椅子に座りますか

 ――三年前。

 私と、当時の相棒だった郷田は、連続爆破事件の犯人を追い詰め、とある雑居ビルでついに身柄を確保した。

 だが、犯人を捕らえた時には、すでに事態は最悪の方向へ転がり始めていた。
 犯人は逮捕される直前、ビル内の複数箇所に仕掛けていた時限爆弾を起動させていたのだ。下層階ではすでに二度の爆発が起き、建物全体が黒煙と炎に包まれている。コンクリートの壁には亀裂が走り、天井から細かな破片が絶え間なく落ち続け、いつ建物そのものが崩れ落ちてもおかしくない状態だった。

 しかも上の階には、犯人を単独で追って返り討ちに遭い、縛り上げられた私の後輩刑事――日下部が取り残されていた。

『現場は極めて危険だ。これ以上の犠牲は出せない。日下部は……見捨てろ。直ちに全員退避せよ』

 無線の向こうから、安全な本庁にいる上層部の声が響いた。
 迷いなど感じられない、冷酷な決定だった。

『命令だ、真下』

 隣にいた郷田も、私へ強い口調で言った。

『俺たちは犯人を確保したんだ。任務は終わっている。これ以上の深追いは犬死にだぞ』

 郷田はそれだけ言うと、最大の手柄となる犯人の身柄を連れ、安全圏へ向かって早々に踵を返した。

 だが、私には日下部を置いていくことができなかった。
 確かに上層部の判断は、組織として見れば正しいのかもしれない。

 崩壊寸前の建物へ一人の刑事を救うために別の刑事を送り込み、さらに死者を増やす必要はない。犯人はすでに確保している以上、警察組織が優先すべきなのは、これ以上の人的被害を出さないことだ。

 頭では分かっていた。

 それでも、日下部がまだあの中で生きていると分かっていながら、自分だけ外へ逃げることはできなかった。

 その時、なぜか遠い記憶の底から、一つの言葉が鮮明に蘇った。
『救える命を救わないなんて、おかしいでしょ!』

 いつ、誰に言われた言葉だったのかを考える余裕などなかった。ただ、その声だけが妙にはっきりと胸の奥に響き、私の足を建物の外ではなく、炎の中へ向かわせた。

 私は命令に背き、単身、黒煙と炎が渦巻くビルの中へ戻った。

 熱気で皮膚が焼けるようだった。崩れ落ちる瓦礫を避けながら階段を駆け上がり、煙で数メートル先すら見えない通路を手探りで進んでいく。

 その途中だった。

 電子ロックによって閉ざされた防火扉の前に、人影があった。
 一人の男が配電盤のカバーを外し、携帯端末をケーブルで接続しながら、猛烈な速度でキーボードを叩いていた。

「動くな!」

 私は煤で黒く汚れた拳銃を抜き、男の背中へ向けた。

 犯人の共犯者。
 瞬間的にそう判断した。

 しかし男は振り返らなかった。それどころか、私から拳銃を向けられているにもかかわらず、キーボードを叩く手さえ止めようとしない。

『撃ちたきゃ撃てばいい』

 男は画面を見つめたまま、淡々と言った。
『ただし俺が死ねば、この先の防火シャッターは永遠に開かない。そうなれば、上にいる刑事も助からないぞ』

「何をしてる」

『見れば分かるだろ。ロックを外してる』

「それだけじゃない。何を消してる?」

 私は男の端末の画面に気づいていた。

 そこには防火システムの制御画面とは別に、大量のファイルが高速で削除されていく表示が並んでいた。

 名前。
 住所。
 勤務先。
 借金。
 家族構成。
 病歴。

 中には顔写真や通院記録のようなものまであった。

「……個人情報?」

 男の手が、一瞬だけ止まった。

『このビルのサーバーに入っていたデータだ』
「何のデータだ」
『弱い人間を食い物にするための名簿だよ』

 男は再びキーボードを叩き始めた。

『借金で追い詰められている人間、家庭内暴力から逃げている人間、生活に困っている人間、家族に知られたくない事情を抱えている人間……。そういう連中の個人情報を集めて、弱みとして使えるように整理してあった』

 私は拳銃を向けたまま、画面へ目を凝らした。
 ファイル名が次々と消えていく。

『犯人は、このデータを使って人間を脅していた。金を払わせたり、言うことを聞かせたり、犯罪の手伝いをさせたりな。ここが燃えてサーバーが壊れたとしても、外へバックアップが飛ぶ仕組みになってる。だから今、全部消してる』

「お前……ハッキングしてるのか」
『そうだよ』
 あまりにもあっさり認めたので、逆に言葉を失った。

「不正アクセスだぞ」
『知ってる』
「他人のデータを勝手に消せば犯罪だ」
『それも知ってる』

 男はまるで興味がないように答えた。

 私の中で、強い違和感が生まれた。
 目の前の男は明らかに犯罪を犯している。

 不法侵入をし、警察でもないのに現場へ入り込み、システムへ不正にアクセスし、保存されているデータを勝手に削除している。

 刑事である私なら、本来その場で身柄を拘束しなければならない相手だった。
 しかし、男が消しているのは、自分の利益のための証拠ではなかった。
 名前も顔も知らない、社会の底で誰にも助けを求められずにいる人間たちが、これ以上脅されないためのデータだった。

「なぜ、そこまでする」
 私が尋ねると、男は初めて僅かにこちらへ顔を向けた。
『一度流れたら終わるからだ』
「……」
『金は取り返せるかもしれない。家も仕事も、失ったあとでやり直せる人間はいる。でも、人に知られたくない過去や弱みをネットへばら撒かれたら、一生消えないことだってある』

 画面上で、最後のバックアップファイルが削除された。

『こいつらは、自分たちが強いから弱い人間を踏みつけてるんじゃない。弱い人間が反撃できないと知ってるからやってるんだ』

 男が最後のキーを叩いた。
 ガコン、と重い機械音が響く。

 私たちの行く手を塞いでいた防火扉が、ゆっくりと開き始めた。