椅子に座りますか


 もちろん、すべての事件を完璧に解決できたわけではない。

 二年前。 

 凶悪な脱獄犯がこの近隣に現れ、しばらく潜伏していたことがあった。
 カラスはサイバー空間から奴の足取りをほぼ完全に捕捉してくれた。
 だが、現場での私の僅かな遅れが原因で、あと一歩というところで取り逃がした。
奴は、そのまま姿を消した。

 あの時の苦い記憶は、今でも胸に残っている。
 私たちは、決して万能のヒーローではない。
 泥にまみれ、失敗し、それでも足掻き続ける。
 互いが互いの、共犯者のようなものだった。

 だが。

 今日のカラスは、どこか違った。
 モニターへ向かう背中が、いつもより重く沈んでいる。
 声からも、普段の飄々とした調子が完全に消えていた。

「情報が早いな」

 私は濡れたコートを脱ぎながら、カラスの背後へ立った。

「なら、私が何を探しに来たかも分かるだろう」
「……だいたいはな」
「例のアンケートサイトだ」
 私は言った。
「あれのサーバーの所在地と管理者を特定してくれ。本日の正午までに、あのふざけた公開処刑を止めなければならない」

 カラスの指が止まった。
 さっきまで猛烈な速度でキーボードを叩いていた手が、ぴたりと動かなくなる。
 やがて、ゆっくりと椅子を回転させ、こちらを見た。

 青白い顔でいつになく真剣な眼差し。
 そして、その奥には、何かひどく痛ましいものを見るような色が浮かんでいた。

「悪いが、それは無理な相談だ」
「お前の腕なら、どんな強固なファイアウォールだろうと突破できるだろう」
「そういう問題じゃないんだよ、真下」

 カラスは椅子を戻し、メインモニターを操作した。
 例のアンケートサイト。
 その裏側で動く膨大なコードや接続状況らしき情報が、青白い画面へ次々と表示されていく。

「あのサイトの構造そのものが、物理的に『止められない』ように作られている」
「どういう意味だ」
「あのサイトは、どこか一つの巨大なサーバーで動いているわけじゃない」

 カラスは画面の一部を拡大した。

「ブロックチェーンやP2Pの仕組みを極端に応用した、完全な分散型ネットワークだ。簡単に言えば、今この瞬間も、あのサイトへアクセスして投票している大量のスマートフォンやパソコンそのものが、ネットワークを維持する一部として働いている」
「……利用者の端末そのものが?」
「ああ」

 カラスは頷いた。

「だから、警察が一つのサーバーを押収したところで終わらない。回線を一つ止めても、別の経路へ繋がる。参加する端末が存在し続ける限り、簡単には消えない」

 私はモニターを見つめた。

「つまり……投票している連中自身が、あのサイトを支えているということか」
「そういうことだ」

 カラスの声が低くなった。
「今回の犯人は、紛れもない天才だよ」

 モニターには、増え続けるアクセス数と投票数。

「安全な場所から他人の死を楽しむ大衆の『殺意』そのものを、処刑システムを維持するための盾に変えている」

 私は言葉を失った。
 大衆の『嫉妬』。
 他人の死を望む感情。

 それが、比喩ではなく、システムを動かし続ける歯車として組み込まれている。
 人間心理まで計算した、底知れない悪意。

 背筋が粟立った。

「……だがな、真下」

 不意に、カラスがモニターから視線を外した。
 その声には、いつもの皮肉とは違う、生々しい感情が混じっていた。

「俺は、この狂ったシステムを作った奴の気持ちが……少しだけ分かる気がするんだ」
「……何だと?」

 カラスは私を見た。

「安全な特等席でふんぞり返って、弱者から搾取して甘い汁を吸い続ける連中」
 暗く沈んだ目。
「警察も法律も、そいつらを裁かない」
「……」
「なら、自分たちの手で、その席ごと吹き飛ばしてやりたい」
 カラスは静かに続けた。

「そう願うことまで、本当にただの『悪』なのか?」
「カラス……」
「あんたも、本当は分かってるはずだ」
 逃げ場のない視線が、私を射抜く。
「これまで刑事として散々見てきただろ。権力のある奴に踏み潰されて、泣き寝入りするしかなかった人間を」

 そして。

「自分自身だってそうだろ。あの無能な上司も含めてな」
 郷田。その名前を出さなくても、誰のことか分かった。
「自分に嘘はつけないぞ、真下」
「……」

「あの傲慢な連中が業火に焼かれる映像を見た時」
 僅かな間。
「胸の奥で、一瞬でも『スカッとした』自分はいなかったか?」

 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
 図星だった。
 否定したかった。
 だが、喉が、からからに乾き、声が出ない。

 弱者を無視した男が吹き飛んだ時。
 汚職にまみれた社長が消えた時。

 そして何より、郷田が顔面を蒼白にし、犯人によって絶望へ叩き落とされた時。
 私の胸の奥で、ほんの僅か確かに、どす黒いカタルシスが生まれていた。
 私はそれを「警察官としての理性」で必死に押さえ込んでいるだけなのではないか。

 大衆の狂気を孕んだ、この処刑サイト。
 私は本当に、自分だけは正しいと信じ。
(絶対に間違っている)
 そう迷いなく言い切れるのだろうか。

 部屋では、排熱ファンの低い音だけが鳴り続けていた。
 まるで、答えられない私を嘲笑っているように。

「……俺は刑事だ」
 ようやく、声を絞り出した。
 自分でも驚くほど、ひび割れていた。
「どんな理由があろうと、他人の命を天秤にかけるテロリズムを肯定はしない」

 カラスはしばらく私を見つめた。
 やがて、ふっと、哀しげに目を伏せる。

「……そうだな」
 小さく笑った。
「あんたは、そういう奴だ」

 そして。

「だからこそ……」
 そこで言葉を止めた。
「……?」

 カラスは何も続けなかった。
 一度だけ深く息を吐き、何かを振り切るように再びキーボードへ指を走らせる。

「完全に手掛かりがないわけじゃない」
 東京の広域マップがモニターへ表示された。

「サイトの構造自体は分散型で簡単には潰せない。だが、最終的な『開票結果』を受け取り、現実世界側のシステムへ情報を渡すための最終的な中継地点が存在する可能性が高い」

 マップの一部が赤く拡大された。

「俺は、異常な通信の流れから、その物理的な送信地点らしき場所を絞り込んでみた」

 そこは、都心から少し離れた臨海副都心エリア。
 江東区の広大な埋め立て地の一角。
 そこに、旧時代の遺物のような建造物がぽつんと表示されていた。

「……廃プラントか」
「ああ」
 カラスが頷いた。

「十年前に倒産した企業が使っていた巨大な地下排水施設だ。人目につかず、大型の設備を隠すには都合がいい」

 私は地図を頭へ叩き込んだ。

「恩に着る、カラス」
「……」
「また救われたな」

 先ほど痛いところを突かれた動揺を悟られないよう、短く礼を言って背を向けた。
 そのまま足早に防音扉へ向かう。

 だが。

「おい、真下」

 背中へ声が飛んだ。
 私は立ち止まり振り返る。
 カラスの瞳には、明確な焦燥が浮かんでいた。
 そしてどこか祈るような光。

「……行くのは勝手だが、気をつけろよ」
「何をだ」
「今回の犯人」

 カラスは言った。
「システムを組む能力より、『人間の心理を操る能力』の方が何倍も恐ろしい」
「……」
「あんたがそこへ行くことすら」

 僅かな間。

「奴の計算の内かもしれないぞ」
「……分かっている」
 私はそれだけ答え、防音扉を閉めた。

 雨の降りしきる地上へ戻る。
(奴の計算の内かもしれない、か)
 カラスの不器用な忠告が、胸の奥で重く響いていた。

 だが。

 私にはもう、たとえ罠だと分かっていても、その中へ自分から踏み込む以外の選択肢など残されていなかった。

 時計の針は、午前四時を回っていた。
 タイムリミットの正午まで、残り八時間。