椅子に座りますか

 私はアパートを飛び出し、深夜の東京へ車を走らせた。

 街のネオンが雨に滲み、まるで無数の黄色い降車ボタンの灯火のように、不気味に瞬いている。

 深夜の東京は、雨に濡れて黒く光っていた。

 私は愛車である旧型のセダンのアクセルを踏み込み、人気のない首都高速を滑るように走った。ワイパーが一定のリズムでフロントガラスの雨粒を弾き飛ばす。その単調な音だけが、車内を満たす重苦しい静寂をいっそう際立たせていた。

 特捜本部のデスクには、私の身分を証明する警察手帳と、愛用していたバッジを置いてきた。

 理不尽な謹慎処分を受け、警察という巨大な組織から弾き出された今の私は、いかなるバックアップも受けられない。

 ただの、孤独な猟犬だ。
 それでも、不思議と恐怖や迷いはなかった。
 あるのは、冷たく研ぎ澄まされた思考と、警察官としての執念だけだ。

 実父を失って孤児となった私を引き取り、今も現役で現場に立ち続ける義父――真下修造。

 私はあの人の背中を見て育った。

 郷田のような傲慢な人間が牛耳る組織の理不尽に何度打ちのめされても、いつか父に、
「一人前のデカになった」
 そう胸を張って報告するために、今日まで泥をすすりながら積み重ねてきた。
 その誇りさえ失わなければ、この暗闇も怖くはない。

(待っていろ。お前のそのふざけた選挙ゲーム、俺が必ず終わらせてやる)

 私はアクセルをさらに踏み込み、雨を切り裂くように黒いアスファルトの上を疾走した。

(七つの大罪……)

 ハンドルを握りながら、犯人が作り上げた狂気の論理を頭の中でもう一度整理する。

 最初の電車で標的となった者たち。

 目の前にいる妊婦の苦痛を無視してゲームに興じていた男も、些細なことで周囲を威圧していた者たちも、皆が一様に、自分だけの「特等席」にふんぞり返っていた。

 犯人は、彼らを『傲慢(プライド)』の大罪として裁いたはずだ。

 そして昨日の夕方。

 豪華なシャンデリアの下で黒焦げになった天楽建設の社長は、他者の血肉を啜るようにして富を独占した『強欲(グリード)』。

 つまり、犯人は無差別に爆弾をばら撒いているわけではない。

 社会のルールの網目をすり抜け、誰にも裁かれないまま「特等席」でふんぞり返っている大罪人たちを、自分だけの美学と基準で裁いている。

 そして今、ネット上に公開された特設サイトでは、次なる生贄を選ぶ「死のアンケート」が進行している。

 大衆の血税を貪る二世議員――『暴食(グラトニー)』。
 立場の弱い女性を食い物にする権力者――『色欲(ラスト)』。
 弱者を絶望の底へ見捨てる悪徳な事なかれ主義者――『怠惰(スロース)』。
 そして、己の保身と出世のために真実を隠蔽した郷田管理官は、再び『傲慢(プライド)』の生贄として名を連ねている。

 だが、何よりおぞましいのは、そのアンケートそのものだった。

 安全な場所から他人の死へ票を投じ、結果を娯楽として待ち望む数十万人の大衆。

 犯人は彼ら自身に、持たざる者の『嫉妬(エンヴィー)』という巨大な罪を体現させている。

「……完璧な盤面だ」

 私は窓の外を流れていくネオンの光を睨みつけた。
「奴は、この国全体を巨大な劇場に仕立て上げた」

 犯人は、自分の手を汚す危険を極限まで減らしている。
 爆弾の設置は闇バイトで集めた素人たちにやらせ、標的を選ぶことさえ、大衆の「民意」に委ねる。

 だが、どれほど巧妙にシステム化されていようと、現実世界で人を殺す以上、物理的な仕組みは必ず存在する。

 そして、特設サイトが稼働し続けている以上、どこかに情報の「起点」があるはずだ。

 私は首都高速を降り、秋葉原の裏路地へ車を滑り込ませた。
 警察のシステムを使えない今。
 頼れるのは、「表の社会」から外れた人間の力だけだった。

 雑居ビルの地下二階。

 分厚い防音扉を押し開けた瞬間、目に刺さるような青白いモニターの光が飛び込んできた。

 排熱ファンの低い唸り。
 エナジードリンクの甘ったるい匂い。
 壁一面を這う無数のケーブル。
 絶えず明滅するサーバーラック。

 むっとする機械の熱気に満ちた部屋の中央で、一人の男が複数のキーボードを猛烈な速度で叩いていた。

「……こんな時間に客とは珍しいな、真下」
 男は振り返りもせずに言った。
「いや。今は『謹慎中のただの一般人』と呼ぶべきか?」

 通称――『カラス』。
 本名すら知らない、裏社会の天才ハッカーだ。
 だが、私と彼の間には、警察手帳よりも重い、血と泥にまみれた縁があった。