椅子に座りますか

 全身の血液が一瞬で沸騰したかと思えば、次の瞬間には氷水を浴びせられたように冷え切った。

 ホテルの焼け跡で見つけた降車ボタンから聞こえてきた、あの機械音声と同じだった。理知的で冷静でありながら、底にあるものはひどく冷酷だった。

 奴は今、私のスマートフォンを完全に乗っ取っている。

「……貴様」

 私は乾いた唇を舐め、怒りを押し殺すようにスマートフォンへ向かって声を絞り出した。

「一体、何が目的なんだ。警察の失態を晒し上げて、大衆にはお前が作った一方的な罪状だけを見せて煽って……貴様は、自分を神にでもなったつもりか!」

 数秒の沈黙が流れた。

 やがて、犯人は驚くほど穏やかな声で答えた。

『神じゃない。僕は、ただの掃除夫さ』

「……」

『君の上司は、自らの保身のために本部長をたぶらかし、真実を隠蔽した』

 スマートフォンの画面に、あの巨大なバスの降車ボタンが浮かび上がった。中央のオレンジ色のランプが、呼吸でもしているかのようにゆっくりと明滅している。

『紛れもない――「傲慢」だ』

 私は何も答えれなかった。

『そして世間は、安全な匿名空間から警察の無能さを嘲笑い、他人の罪を娯楽のスペックとして消費している』

 そこで犯人は一拍置いた。

『僕はね、刑事さん。そんな罪人たちがひしめく、この国そのものが、巨大なバスの優先席だと思っているんだよ』

「だからといって!」
 私は堪えきれず声を荒らげた。
「大衆に次の標的をアンケートで選ばせるなんて、ただの卑劣な殺人ゲームじゃないか!」

 犯人は、ふっと笑った。

 それはどこか哀しげでありながら、同時に心の底から私たちを軽蔑しているようにも聞こえた。

『ゲーム? 違うな』

 静かな声だった。

『これは、この国で最も公平で民主的な【選挙】だよ、刑事さん』

「選挙……だと?」

『そうさ。本来、選挙というのは、国や地域を少しでも良くするために、自分たちの未来を誰かに託し、清き一票を投じるものだろう?』

 私は答えず、スマートフォンを握り締めた。

『だが、画面を見てごらんよ』

 言われるまま、私はパソコンのモニターへ視線を移した。
 そこでは、投票数もコメントも一瞬たりとも止まっていなかった。

『現実の選挙には見向きもしないような連中が、ここでは目を血走らせて、狂ったように投票ボタンを押している』

 私は絶え間なく流れる書き込みを見つめた。

『彼らは「社会を良くするため」に選んでいるんじゃない。自分より恵まれた人間や、特等席でふんぞり返っている人間が、無様に泣き叫びながら血を流し、死ぬところを見たいだけなんだ』

 無意識に、私は息を止めていた。

『他人の命を消費する極上のエンターテインメントで、自分の惨めな人生の鬱憤を晴らそうとしている。……実に醜悪だと思わないかい?』

「……貴様」

『だから、これはゲームなんかじゃない』

 スマートフォンの画面に映る降車ボタンが、ゆっくりと点滅を続けている。

『紛れもない――【鏡】なんだよ』

「……鏡?」

『そう。顔の見えない安全な匿名空間という「特等席」に座り、他人が爆発する瞬間を楽しみにしながら、死刑のボタンを押している無自覚で愚かな群衆。その姿を、そのまま彼ら自身へ見せているだけさ』

 私はモニターを見つめた。
 投票は止まらない。
 犯人の声が、さらに低くなった。

『彼らが今、何の大罪に溺れているか……分かるかい?』

 画面には、成功者や金持ち、権力者、政治家、警察官といった、自分より恵まれていると見なされた人間たちへの悪意が溢れていた。

 妬み。
 憎しみ。
 引きずり下ろしたいという欲望。
 私は、その答えに気づいた。

『そう』

 犯人が、囁くように言った。

『彼らは今、自分より上の席に座っている者への――【嫉妬(エンヴィー)】で完全に狂っているんだ』

 背中を冷たいものが這い上がった。

『正義の執行者を気取って他者を罰しているつもりで、実際には彼ら自身が最大の罪を犯し、醜い罪人へ成り下がっている』

 画面では、『死ね』『殺せ』『爆破しろ』という言葉が、笑い声を表す文字と共に次々と流れていく。

『……この国はもう、救いようのない終点(ラスト・ストップ)なんだよ』

 背筋へ冷たい刃物を突き立てられたような悪寒が走った。
 だが、犯人はまだ話を終えていなかった。

『投票の締め切りは、本日の正午だ』

「……!」

 私は反射的に画面右上の時刻を確認した。

『もちろん、公平を期すために投票は一人一回までだ。IPアドレスと端末情報で厳密に弾かせてもらう。組織票も、同じ人間による連打も通用しない』

 犯人が、微かに笑った。

『純粋な民意の数だよ』

「ふざけるな……!」

『傲慢な警察の上司が選ばれるか、それとも実績を偽造した暴食の二世議員が選ばれるか』

 私はモニターへ視線を戻した。

 犯人の声が、まるで耳元へ近づいてきたように感じられた。

『それとも、君が僕の元へ辿り着き、この狂ったバスを急停車させるか』

 一瞬の静寂が流れた。

『特等席を用意して、楽しみにしているよ』

 その言葉を最後に通信は途切れ、スマートフォンの画面が何事もなかったかのように元へ戻った。

 同時に、パソコンのモニターに映る死のアンケートでは、票数がなおも猛烈な勢いで増え続けていた。

 私は食い入るように数字を見つめた。

『傲慢』――警視庁特捜本部の現場指揮官。
 その投票数が、ついに『暴食』として提示された二世議員を追い抜いた。

「……郷田……」
 胸の奥から、低い声が漏れた。

 投票している大衆の多くは、郷田という人間のことなどほとんど知らない。顔も、経歴も、これまで何をしてきた人間なのかも知らず、ただ一本の動画と、犯人が提示した数行の罪状だけを見て、一人の警察官の死を望んでいる。

 それを、最高のエンターテインメントとして楽しみながら投票しているのだ。
 締め切りは、本日の正午。

 それまでに、犯人の正体と居場所へ辿り着かなければならない。

 このまま何もできなければ、大衆の『嫉妬』によって次の死刑判決が下され、選ばれた人間がまた『特等席』へ座らされる。そして、何も知らない群衆が画面の向こうで歓声を上げる中、その命が爆炎に呑み込まれることになる。

 私はモニターに増え続ける数字を睨みながら、拳を強く握り締めた。