その向こうから、さらに濃い黒煙が流れ込んでくる。
『……上の階だ』
男は青白い顔で私を振り返り、煙の中で薄く笑った。
『若い刑事が一人、時限爆弾の横で縛られて転がされてる。時間はほとんど残ってない』
「お前……何者だ」
『今は、そんなことどうでもいいだろ』
「犯人の仲間じゃないのか」
男は私を見た。
『だったら、わざわざ爆弾を止めに来ると思うか?』
返す言葉がなかった。
後で知ったことだが、男はネット上で爆破計画の兆候を察知し、独自に犯人を追ってこの場所へ辿り着いていたらしい。そして爆発を阻止するだけではなく、犯人がサーバーに蓄積していた、脅迫や搾取に使われる弱者たちの個人情報まで消そうとしていた。
警察でもない。
正規の捜査権限もない。
むしろ、やっていることだけを見れば立派な犯罪だった。
それでも、その時この男が救おうとしていたのは、自分の利益とは何の関係もない人間たちだった。
『なぜ、警察の命令に背いてまで来た?』
今度は男の方から尋ねてきた。
『上層部は、その刑事を見捨てることを選んだはずだ』
「俺の勝手だ! つうか、なんで知っている?」
私は油断なく銃口を向けたまま言い放った。
『警察の暗号無線を傍受しているからだ。仲間を思う気持ちは立派だが、それで死んだらどうする?』
「知らねえよ」
『命令違反でクビを切られてもか?』
「目の前で助けられる人間を置いて逃げるよりはマシだ」
男が僅かに目を細め、その口元に微かな笑みが浮かんだように見えた。
私は男へ向けた拳銃の引き金に指を掛けたまま、拘束するべきかひどく迷っていた。
不法侵入。
不正アクセス。
データの無断消去。
どれも警察官である私が見過ごしていい行為ではない。
正義とは、法を守ることなのか。
それとも、法を破ってでも、理不尽に踏みにじられる人間を守ることなのか。
目の前の男がやっていることを『正しい』と認めてしまえば、刑事である自分自身の足元まで根底から揺らいでしまう。
だが、現実には、警察組織は一人の若い刑事を『犠牲にしても仕方がない』と判断し、安全な場所から見捨てる命令を出した。
一方で、法律を破っている目の前の男は、自分とは何の関係もない弱い人間たちのデータを消し、日下部へ続く道まで開けようとしている。
どちらが正義なのか。
その答えが、分からなくなった。
私は男へ向けた拳銃を下ろせないまま、絞り出すように問いかけた。
「……お前は、自分が正しいと思ってるのか」
男は、すぐには答えなかった。
煙が流れ込み始めた通路の中で、私に向けられた拳銃の銃口を静かに見つめる。
『正しいかどうかなんて、知らないよ』
そして、男は逃げることなく私の目を真っ直ぐに射抜いた。
『でもな』
声が一段低く、凄みを帯びた。
『――正しく生きている弱者を救わないで、何が正義だ』
胸の奥を、鋭い刃で貫かれたような感覚がした。
法を守っているはずの警察が、人を見捨てる。
法を破っている男が、人を救おうとしている。
その残酷な矛盾を前に、私は何も言い返せなかった。
男は私から視線を外し、煙の向こうに開いた通路へ顎をしゃくった。
『急げよ。若い刑事を助けたいんだろ』
私はもう一度、男の顔を見た。
そして、ゆっくりと拳銃を下ろした。
「……俺は今日、ここには来なかった」
男は一瞬だけ目を見開いた。
それから、僅かに笑った。
「お前が誰かも知らないし、調べもしない」
私からのその言葉を聞くと、男は静かに頷いた。
私は男を「名もなき存在」として見逃した。
そして炎の中へ飛び込み、日下部を救い出した。
だが。
皮肉なことに、結果はどうだったか。
私は猛煙を吸い込みながら日下部を引きずり出し、自分自身も病院で生死の境を彷徨った。
その間。
無傷で安全圏へ逃げていた郷田は、
「自分が犯人を命懸けで確保し、事件を完全に収拾した」
そう上層部へ報告した。
手柄はすべて郷田のものになった。
そして、命令違反を犯した私の存在を表沙汰にしない代わりに、郷田は自分の保身と嘘で塗り固めた功績を手に、本庁へ戻っていった。
私は深い絶望と共に、昇任試験を完全に放棄した。
一生、「平刑事」として泥にまみれて生きる。
そう決めたのだ。
だが、カラスとの縁はそこで終わらなかった。
それからしばらくして。
私は爆破事件の残党を追う中で罠に嵌まり、深夜の廃工場で武装した男たちに完全に囲まれた。
激しい暴行を受け、血だるまになり、額へ冷たい銃口を押しつけられた。
ついに死を覚悟した。その瞬間だった。
工場中の照明が、破裂するように一斉に消えた。
電子シャッターが狂ったように次々と閉まり、耳をつんざく警報音が建物全体に鳴り響く。
武装した男たちが、突然訪れた暗闇と混乱に狼狽した。
その隙だった。
影の中から現れた何者かが私の腕を強く掴み、安全な死角へ引きずり込んだ。
荒い呼吸を繰り返す私の前にしゃがみ込んだのは、あの日、私が見逃したあの天才ハッカーだった。
遠隔操作で工場のシステムを乗っ取り、私の命を救い出したのだ。
カラスは暗闇の中で薄く笑うと、血まみれの私へ静かに頭を下げた。
『郡司正信(ぐんじ・まさのぶ)です』
そして。
『……以前の借りを、返しに来ました』
偽名だということは、すぐに分かった。
だが、それでよかった。
あの日、「名もなき存在」として私に逃がされた男が、今度は一人の男として自ら名を名乗り、命懸けで礼を尽くそうとしている。
それは彼なりのひどく不器用で、真摯な誠意だった。
この血にまみれた命のやり取りを経て、警察組織から孤立した平刑事と、法の外側を歩くハッカーは、いつしかどんな同僚よりも強固な「相棒」となった。
以来、カラスは裏社会のネットワークと神懸かり的な技術を駆使し、表の警察システムでは決して届かない情報の糸を手繰り寄せ、私が抱える幾つもの難事件の解決に力を貸してくれた。
『……上の階だ』
男は青白い顔で私を振り返り、煙の中で薄く笑った。
『若い刑事が一人、時限爆弾の横で縛られて転がされてる。時間はほとんど残ってない』
「お前……何者だ」
『今は、そんなことどうでもいいだろ』
「犯人の仲間じゃないのか」
男は私を見た。
『だったら、わざわざ爆弾を止めに来ると思うか?』
返す言葉がなかった。
後で知ったことだが、男はネット上で爆破計画の兆候を察知し、独自に犯人を追ってこの場所へ辿り着いていたらしい。そして爆発を阻止するだけではなく、犯人がサーバーに蓄積していた、脅迫や搾取に使われる弱者たちの個人情報まで消そうとしていた。
警察でもない。
正規の捜査権限もない。
むしろ、やっていることだけを見れば立派な犯罪だった。
それでも、その時この男が救おうとしていたのは、自分の利益とは何の関係もない人間たちだった。
『なぜ、警察の命令に背いてまで来た?』
今度は男の方から尋ねてきた。
『上層部は、その刑事を見捨てることを選んだはずだ』
「俺の勝手だ! つうか、なんで知っている?」
私は油断なく銃口を向けたまま言い放った。
『警察の暗号無線を傍受しているからだ。仲間を思う気持ちは立派だが、それで死んだらどうする?』
「知らねえよ」
『命令違反でクビを切られてもか?』
「目の前で助けられる人間を置いて逃げるよりはマシだ」
男が僅かに目を細め、その口元に微かな笑みが浮かんだように見えた。
私は男へ向けた拳銃の引き金に指を掛けたまま、拘束するべきかひどく迷っていた。
不法侵入。
不正アクセス。
データの無断消去。
どれも警察官である私が見過ごしていい行為ではない。
正義とは、法を守ることなのか。
それとも、法を破ってでも、理不尽に踏みにじられる人間を守ることなのか。
目の前の男がやっていることを『正しい』と認めてしまえば、刑事である自分自身の足元まで根底から揺らいでしまう。
だが、現実には、警察組織は一人の若い刑事を『犠牲にしても仕方がない』と判断し、安全な場所から見捨てる命令を出した。
一方で、法律を破っている目の前の男は、自分とは何の関係もない弱い人間たちのデータを消し、日下部へ続く道まで開けようとしている。
どちらが正義なのか。
その答えが、分からなくなった。
私は男へ向けた拳銃を下ろせないまま、絞り出すように問いかけた。
「……お前は、自分が正しいと思ってるのか」
男は、すぐには答えなかった。
煙が流れ込み始めた通路の中で、私に向けられた拳銃の銃口を静かに見つめる。
『正しいかどうかなんて、知らないよ』
そして、男は逃げることなく私の目を真っ直ぐに射抜いた。
『でもな』
声が一段低く、凄みを帯びた。
『――正しく生きている弱者を救わないで、何が正義だ』
胸の奥を、鋭い刃で貫かれたような感覚がした。
法を守っているはずの警察が、人を見捨てる。
法を破っている男が、人を救おうとしている。
その残酷な矛盾を前に、私は何も言い返せなかった。
男は私から視線を外し、煙の向こうに開いた通路へ顎をしゃくった。
『急げよ。若い刑事を助けたいんだろ』
私はもう一度、男の顔を見た。
そして、ゆっくりと拳銃を下ろした。
「……俺は今日、ここには来なかった」
男は一瞬だけ目を見開いた。
それから、僅かに笑った。
「お前が誰かも知らないし、調べもしない」
私からのその言葉を聞くと、男は静かに頷いた。
私は男を「名もなき存在」として見逃した。
そして炎の中へ飛び込み、日下部を救い出した。
だが。
皮肉なことに、結果はどうだったか。
私は猛煙を吸い込みながら日下部を引きずり出し、自分自身も病院で生死の境を彷徨った。
その間。
無傷で安全圏へ逃げていた郷田は、
「自分が犯人を命懸けで確保し、事件を完全に収拾した」
そう上層部へ報告した。
手柄はすべて郷田のものになった。
そして、命令違反を犯した私の存在を表沙汰にしない代わりに、郷田は自分の保身と嘘で塗り固めた功績を手に、本庁へ戻っていった。
私は深い絶望と共に、昇任試験を完全に放棄した。
一生、「平刑事」として泥にまみれて生きる。
そう決めたのだ。
だが、カラスとの縁はそこで終わらなかった。
それからしばらくして。
私は爆破事件の残党を追う中で罠に嵌まり、深夜の廃工場で武装した男たちに完全に囲まれた。
激しい暴行を受け、血だるまになり、額へ冷たい銃口を押しつけられた。
ついに死を覚悟した。その瞬間だった。
工場中の照明が、破裂するように一斉に消えた。
電子シャッターが狂ったように次々と閉まり、耳をつんざく警報音が建物全体に鳴り響く。
武装した男たちが、突然訪れた暗闇と混乱に狼狽した。
その隙だった。
影の中から現れた何者かが私の腕を強く掴み、安全な死角へ引きずり込んだ。
荒い呼吸を繰り返す私の前にしゃがみ込んだのは、あの日、私が見逃したあの天才ハッカーだった。
遠隔操作で工場のシステムを乗っ取り、私の命を救い出したのだ。
カラスは暗闇の中で薄く笑うと、血まみれの私へ静かに頭を下げた。
『郡司正信(ぐんじ・まさのぶ)です』
そして。
『……以前の借りを、返しに来ました』
偽名だということは、すぐに分かった。
だが、それでよかった。
あの日、「名もなき存在」として私に逃がされた男が、今度は一人の男として自ら名を名乗り、命懸けで礼を尽くそうとしている。
それは彼なりのひどく不器用で、真摯な誠意だった。
この血にまみれた命のやり取りを経て、警察組織から孤立した平刑事と、法の外側を歩くハッカーは、いつしかどんな同僚よりも強固な「相棒」となった。
以来、カラスは裏社会のネットワークと神懸かり的な技術を駆使し、表の警察システムでは決して届かない情報の糸を手繰り寄せ、私が抱える幾つもの難事件の解決に力を貸してくれた。
