椅子に座りますか

 本来、所轄のヒラ刑事がこの場へ同席することなどあり得ない。

 私がここに立たされているのは、ひとえに最前列で腕を組んで座る一人の男の思惑によるものだった。

 郷田。本庁から派遣されてきた、特捜本部の実質的な現場指揮官だ。

 現在、私は三十二歳。郷田は三十八歳。

 私が二十八歳だった頃、本庁捜査一課から警部として新宿署へ派遣されてきたのが、当時三十四歳だった郷田だ。

 そこから二年間、私は郷田の相棒として現場を這いずり回った。
 私が犯人を追い、証拠を拾い、泥を被る。

 郷田は最後に報告書へ名前を書く。
 それだけで、彼は本庁へ戻った。

 今では管理官。

 そして私は、まだ所轄にいる。

 今回、私がこの会議室へ呼ばれた理由も、おそらく昔と同じだった。

「……埼京線だけではありません! 山手線、中央線、京浜東北線……!」
 突然、情報通信部の若手・篠塚が、血相を変えて会議室へ駆け込んできた。
「本日午前七時四十五分から八時の間に、都内を走るJR各線の電車内で同時多発的な爆発が発生! 確認されただけで十数件に及びます!」

 会議室がざわめく。

 篠塚は息を切らしながらも報告を続けた。
「鑑識の初動捜査により、すべて遠隔操作の『ボタン式』爆弾だと発覚しました。死者はすべて、優先席に座っていた人間のみ。隣の乗客は血や肉片を浴びたものの、奇跡的に生存しています!」
「なんだと!? 実行犯は現場で捕まえたんだろうな!?」

 最前列の幹部たちが色めき立ち、二十名ほどの会議室に一気に戦慄が広がった。

「それが……爆発後のパニックが凄まじく、ボタンを押した人間は逃げ惑う群衆に紛れて完全に姿を消しました。車内の目撃証言も得られていません」
「チッ!」
 篠塚の報告に、郷田が苛立たしげに机を叩いた。
「所轄の連中は無能揃いか。防犯カメラはどうなってる! 全駅の映像を洗え!」
「現在、総動員で解析中です! ただ……一つ、手がかりがあります」

 篠塚は手元の資料へ視線を落とした。
「爆発が起きた車両の『始発駅』の映像に、優先席付近で不審な動きをする人物が複数確認されました。まずは、この爆弾の『設置役』の特定を急いでいます!」
「馬鹿な……」

 別の幹部が呟いた。
「じゃあ、爆弾を仕掛けた奴と、ボタンを押した奴は……別の人間だというのか?」

 会議室に、水を打ったような静寂が広がった。

 上座で腕を組む高山捜査本部長の顔にも、険しい疲労の色が浮かんでいる。

 これは単なる無差別テロではない。
 誰かが爆弾を仕掛ける。
 別の誰かが標的を監視する。
 さらに別の人間が、何らかの条件に従って起爆する。
 少なくとも、単独犯による衝動的な犯行ではない。
 周到に計画された、前代未聞の同時多発処刑だ。

「……事態は我々の想定を遥かに超えている。ただの爆破テロではないぞ」
 高山が重々しい声で指示を下した。
「直ちに公安とサイバー班の増員を要請しろ。後ほど特捜本部の規模を五十名……いや、それ以上の全庁的な合同捜査態勢へ拡大する。各員、直ちに手配を――」
「高山本部長!」
 捜査員の一人が声を上げた。
「その犯行グループのものと思われる声明文が、ネット上で急速に拡散されています!」
「映せ!」

 その言葉と同時に、壁に設置された巨大なプロジェクターへSNSの画面が映し出された。

 黒い背景。

 その中央に、白い文字が浮かび上がっている。

『その足元で、息絶えようとしていた命があったことを知っていますか?
 優先席という名の特等席でふんぞり返る者たち。
 弱者を踏み躙り、ぶつかれば舌打ちをし、自分さえ良ければそれでいいと嘯く醜い者たち。
 私はもう、あなたたちの傲慢を許さない。
 警告は終わりだ。
 今日、最初の「掃除」を行った。
 これは復讐ではない。
 腐りきった社会システムへの、正当な裁きだ。
 ――あなたは椅子に座りますか』

「なんだ、このポエムは」

 静まり返った空間を破ったのは、最前列で鼻を鳴らす郷田の声だった。

「狂人の世迷い言だな。マナーが悪いから殺した? くだらん。社会に不満を持った底辺の集まりが、いっちょ前に大義名分を掲げているだけだ」
 郷田は篠塚へ向けて顎をしゃくった。
「防犯カメラに映った『設置役』をすぐに見つけ出して吐かせろ!」
「ふざけた模倣犯が出る前に潰せ!」
「サイバー班を総動員しろ!」
「書き込みの発信元を追え!」

 二十名の幹部たちも、郷田へ同調するように次々と声を上げ始めた。
 彼らにとって、首謀者はただの異常者。
 速やかに駆除すべき害虫。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 だが――。
 最後尾の壁際に立つ私だけは違った。

 私は、プロジェクターの青白い光に照らされた声明文から、どうしても目を逸らすことができなかった。

 鼓動が、異常な速さで打ち始める。

(……なんだ、この感覚は)

 胸の奥底。
 長い間、蓋をしてきた場所。
 そこに沈めていた、どろどろとした黒い感情が、熱を持って脈打っている。
 狂っているのは、犯人たちなのか?
 もちろん、人を殺していい理由などない。
 そんなことは分かっている。
 だが、平然と弱者を見殺しにし、他人の痛みなど見ようともせず、自分だけは安全な場所に座ってふんぞり返る。
 本当に狂っているのは――そんな人間を放置し続けてきた、この世界の方ではないのか。

 その時だった。

 ヒートアップして怒号が飛び交っていた会議室の空気を制するように、上座の高山がスッと右手を高く上げた。

 トップの仕草に、二十名の幹部たちが一斉に口をつぐむ。
 次の指示を待つための、張り詰めた完全な沈黙。
 まるで轟音の途中に突然生まれた、エアポケットのような空白。
 そして、よりによって、その瞬間だった。

「……気持ちは、わかりますよ」
 無意識だった。
 自分の口から零れ落ちた乾いた声に、一番驚いたのは私自身だった。

 怒号が続いていれば、誰にも聞こえなかったはずだ。ただの独り言として消えていたはずだった。

 だが、奇跡的なまでに最悪のタイミングで訪れた静寂の中、その呟きだけが、密室のコア会議室へマイクを通したかのように鮮明に響き渡ってしまった。

 室内の空気が、一瞬にして凍りついた。
 郷田。
 高山。
 公安。
 捜査一課。
 二十名の特捜幹部たち。
 全員が、一斉に後ろを振り返った。

 視線が、私一人へ突き刺さる。
 場違いな所轄のヒラ刑事。
 その男が今、連続爆破犯へ「共感」を示したのだ。

 肌を刺すようなエリートたちの視線と重苦しい沈黙の中、郷田が汚物を見るような冷酷な目で私を見据えた。
 取り繕え。
 謝れ。
 そう命じる警察官としての理性と、犯人の言葉に一瞬でも共鳴してしまった自分の感情が、胸の中で激しく軋んだ。

「真下」
 静寂を裂くように、郷田が低く呼んだ。
「お前、今なんと……?」