ、グランドホテル東京において過激派組織による爆弾テロが発生し、天楽建設の社長が不運にも巻き込まれて死亡した。マスコミには、その内容で発表すべきです」

「……何を言ってるんですか」
 私は思わず声を上げた。
「今、報告したばかりでしょう。あれのどこが無差別なんですか! 主賓席の椅子だけを狙った爆発で、社長以外を巻き込もうとした形跡なんてない!」

「声が大きいぞ、真下!」
 郷田は血走った目で私を睨みつけた。
 だが、すぐに高山へ向き直る。
「本部長。天楽建設は国策にも深く関わる巨大企業です。そのトップが犯人によって名指しで『処刑』されたなどと警察が公式に認めれば、政財界は大パニックになります」

 郷田の声が、さらに低くなった。

「それに……天下の警視庁が犯人の言葉遊びに踊らされ、大半の捜査員を西口バスターミナルへ投入している間に、本当の標的である天楽建設社長を殺されたと知れ渡れば、警察の威信は地に堕ちます」

 高山は苦渋に満ちた表情で唸った。
「……では、どうしろと言うんだ、郷田」
「本件は、極めて悪質な『無差別爆弾テロ』として処理すべきです」
 郷田は迷いなく言った。
「我々特捜本部は、西口バスターミナルに仕掛けられた爆発物を発見し、そこでのテロを未然に防ぐことには成功した。しかし、それとは別にグランドホテル東京でも第二の爆発が発生し、不運にも天楽建設の社長が巻き込まれて死亡した。そう公式発表するのです」

「我々は完全に手玉に取られたんですよ!」
 私は郷田を睨みつけた。
「犯人は最初から警察がバスへ食いつくことを読んでいた。その証拠に、わざわざホテルへ本物の降車ボタンまで残しているんです! 犯人の意図を知っていながら真実を歪めて、どうやってこれから奴と戦うんですか!」
「お前は黙っていろ!!」

 郷田の怒声が密室へ響き渡った。
「現場の一刑事が、組織全体の発表方針に口を挟むな!」
「現場を見たから言ってるんです!」
「真下!」
 郷田が机を叩いた。
 睨み合う私たちの間を断ち切るように、高山がゆっくりと口を開いた。
「……郷田管理官の言う通りだ」
「本部長……」
「警察は無謬でなければならない」

 高山は冷たい目で私を見た。
「今回の事件については、『過激派による無差別爆弾テロ』として発表する。我々特捜本部が西口バスターミナルで爆発物を発見し、多数の市民に被害が及ぶ可能性のあったテロを未然に防いだことを中心に、広報へ声明をまとめさせろ」

 私は耳を疑った。
「しかし、ホテルの爆発は――」
「真下」
 高山の声がさらに低くなる。
「事件の性質は『過激派による無差別テロ』だ。我々が犯人の暗号に踊らされ、本当の標的を見誤ったなどという事実は、公式には一切存在しない。分かったな」

 私は答えなかった。
「……」
「はっ」
 郷田は高山へ向かって深々と頭を下げた。
 そしてこちらへ振り返る。
 その目には、本部長の後ろ盾を得た者だけが浮かべる、露骨な勝ち誇りが滲んでいた。

「聞いたな」
 低い声だった。
「本部長の決定に異を唱えるなら、今すぐバッジを置いて出て行け」
 郷田は私の正面まで歩み寄ると、さらに声を落とした。
「……お前は少し休め、真下。捜査から外れろ」
 事実上の「謹慎処分」の宣告だった。

 組織の面子と自分の出世を守るために、事件の顛末そのものを「無差別テロ」という言葉で塗り潰す。自らの判断が間違っていたことを認めず、都合の悪い事実を組織の論理で押し込めようとする郷田の姿は、私にはまさしく「特等席」にしがみつく人間そのものに見えた。

 私は奥歯を強く噛み締めた。
 これ以上ここにいれば、本当に何かを口走ってしまいそうだった。
 何も言わずに踵を返し、特捜本部を飛び出した。