新宿駅で電車を降り、厳戒態勢の敷かれた署へ向かった。
昨日のコア会議で高山本部長が命じた通り、特捜本部は最上階にある広大な柔剣道場へ移設されていた。
百五十名を超える合同捜査員がひしめいている。
警視庁捜査一課。
公安。
サイバー犯罪対策課。
各所轄の刑事。
情報通信部。
鑑識。
長机の上にはパソコンや資料、飲みかけの缶コーヒーが所狭しと並び、何十台もの固定電話が絶え間なく鳴り響いている。
だが、捜査員の数が増えたにもかかわらず、空気は昨日よりはるかに重く澱んでいた。
「……真下さん。おはようございます」
壁際にある最後尾の定位置へ向かおうとしていた時、すれ違いざま、そっと声をかけてきた男がいた。
後輩刑事の日下部(くさかべ)だ。
「おい日下部、やめとけって」
日下部の背後から、別の声が飛んできた。
彼の同期である刑事・須藤(すどう)だった。
須藤は薄ら笑いを浮かべながら歩み寄ってくる。
この男は、かつて新宿署で私を踏み台にして本庁へ返り咲き、今回『管理官』として凱旋した郷田へ、さっそく取り入った男だった。
三年前のあの事件で何が起きたのか。
郷田が何をしたのか。
その顛末を知っていながら。
須藤は、勝者の側につくことを選んだ。
「その『窓際』に関わると、お前まで泥を被ることになるぞ」
須藤は私を横目で見ながら、日下部へ言った。
「せっかく俺と同じ主任に上がったばかりだってのに、わざわざ郷田管理官の嫌われ者に尻尾を振って、出世コースから外れたいのかよ」
あからさまな牽制と嘲笑だった。
その言葉に同調するように、周囲の捜査員たちも私へ冷たい視線を向ける。
だが、日下部は須藤を鋭く一瞥しただけだった。
そして私の前まで来ると、いつもの人懐っこい笑みを浮かべ、手にしていたファイルの下から缶コーヒーと数枚の紙を取り出した。
「これ。昨日の現場の追加資料と、鑑識の初期報告書です。郷田管理官には内緒でコピーしておきました」
「馬鹿野郎」
私は声を落とした。
「須藤の言う通りだ。こんな真似して郷田にチクられれば、せっかくの『主任』の肩書きが飛ぶぞ」
そう言いながらも、資料をコートの内ポケットへ滑り込ませる。
「構いませんよ。出世なんて、元々拾った命のオマケみたいなもんですから」
日下部は少しだけ表情を引き締めた。
「それに俺はまだ、あの時の『借り』をこれっぽっちも返しきってませんしね」
私は何も言わなかった。
「……郷田がこっちを見てます。気を付けて」
日下部はそれだけ告げると、背後で舌打ちする須藤など意にも介さず、足早に自分の席へ戻っていった。
ポケットの中の缶コーヒーに触れる。
まだ温かい。
その熱が、冷え切っていた指先へじんわりと染み込んでくる。
私が最後尾の定位置へ着くや否や、さらなる報告が特捜本部へ飛び込んできた。
防犯カメラの映像解析から、始発電車で爆弾を仕掛けた「設置役」の男たちが数名、都内で身柄を確保されたという。
一見すれば、捜査の大きな進展だった。
だが、徹夜で聴取に当たった刑事たちが持ち帰ってきたのは、事件解決へ繋がる糸口ではなかった。
むしろ、その逆。
底の見えない巨大な沼だった。
「……被疑者らの供述が取れました。ですが、全員、互いに面識のない完全な素人です」
ホワイトボードの前に立つ情報通信部の篠塚が報告した。
目の下には濃い隈が浮かんでいる。
上座の高山本部長と、その横で腕を組む郷田管理官へ向け、篠塚は疲労と混乱の入り混じった声で続けた。
「奴らは借金を抱えたフリーターや大学生で、秘匿性の高い通信アプリで募集されていた『高額バイト』に応募しただけだと供述しています。指示役の素性や顔はおろか、声すら聞いたことがない、と」
「ふざけるな!」
郷田が長机を強く叩いた。
「じゃあ誰が、あの精巧な爆弾を作った!? どうやって奴らへ指示を出したっていうんだ!」
高山の目がある。
自分が捜査を支配していると示したいのだろう。郷田は必要以上に声を荒らげていた。
「指示はすべて、自動消去されるテキストメッセージのみだったそうです」
篠塚は続ける。
「そして……さらに恐ろしいのは、その人員配置の緻密さです」
手元の資料を持つ指が僅かに震えた。
「電車内の優先席は、基本的に『三人掛け』です。犯人は一つの優先席に爆弾を設置する際、互いに全く面識のない闇バイトの素人を、わざわざ三人同時に雇っていました」
「なんだと……?」
郷田の眉間に深い皺が寄る。
「彼らへ送られた指示は、『指定された路線の始発電車に乗り込み、指定された優先席の【左端】に座れ』といったように、一人ひとり座る位置までピンポイントで指定されていました」
篠塚はホワイトボードへ三人掛けの座席を描いた。
左。
中央。
右。
「三人は、隣に座っている人間も同じ仕事を請け負った実行犯だとは知らされていません。全員、自分以外はただ偶然そこに居合わせた乗客だと思っていた。そして周囲の目がなくなった隙に、それぞれに渡された『一つの荷物』を、自分の指定された座席の裏へ貼り付ける」
「三人掛けの優先席に……三人の設置役……」
誰かが呟いた。
しかも、その三人は互いが同じ仕事をしていることすら知らない。
「一人捕まえても……何も知らないじゃないか」
篠塚は黙って頷いた。
そう。
誰も全体を知らない。
設置役は、自分に与えられた一つの作業だけを知っている。
首謀者だけが、どこにもいない。
「馬鹿な……」
郷田が絶句した。
百五十名を超える合同捜査員たちの間にも、冷たい悪寒が広がっていく。
「じゃあ……あの地獄のようなラッシュ時に、爆破のボタンを押した連中はどうなる!」
郷田が声を絞り出した。
「……恐らく、そちらも別の『闇バイト』で集められた実行犯です」
篠塚が青ざめた顔でタブレットを操作すると、道場の壁に設置された巨大なプロジェクターへ新たな画面が映し出された。
ダークウェブ上で、ひっそりと拡散されていた募集要項だった。
『指定の時間に、指定の電車の車両に乗車すること。
支給されたスマートフォンのカメラを起動し、優先席の【左】・【中央】・【右】のうち、指定された【一つの座席のみ】を撮影・監視し続けろ。
対象が“人を見下すような態度”をとった場合のみ、画面のスイッチを押すこと。
【報酬と注意事項】
・監視任務の完了をもって、報酬十万円を支払う。
対象が条件を満たさず、スイッチを押さずに任務を終了した場合でも報酬は約束する。
ただし、撮影および監視自体を放棄した場合は一切支払わない。
・端末のカメラ映像は常にこちらへ送信・録画されている。
対象の態度が悪くないにも関わらず不当にスイッチを押した場合は、映像記録により即座に発覚し、報酬は没収となる。
必ず、真に条件を満たした悪質な対象にのみ実行すること』
「監視役すら、座席の数だけバラバラに雇っていたというのか……」
中列の捜査員が呻くように言った。
広大な道場が、水を打ったように静まり返る。
「その通りです」
篠塚が重苦しい声で説明を続けた。
「爆弾を仕掛けた時と同じです。一つの優先席に対して三人の実行犯を配置していた。彼らは同じ車両に乗り込みながら、互いの顔も、誰が同じ実行犯なのかも知らない。ただ、自分が担当する一つの座席だけをスマートフォン越しに監視していたんです」
「しかも……」
別の捜査員が戦慄混じりに呟いた。
「対象の態度が悪くなければ、ボタンを押さなくても十万円は支払われる。逆に、嘘をついて押せば、カメラ映像でバレて報酬はゼロ。このルール自体が、実行犯に余計な殺人をさせず、『正確な死のジャッジ』をさせる仕組みになっている……」
異常だった。
だが、恐ろしく合理的だった。
昨日のコア会議で高山本部長が命じた通り、特捜本部は最上階にある広大な柔剣道場へ移設されていた。
百五十名を超える合同捜査員がひしめいている。
警視庁捜査一課。
公安。
サイバー犯罪対策課。
各所轄の刑事。
情報通信部。
鑑識。
長机の上にはパソコンや資料、飲みかけの缶コーヒーが所狭しと並び、何十台もの固定電話が絶え間なく鳴り響いている。
だが、捜査員の数が増えたにもかかわらず、空気は昨日よりはるかに重く澱んでいた。
「……真下さん。おはようございます」
壁際にある最後尾の定位置へ向かおうとしていた時、すれ違いざま、そっと声をかけてきた男がいた。
後輩刑事の日下部(くさかべ)だ。
「おい日下部、やめとけって」
日下部の背後から、別の声が飛んできた。
彼の同期である刑事・須藤(すどう)だった。
須藤は薄ら笑いを浮かべながら歩み寄ってくる。
この男は、かつて新宿署で私を踏み台にして本庁へ返り咲き、今回『管理官』として凱旋した郷田へ、さっそく取り入った男だった。
三年前のあの事件で何が起きたのか。
郷田が何をしたのか。
その顛末を知っていながら。
須藤は、勝者の側につくことを選んだ。
「その『窓際』に関わると、お前まで泥を被ることになるぞ」
須藤は私を横目で見ながら、日下部へ言った。
「せっかく俺と同じ主任に上がったばかりだってのに、わざわざ郷田管理官の嫌われ者に尻尾を振って、出世コースから外れたいのかよ」
あからさまな牽制と嘲笑だった。
その言葉に同調するように、周囲の捜査員たちも私へ冷たい視線を向ける。
だが、日下部は須藤を鋭く一瞥しただけだった。
そして私の前まで来ると、いつもの人懐っこい笑みを浮かべ、手にしていたファイルの下から缶コーヒーと数枚の紙を取り出した。
「これ。昨日の現場の追加資料と、鑑識の初期報告書です。郷田管理官には内緒でコピーしておきました」
「馬鹿野郎」
私は声を落とした。
「須藤の言う通りだ。こんな真似して郷田にチクられれば、せっかくの『主任』の肩書きが飛ぶぞ」
そう言いながらも、資料をコートの内ポケットへ滑り込ませる。
「構いませんよ。出世なんて、元々拾った命のオマケみたいなもんですから」
日下部は少しだけ表情を引き締めた。
「それに俺はまだ、あの時の『借り』をこれっぽっちも返しきってませんしね」
私は何も言わなかった。
「……郷田がこっちを見てます。気を付けて」
日下部はそれだけ告げると、背後で舌打ちする須藤など意にも介さず、足早に自分の席へ戻っていった。
ポケットの中の缶コーヒーに触れる。
まだ温かい。
その熱が、冷え切っていた指先へじんわりと染み込んでくる。
私が最後尾の定位置へ着くや否や、さらなる報告が特捜本部へ飛び込んできた。
防犯カメラの映像解析から、始発電車で爆弾を仕掛けた「設置役」の男たちが数名、都内で身柄を確保されたという。
一見すれば、捜査の大きな進展だった。
だが、徹夜で聴取に当たった刑事たちが持ち帰ってきたのは、事件解決へ繋がる糸口ではなかった。
むしろ、その逆。
底の見えない巨大な沼だった。
「……被疑者らの供述が取れました。ですが、全員、互いに面識のない完全な素人です」
ホワイトボードの前に立つ情報通信部の篠塚が報告した。
目の下には濃い隈が浮かんでいる。
上座の高山本部長と、その横で腕を組む郷田管理官へ向け、篠塚は疲労と混乱の入り混じった声で続けた。
「奴らは借金を抱えたフリーターや大学生で、秘匿性の高い通信アプリで募集されていた『高額バイト』に応募しただけだと供述しています。指示役の素性や顔はおろか、声すら聞いたことがない、と」
「ふざけるな!」
郷田が長机を強く叩いた。
「じゃあ誰が、あの精巧な爆弾を作った!? どうやって奴らへ指示を出したっていうんだ!」
高山の目がある。
自分が捜査を支配していると示したいのだろう。郷田は必要以上に声を荒らげていた。
「指示はすべて、自動消去されるテキストメッセージのみだったそうです」
篠塚は続ける。
「そして……さらに恐ろしいのは、その人員配置の緻密さです」
手元の資料を持つ指が僅かに震えた。
「電車内の優先席は、基本的に『三人掛け』です。犯人は一つの優先席に爆弾を設置する際、互いに全く面識のない闇バイトの素人を、わざわざ三人同時に雇っていました」
「なんだと……?」
郷田の眉間に深い皺が寄る。
「彼らへ送られた指示は、『指定された路線の始発電車に乗り込み、指定された優先席の【左端】に座れ』といったように、一人ひとり座る位置までピンポイントで指定されていました」
篠塚はホワイトボードへ三人掛けの座席を描いた。
左。
中央。
右。
「三人は、隣に座っている人間も同じ仕事を請け負った実行犯だとは知らされていません。全員、自分以外はただ偶然そこに居合わせた乗客だと思っていた。そして周囲の目がなくなった隙に、それぞれに渡された『一つの荷物』を、自分の指定された座席の裏へ貼り付ける」
「三人掛けの優先席に……三人の設置役……」
誰かが呟いた。
しかも、その三人は互いが同じ仕事をしていることすら知らない。
「一人捕まえても……何も知らないじゃないか」
篠塚は黙って頷いた。
そう。
誰も全体を知らない。
設置役は、自分に与えられた一つの作業だけを知っている。
首謀者だけが、どこにもいない。
「馬鹿な……」
郷田が絶句した。
百五十名を超える合同捜査員たちの間にも、冷たい悪寒が広がっていく。
「じゃあ……あの地獄のようなラッシュ時に、爆破のボタンを押した連中はどうなる!」
郷田が声を絞り出した。
「……恐らく、そちらも別の『闇バイト』で集められた実行犯です」
篠塚が青ざめた顔でタブレットを操作すると、道場の壁に設置された巨大なプロジェクターへ新たな画面が映し出された。
ダークウェブ上で、ひっそりと拡散されていた募集要項だった。
『指定の時間に、指定の電車の車両に乗車すること。
支給されたスマートフォンのカメラを起動し、優先席の【左】・【中央】・【右】のうち、指定された【一つの座席のみ】を撮影・監視し続けろ。
対象が“人を見下すような態度”をとった場合のみ、画面のスイッチを押すこと。
【報酬と注意事項】
・監視任務の完了をもって、報酬十万円を支払う。
対象が条件を満たさず、スイッチを押さずに任務を終了した場合でも報酬は約束する。
ただし、撮影および監視自体を放棄した場合は一切支払わない。
・端末のカメラ映像は常にこちらへ送信・録画されている。
対象の態度が悪くないにも関わらず不当にスイッチを押した場合は、映像記録により即座に発覚し、報酬は没収となる。
必ず、真に条件を満たした悪質な対象にのみ実行すること』
「監視役すら、座席の数だけバラバラに雇っていたというのか……」
中列の捜査員が呻くように言った。
広大な道場が、水を打ったように静まり返る。
「その通りです」
篠塚が重苦しい声で説明を続けた。
「爆弾を仕掛けた時と同じです。一つの優先席に対して三人の実行犯を配置していた。彼らは同じ車両に乗り込みながら、互いの顔も、誰が同じ実行犯なのかも知らない。ただ、自分が担当する一つの座席だけをスマートフォン越しに監視していたんです」
「しかも……」
別の捜査員が戦慄混じりに呟いた。
「対象の態度が悪くなければ、ボタンを押さなくても十万円は支払われる。逆に、嘘をついて押せば、カメラ映像でバレて報酬はゼロ。このルール自体が、実行犯に余計な殺人をさせず、『正確な死のジャッジ』をさせる仕組みになっている……」
異常だった。
だが、恐ろしく合理的だった。
