椅子に座りますか

 実行犯のスマートフォンのカメラは、その二人を執拗に切り取っている。
 苦しそうに顔を歪める妊婦。
 画面に夢中になり、激しく指をスワイプし続ける男。
 男がゲームで会心のプレイでも決めたのか、ニヤリと下品に唇を歪め、満足げな息を吐いた。

 まさに、その瞬間。

 動画の隅に赤い文字が浮かんだ。
『カウントダウン:ゼロ』
 閃光。
 画面が大きく揺れた。
 次の瞬間、天井から赤黒い飛沫が降り注いだ。
 だが、その凄惨な映像の上へ、無数のコメントが歓喜の弾幕となって覆い被さっていく。

『リアルステージクリアwww』
『豚のミンチ一丁上がり!』
『他人の痛みも分からないゴミが消し飛んで最高!
 もっとやれ!』

 次の動画も同じだった。

 杖をついた老人が横へ来ても、読書に耽るふりをしながら座り続けるインテリ風の若者。

 隣の座席に巨大な荷物を置き、注意した学生を獣のような目で威嚇する派手な女。
 動画は、彼らが最も「自分は正しい」と思っている瞬間を意図的に切り取っていた。

 自分の席を当然の権利だと思い。
 周囲を見下し。
 絶対的な優越感へ浸っている、その瞬間。

 そこから地獄へ転落するまでを、まるで一つの映像作品のように編集している。

『これこそ、真の社会貢献だろ』
『日本の満員電車を浄化する神の御業。警察は邪魔するな』

 狂気を孕んだコメントが滝のように流れ続ける。
 殺された人間が、どんな人生を歩んでいたのか。
 どんな事情があったのか。
 誰も知らない。
 誰も興味を持っていない。
 画面の中に、分かりやすい『悪』が存在する。
 その悪が残酷に排除される。

 それを見て笑う。
 喜ぶ。
 歪んだ快感を得る。
 ただ、それだけだった。

(……狂っている。犯人も、こいつらも)

 優先席の男たちを「傲慢だ」と罵りながら、安全な場所から他人の生死を選別している。

 死んでいい。
 死んではいけない。
 こいつは悪人だ。
 こいつは罰せられて当然だ。

 スマートフォンの画面一枚を隔てた場所から、まるで神のように他人を裁く。
 気づいていない。
 今、一番高い「特等席」に座っているのは、自分たちだということに。

「……真下、何を見ている。油を売っている暇があるなら、防犯カメラ映像の解析を手伝え」

 不意に背後から声が降ってきた。
 私はハッとして顔を上げた。
 いつの間にか、郷田管理官が最後尾までやってきていた。
 私の肩越しに、スマートフォンの画面を鋭い目で覗き込む。

「くだらん」
 郷田は鼻で笑った。
「所詮、ネットの掃き溜めで息巻いているだけの負け犬どもだ。現実世界では文句ひとつ言えん連中が、匿名という安全圏から石を投げているに過ぎん。何の価値もない」

 冷たく切り捨てる。
 だが、私には分かった。
 その目には僅かな焦りがある。
 犯人を捕まえられない。
 警察が後手に回っている。
 上層部からの評価。
 自分の出世。

 郷田が気にしているのは、この事件によって自分の「席」が揺らぐことなのだ。

 だが。

 もし国民の多くが、犯人を恐れるどころか、心のどこかで「応援」しているのだとしたら。

 我々警察は、一体誰と戦っている?
 犯人一人なのか。
 それとも、画面の向こうで犯人の行為に喝采を送る何十万、何百万という人間なのか。

 私は何も言わず、スマートフォンをスーツの内ポケットへしまった。

 その時だった。

 ブブッ、と短い振動が伝わった。
 着信ではない。
 ダイレクトメッセージの通知だ。
 私は端末を取り出した。

 画面に浮かび上がった短い文章を見た瞬間、呼吸が止まった。

『そろそろ、特等席の準備をしようか。真下刑事』

 全身の産毛が逆立った。
 私の名前を知っている。
 それだけではない。
 このタイミング。

 まるで、今この瞬間、私が何を見て、何を考えていたのかまで、どこかから監視しているかのようだった。

 私は顔から血の気が引くのを感じながら、メッセージの送信元を調べようと震える指を動かした。

 その一秒後。

 ――ピーーーーーーッ!

 耳障りなハウリング音が、道場全体へ響き渡った。
「なんだ!?」
 怒号を上げていた百五十名の捜査員たちが、一斉に動きを止める。
 前方の巨大なプロジェクターが砂嵐のように乱れた。

 やがて画面が真っ黒に変わり、その中央へ毒々しい赤い波形が浮かび上がる。
 心電図のように、ゆっくりと脈打っていた。

(……馬鹿な)

 私は画面を睨んだ。
 警視庁の内部ネットワーク。
 厳重なファイアウォール。
 警察の頭脳とも言える特捜本部の中枢。

 それが今。

 完全に乗っ取られている。

 やがてスピーカーから、人を食ったような、ひどく理知的な男の声が響いた。

『本日、再び特等席の「掃除」を執行する。……無能なる警察諸君。今日は記念すべき日だ。一つだけ、諸君の知性を試す座標を与えよう』

 百五十名の視線が、巨大スクリーンへ集まる。

『次の舞台は、さあ、どの車両だろうか。乗客自らが「座る」意志を示す、あの黄色い灯火の下だ。そのボタンが押された時、特等席でふんぞり返る強欲な豚は業火に焼かれる』

「篠塚! 発信元を追え!」
「やってます!」
 郷田の怒号にも構わず、犯人は続ける。

『座標を示そう。――内藤の新たな宿。その第六の領域、二番目の配列だ。落日を望む。最初に戻る』

 私は一つ一つの言葉を頭へ刻み込んだ。

『……終点でお待ちしている。盛大な拍手と、「おめでとうさん」です、とね』

 最後に、ふざけたような路線バスの降車チャイムが鳴った。
 ピンポーン。
 通信は一方的に途絶えた。

 一瞬の静寂。

 次の瞬間、道場全体が凄まじい怒号と混乱に包まれた。

「内藤の新たな宿だと!? 第六の領域? 落日を望むって何だ!」
「拍手と、おめでとうさんだと? ふざけやがって! 警察をコケにする気か!」
「高山本部長!」
 篠塚が叫んだ。
「江戸時代の甲州街道に作られた新しい宿場町、『内藤新宿』のことです! つまり現在の新宿!」

 道場にどよめきが走った。

「新宿のどこだ!?」
「抽象的すぎるぞ!」
「『落日』なんて言葉で、どうやって場所を絞り込めって言うんだ!」
 ベテラン刑事たちが混乱して声を荒らげる中、猛烈な勢いで端末を叩いていた篠塚が、ふと指を止めた。