椅子に座りますか

*  *  *
 
 その日の夜。

 残務を終えた私は、郷田の命令で彼を公用車に乗せ、自宅のある都心のタワーマンションまで送り届けることになった。

 私がハンドルを握り、夜の新宿を走り抜ける。フロントガラスの向こうでは、赤や青、黄色のネオンが濡れたアスファルトに滲み、流れる光の帯となって後方へ消えていった。

 助手席の郷田は、窓の外へ視線を向けたまま黙り込んでいる。

 普段なら、部下の仕事ぶりへの文句か、本庁の人事か、自分がどれだけ重要な仕事を任されているかという話を延々と聞かされるところだ。だが今夜に限っては、それがない。

 車内には、エンジンの低い唸りとタイヤが路面を擦る音だけが響いていた。

「おい、真下」
 唐突に、郷田が口を開いた。
 声は驚くほど低く、いつもの傲慢な響きが削ぎ落とされている。
「……なんですか」
「お前は、あの声明文のどこにそんなに感銘を受けたんだ?」

 私は僅かに眉を寄せた。

「感銘なんて――」
「あんなものは、ただの身勝手な復讐劇に過ぎない」
 郷田は私の言葉を遮った。
「自分の気に入らない人間を勝手に悪人と決めつけて、爆弾で殺す。それを『気持ちがわかる』などと口走るなんてな。刑事として……いや、人間として危ういぞ」

 ちょうど前方の信号が赤に変わった。

 私はゆっくりブレーキを踏み、停止線の手前で車を止める。
 フロントガラスの向こうに赤く灯る信号を、ぼんやりと見つめた。
 否定したかった。
 犯人のやり方は狂っている。

 人を殺していい理由など、どこにもない。
 ましてや、爆弾を使い、自分の価値観だけで誰かを「悪」と決めつけて処刑するなど、私が警察官になった時に守ると誓った正義とは対極にある。

 そんなことは分かっている。
 頭では。
 だが――。
 どうしても、あの声明文の一節だけが頭から離れなかった。
『その足元で、息絶えようとしていた命があったことを知っていますか?』

 その言葉が、二十二年間、胸の奥へ押し込めてきた記憶を無理やりこじ開ける。
 
 二十二年前。
 私がまだ子供だった頃、早くに母を亡くし、男手一つで私たち兄弟を育ててくれていた実父――風間誠志。
 父は、満員電車の中で持病の発作を起こした。
 人と人とが押し潰し合うような車内で、苦しいと声を上げることすら難しかったはずだ。

 父は必死に耐えた。
 そして、力尽きた。
 もし、あの時。
 父が優先席に座れていれば。

 もし、周囲にいた誰か一人でも、ほんの少しだけ他人へ目を向ける余裕を持っていてくれれば。

「大丈夫ですか?」
 その一言をかけてくれていれば。

 席を譲るという、たったそれだけの「余裕」を持っていてくれれば――。
 父は死なずに済んだのではないか。
 今となっては確かめようがない。
 だが、あの冷たい車内での孤独な死は、私たち兄弟の運命を決定的に狂わせた。
 唯一の肉親を失い、完全に身寄りをなくした私と弟のユウは、児童養護施設へ入れられた。

 そして、やがて別々の家庭へ引き取られていった。
 私は警察官だった真下修造の養子となった。
 一方、弟のユウは、ある裕福な家庭へ迎え入れられた。
 苗字が変わっても、住む場所が変わっても、生きる世界そのものが分かれてしまっても、私は信じていた。

 いつかまた、兄弟で会える。

 大人になったら。
 父のことを話しながら、昔のように笑える。

 そう信じていた。

 だが、別離から三年後。

 ユウは、不慮の事故という名目で、たった一人この世を去った。

 父も。
 弟も。

 私の手が届かない場所で消えた。

 私は時々、想像してしまう。

 あの日、満員電車の中で誰にも助けてもらえず、力尽きた父の姿を。
 そして、暗闇の中で死んでいった弟の姿を。
 無関心な大衆に埋もれ。
 誰にも気づかれず。
 誰にも救われず。
 消えていった家族。

 そんな個人的で、やり場のない怨嗟が、犯人の声明文によって否応なく呼び起こされてしまった。

 だが、それを郷田に話す気にはなれなかった。

 他人の手柄を奪い、部下を踏み台にし、他人の血を啜るようにして出世してきた、この男に。
 私の一番深い傷を晒すなど、できるはずがない。

「……わかりません」
 私は短く答えた。

 郷田はサイドミラー越しに、私を射抜くような視線を向けてきた。
 しかし、それ以上は何も言わなかった。
 やがて信号が青に変わる。
 私は静かにアクセルを踏み込んだ。
 車が再び夜の街へ滑り出す。

(……お前こそが、この社会の腐敗そのものだ)

 胸の奥に、どす黒い感情が湧き上がった。

 他人の痛みなど一顧だにせず、俺たちのような人間を踏み台にして平然と出世していく。

 お前のような傲慢な奴らがいるから。
 父は死に。
 俺の弟は――。

(……待て)

 背筋に冷たいものが走った。

(今、俺は……何を考えた?)

 私は思わず首を振り、その思考を振り払った。
 何を考えている。
 郷田が嫌いなのは事実だ。
 憎んでいる。
 あの男のせいで、人生を狂わされた部分だってある。

 だが、それとこれとは違う。

 今の私は、ほんの一瞬でも――。
 郷田を「死んでもいい人間」として見なかったか。

 ぞっとした。

 今の衝動はまるで、私自身が犯人の思想と同化し、助手席に座る郷田という一人の人間を、「標的に値するか」と脳内で品定めしているようだった。

 私はハンドルを強く握り直した。
 
*  *  *
 
 翌朝。

 私は新宿署へ向かうため、いつものように埼京線に乗っていた。
 だが、昨日までの日常は完全に姿を消していた。

 JRの全路線には武装した警察官が車両ごとに配置され、主要駅の構内では大型の荷物を持つ乗客に対する手荷物検査まで行われている。

 朝の通勤時間帯だというのに、駅全体が戦場か戒厳令下の都市のような異様な緊張感に包まれていた。

 しかし、それ以上に異様だったのは、車内の光景だった。
 相変わらず、息が詰まるほどの満員電車。
 人と人が身体を押しつけ合い、吊り革へ手を伸ばすことすら難しい。
 昨日と同じ光景。
 ただ一つ、決定的に違うものがあった。

 ――座席だ。
 優先席だけではない。

 七人掛けの一般シートも含め、すべての座席に誰一人として座っていなかった。

 立っている乗客たちは、押し合いへし合いしながらも、ぽっかりと空いた座席の周囲だけには、不自然なほどの空間を作っている。

 疲労で顔を歪める老人。
 重い鞄を抱えた会社員。
 学生。
 誰もが一度は空席へ目を向ける。
 そして、すぐに視線を逸らす。

 まるで椅子そのものが「爆弾」であるかのように。
 そこへ腰を下ろした瞬間、昨日の犠牲者たちと同じように身体が吹き飛ぶのではないかと。

 満員なのに、座席だけが空いている。
 老人も。
 疲れ切った会社員も。
 誰一人として腰を下ろそうとしない。
 犯人は、たった一日で東京における「椅子」の意味を変えてしまったのだ。
 昨日まで、座れる者は勝者だった。
 今日からは、座った者が、死ぬかもしれない。