椅子に座りますか


*  *  *
 
 深夜。

 自室へ戻った私は、パソコンのモニターを開いた瞬間、息を呑んだ。

 警察は予定通り、グランドホテル東京の事件を「犯行声明のない無差別テロ」と発表し、事態の収拾を図っていた。

 だが、ネット上では、その公式発表など完全に意味を失っていた。
 何者かによって動画共有サイトへ放流された、一本の『告発動画』。

 それが、警察の作り上げたシナリオを根底から破壊していた。

 動画の冒頭に映し出されるのは、特捜本部のプロジェクターがジャックされた際の「暗号の読み上げ映像」だった。

 警察内部でしか見ることのできないはずの映像。
 それが、何の加工もなく流れている。
 続いて画面に映ったのは、西口バスターミナルだった。
 バスの座席下から、見当違いの『偽爆弾』を発見し、安堵の表情を浮かべる警察官たち。

 爆発物処理班。
 機動隊。
 その周囲を慌ただしく走り回る捜査員。

 あの時、現場にいた私には分かる。
 誰もが本気だった。
 誰も遊んでいたわけではない。

 だが。

 動画は、そう見えるようには編集されていなかった。
 むしろ。
 警察全体が、犯人の仕掛けた罠へ嬉々として飛び込んだように見える構成になっている。

 そして画面が切り替わった。
 グランドホテル東京の大宴会場。
 琥珀色の巨大なシャンデリアに政財界の招待客、その最前列。
 特等席――主賓席にふんぞり返る天楽建設の社長。
 脂ぎった顔で満足げな笑み。

 まるで、自分こそがこの会場の中心であり、この国の中心であるとでも言いたげな表情だった。

 やがて社長は、優雅な仕草で「着席の合図」のボタンへ手を伸ばす。
 指先が触れて押す。
 その瞬間に爆音と炎。
 特等席だけが、一瞬にして業火に包まれた。
 その残酷な映像に重ねられていたのは、ベートーヴェンの『歓喜の歌』だった。

 荘厳な旋律。
 警察がバスの下へ潜り込んでいる映像。
 ホテルで笑う社長。
 偽爆弾を前に安堵する警察官。
 そして炎。
 すべてが、まるで計算された喜劇のように編集されている。

 警察の威信と、保身のために作られた隠蔽工作。
 その両方を、犯人は映像一本で完全に公開処刑してみせた。

 動画は瞬く間に拡散された。
 SNS。
 匿名掲示板。
 動画サイト。
 チャット。
 あらゆる場所が、警察への侮蔑と犯人への異常な称賛で埋め尽くされていく。

 そして何より恐ろしかったのは、人間の死そのものが、もはや娯楽として消費されていることだった。

『うぇええええwww 警察マジで何やってんの!?
 ホテルで汚職社長が挽肉になってる時に、バス停でオモチャのタイマー見つけてドヤ顔してんじゃんww
 腹痛いwww 全員でコントやってんの?』

『天楽の社長、こんがり焼けてて草。
 公共事業の談合で何十億も懐に入れて、愛人にタワマン買い与えてた強欲豚だろ?
 マジで最高のざまぁww』

『動画のあの偉そうに怒鳴り散らしてる勘違いエリート野郎、全部犯人の手のひらの上だったのを隠蔽してたのかよ!
 無能のくせにプライドだけは高いとか、一番タチ悪い奴じゃん』

『会議室の偉そうなキャリア組の名前特定したわ。
 本庁の【郷田】って奴らしい。
 こいつも若いくせに特等席に座ってるだけの無能だから、犯人様、ついでにこいつも爆破しちゃってくださいww』

 私はスクロールを続けた。
 その中に、一つ。
 妙に具体的な書き込みが混じっていた。

『十五年前の裏金事件で、トカゲの尻尾にされて自殺した工事部長の息子に、「立派な父親を持ったな」って薄笑い浮かべて茶封筒の束を投げつけたこと、地獄の底で後悔しろ』

 指が止まった。

「……十五年前?」

 裏金事件で自殺した工事部長。
 その息子にしかも茶封筒発言。
 ニュース記事の切り貼りだけで書ける内容には見えなかった。

 だが、コメントは猛烈な速度で流れ続けている。
 その書き込みも、すぐに無数の悪意の中へ埋もれていった。

『警察はもう引っ込んでろよ。
 あんな嘘つきの無能集団より、犯人様の方がよっぽど日本のダニを的確に駆除してくれてるわ。
 マジでダークヒーロー。
 次の掃除はどこのゴミですか?
 全力で応援します!』

 画面をスクロールするたび、吐き気が込み上げてくる。
 便乗しただけの浅薄な悪口。
 死者への嘲笑。
 警察への罵倒。
 そして、ニュースにも出ていないような、生々しい怨念。

 ありとあらゆる悪意が、巨大な濁流となって流れ続けている。

 高山本部長の了承まで得て作り上げたカモフラージュは、完全に崩壊していた。
 警察への信頼は、文字通り地に落ちた。
 きっと、特捜本部では、郷田が上層部から激しい叱責を受けることだろう。

 明日には、マスコミから電話が殺到し、ネットでは顔と名前を玩具のように扱われ。

 警察内部では、失態の責任を誰に押しつけるかという別の争いが始まっているだろう。

 だが、彼らが直面している地獄すら、次に起こる悪夢の前触れに過ぎなかった。
 
 深夜二時。

 突然とある特設サイトが、表のインターネット上に出現した。
 ダークウェブではない。

 特別な知識も、専用のソフトも必要ない。
 誰でもアクセスできる。
 誰でも見ることができる。
 漆黒の背景。
 画面中央に巨大な「バスの降車ボタン」のアイコン。
 そして、その上部に血のような赤い文字。

『次なる大罪人は誰だ?
 ――皆様の「民意」で決定します』

「……な、なんだこれは……」

 思わず、掠れた声が漏れた。
 降車ボタンの下には、四つの枠が並んでいる。
 顔写真はない、名前もない。
 あるのは、不気味な人物シルエットと、その人物が犯したとされる罪状。
 そして、無機質なテキストだけだった。

【一人目。罪名:『暴食(グラトニー)』】
 スペック:二世議員。親は国会議員。
 海外名門大学卒業の実績をアピールしているが、実際は通学実態のない実質的な経歴詐称。
 親の地盤を引き継いだだけの無能で、政策提言はすべてゴーストライター。
 親の政治資金を食い潰し、特権階級として高級グルメと夜の街での遊興に溺れ、民衆の血税を貪り食う豚。

【二人目。罪名:『色欲(ラスト)』】
 スペック:民衆の代弁者を気取り。
巧妙な弁舌と情報操作で世論を熱狂させる権力者。
 表向きは社会の悪を糾弾する「正義の顔」を持つ。
 だが、その裏では、救済を求めてすがりついてくる立場の弱い女性たちへ、
『私が君の悲痛な声を世の中に届けてやろう』
 と囁き、密室で肉体と尊厳を蹂躙し続けている。
 不都合な真実は自らの権限で握り潰し、他者の人生を切り貼りしながら、己の支配欲と情欲を満たす醜悪な捕食者。

【三人目。罪名:『傲慢(プライド)』】
 スペック:警視庁・特捜本部の現場指揮官。
 リーク動画にある通り、循環バスへの誤誘導を棚に上げ、己の保身のために事件を「無差別テロ」と虚偽発表。
 部下を怒鳴り散らし、自身のメンツと出世のためだけに真実を隠蔽した、権力にしがみつく無能な豚。
 私の視線が、そこで止まった。
 名前は書かれていない。
 だが、誰なのかは、考えるまでもなかった郷田だ。

 そして四人目。

【四人目。罪名:『怠惰(スロース)』】
 スペック:絶望の淵にある者へ「法的救済」をちらつかせて近づき、相手の足元を見て甘い汁を吸い尽くす究極の事なかれ主義者。
 いざ自分が動くべき局面になっても、厄介事には一切関わろうとせず徹底して逃げ回る。
 ただ己の労力と時間を省くためだけに、「現実を受け入れろ、波風を立てても無駄だ」と、尤もらしい理屈を並べて相手の気力を削ぎ落とし、一方的な泣き寝入りを強要する。
 他者の悲鳴を右から左へ受け流し、己の安楽のためなら平気で人を絶望の底へ見捨てる、魂の腐りきった寄生虫。