人の肉と肉が軋む音が聞こえる。
酸欠寸前のむせ返るような熱気。生乾きの服と汗が混じった匂い。そして、どこかから響く不機嫌そうな舌打ち。
午前七時四十五分。
新宿へ向かう埼京線の車内は、今日も変わらず「地獄」だった。
窓ガラスは乗客の顔や肩で押し潰され、何百人もの吐息が作る結露で白く濁っている。私――真下は吊り革に掴まることすらできず、見知らぬサラリーマンの背中と、分厚いコートを着た老人の間に挟まれたまま、車両の揺れに合わせて波のように身体を揺らすしかなかった。
足を踏まれても、肘が脇腹に食い込んでも、文句を言う余裕など誰にもない。誰もがスマートフォンの液晶画面か、何もない虚空だけを見つめ、心を無にして、この耐え難い苦痛が過ぎ去るのを待っている。
だが、この圧倒的な不平等の中で、たった一つだけ「特等席」が存在する。
椅子だ。
私の視線の先にある七人掛けのシート。そして、その横に設けられた優先席。そこには、この過酷な圧縮空間とは無縁であるかのように、選ばれた者たちが鎮座している。
優先席。
本来ならば、高齢者や身体の不自由な者、内部疾患を抱える人、妊婦、乳幼児を連れた乗客など、その席を本当に必要としている者が最優先で座るべき場所だ。
だが、その一角に陣取っているのは、お世辞にも身体が不自由とは思えない三十代半ばの男だった。
男は足を浅く組み、ワイヤレスイヤホンで両耳を塞ぎながら、スマートフォンで動画を見ている。時折、画面を眺めながらニヤリと口角を上げる。
その目の前には、膨らんだ腹を庇いながら苦しそうに顔を歪める妊婦が立っていた。少し離れた場所では、白髪の老人が震える腕で手すりにしがみついている。
それでも、男は一度も顔を上げなかった。
『俺は座れた。お前らは立って苦労しろ』
決して、男がそんな言葉を口にしたわけではない。だが、深く座席に身体を沈めたその勝ち誇ったような横顔には、ありありとそう書かれているように見えた。
満員電車という異常空間において、その傲慢さは何よりも醜く、私の神経を深く逆撫でした。
……かつて、私の父は、この狂気のような混雑の中で命を落とした。
助けを求めても、誰一人として手を差し伸べる余裕などなかった。
それなのに、こいつらは――。
ドスッ、と鈍い音がした。
揺れに耐えきれなくなった老人がよろめき、優先席に座る男の革靴を踏んでしまったのだ。
男は露骨に顔をしかめた。
「チッ」
あからさまな舌打ち。
謝ろうとする老人へ視線を向けることすらなく、男は汚された靴から何か不潔なものでも払い落とすように足を組み直し、さらに深く座席へ身体を沈み込ませた。
その直後だった。
鼓膜を突き破るような轟音が、狭い車内を震わせた。
だが、爆風は車内全体へ無差別に拡散しなかった。
男が座っていた優先席の真下から、凄まじい爆発エネルギーが一本の柱のように真上へ噴き上がったのだ。
悲鳴を上げる間すらない。
指向性を持った爆発が、優先席に座っていた男の身体を下から一気に貫いた。次の瞬間、男の身体は原型を失い、赤い飛沫となって天井へ弾け飛んだ。
「きゃあああああっ!」
遅れて、車内を悲鳴が満たした。
周囲の乗客たちは衝撃波でドミノ倒しのように次々となぎ倒されたが、不思議なことに致命傷を負った者はいなかった。
爆発の殺傷力は、恐ろしいほど正確に、優先席へ座っていた男一人だけに集中していたのだ。
周囲の乗客たちは、ほんの数秒前まで男だったものの温かい血と肉片を、頭から全身へ土砂降りの雨のように浴びただけだった。
キィィィィッ――!
急ブレーキの甲高い摩擦音が鳴り響き、車両全体が激しく揺れた。
照明が落ちる。
車内は完全な暗闇に包まれ、非常灯の赤い光だけが、血まみれになった乗客たちと、床に転がる荷物、そして焼け焦げた座席を不気味に照らし出していた。
まるで、地獄の底だった。
床へ叩きつけられた私は、べっとりと顔に張り付いた血糊を手の甲で拭いながら、這いつくばるような姿勢で焼け焦げた優先席を見つめた。
そこにはもう、先ほどまでふんぞり返っていた男の姿はない。
黒い煙を上げる椅子の残骸と、男が持っていた鞄の切れ端だけが散乱している。
その時だった。
床すれすれまで落ちた私の視線の先――ひしゃげた座席の下の床面に、一枚のシールが貼られていることに気づいた。
爆風の死角になったのだろうか。周囲が煤で真っ黒に焼け焦げているにもかかわらず、そのシールだけが異様なほど綺麗な状態で残されている。
まるで、最初から誰かに見つけられることを想定していたかのように。
そこには、白い文字で、不気味なほど無機質にこう印字されていた。
『椅子に座りますか』
背中を、冷たいものが這った。
偶然じゃない。
そう直感した。
この爆弾は、ただ車両を吹き飛ばすために仕掛けられたものではない。
あの男が、あの場所に、あの優先席へ座ることを待っていた。
誰かが、人を選んでいる。
「……動かないでください! 警察です!」
私は喉の奥から血の味のする唾を吐き捨て、胸ポケットから警察手帳を引き抜いた。
自分のひび割れた声が、驚くほど遠く聞こえる。耳鳴りが酷かった。
無傷だった乗客たちは完全なパニック状態に陥り、非常用ドアコックをこじ開けようと殺到している。
「押さないでください! 勝手に線路へ降りるな! 怪我人を優先してください!」
私はふらつく足で立ち上がり、生存者を安全な場所へ誘導しながら、同時にできる限り現場を荒らさせないよう声を張り上げた。
警察官として、やるべきことは分かっている。それでも。網膜に焼き付いた、
『椅子に座りますか』という文字だけが、どうしても頭から離れなかった。
* * *
数時間後。
新宿署の一室に急遽設けられた特別捜査本部。その「中核(コア)会議」は、かつてないほど重苦しい焦燥感に包まれていた。
集まっているのは二十名ほど。警視庁捜査一課の管理官をはじめ、テロを管轄する公安部のトップ、サイバー犯罪対策課の班長、新宿署の署長クラスなど、いずれも今回の初動捜査を牽引するエリート幹部たちばかりだ。
私は署へ戻ってすぐにシャワーを浴び、全身に付着していた返り血を洗い流した。
それでも鼻の奥には、まだあの悍ましい鉄と血の匂いがこびりついている。
真新しいワイシャツへ着替えた私は、会議室の最後尾――パイプ椅子すら用意されていない扉のすぐ脇に、一人だけポツンと立っていた。
酸欠寸前のむせ返るような熱気。生乾きの服と汗が混じった匂い。そして、どこかから響く不機嫌そうな舌打ち。
午前七時四十五分。
新宿へ向かう埼京線の車内は、今日も変わらず「地獄」だった。
窓ガラスは乗客の顔や肩で押し潰され、何百人もの吐息が作る結露で白く濁っている。私――真下は吊り革に掴まることすらできず、見知らぬサラリーマンの背中と、分厚いコートを着た老人の間に挟まれたまま、車両の揺れに合わせて波のように身体を揺らすしかなかった。
足を踏まれても、肘が脇腹に食い込んでも、文句を言う余裕など誰にもない。誰もがスマートフォンの液晶画面か、何もない虚空だけを見つめ、心を無にして、この耐え難い苦痛が過ぎ去るのを待っている。
だが、この圧倒的な不平等の中で、たった一つだけ「特等席」が存在する。
椅子だ。
私の視線の先にある七人掛けのシート。そして、その横に設けられた優先席。そこには、この過酷な圧縮空間とは無縁であるかのように、選ばれた者たちが鎮座している。
優先席。
本来ならば、高齢者や身体の不自由な者、内部疾患を抱える人、妊婦、乳幼児を連れた乗客など、その席を本当に必要としている者が最優先で座るべき場所だ。
だが、その一角に陣取っているのは、お世辞にも身体が不自由とは思えない三十代半ばの男だった。
男は足を浅く組み、ワイヤレスイヤホンで両耳を塞ぎながら、スマートフォンで動画を見ている。時折、画面を眺めながらニヤリと口角を上げる。
その目の前には、膨らんだ腹を庇いながら苦しそうに顔を歪める妊婦が立っていた。少し離れた場所では、白髪の老人が震える腕で手すりにしがみついている。
それでも、男は一度も顔を上げなかった。
『俺は座れた。お前らは立って苦労しろ』
決して、男がそんな言葉を口にしたわけではない。だが、深く座席に身体を沈めたその勝ち誇ったような横顔には、ありありとそう書かれているように見えた。
満員電車という異常空間において、その傲慢さは何よりも醜く、私の神経を深く逆撫でした。
……かつて、私の父は、この狂気のような混雑の中で命を落とした。
助けを求めても、誰一人として手を差し伸べる余裕などなかった。
それなのに、こいつらは――。
ドスッ、と鈍い音がした。
揺れに耐えきれなくなった老人がよろめき、優先席に座る男の革靴を踏んでしまったのだ。
男は露骨に顔をしかめた。
「チッ」
あからさまな舌打ち。
謝ろうとする老人へ視線を向けることすらなく、男は汚された靴から何か不潔なものでも払い落とすように足を組み直し、さらに深く座席へ身体を沈み込ませた。
その直後だった。
鼓膜を突き破るような轟音が、狭い車内を震わせた。
だが、爆風は車内全体へ無差別に拡散しなかった。
男が座っていた優先席の真下から、凄まじい爆発エネルギーが一本の柱のように真上へ噴き上がったのだ。
悲鳴を上げる間すらない。
指向性を持った爆発が、優先席に座っていた男の身体を下から一気に貫いた。次の瞬間、男の身体は原型を失い、赤い飛沫となって天井へ弾け飛んだ。
「きゃあああああっ!」
遅れて、車内を悲鳴が満たした。
周囲の乗客たちは衝撃波でドミノ倒しのように次々となぎ倒されたが、不思議なことに致命傷を負った者はいなかった。
爆発の殺傷力は、恐ろしいほど正確に、優先席へ座っていた男一人だけに集中していたのだ。
周囲の乗客たちは、ほんの数秒前まで男だったものの温かい血と肉片を、頭から全身へ土砂降りの雨のように浴びただけだった。
キィィィィッ――!
急ブレーキの甲高い摩擦音が鳴り響き、車両全体が激しく揺れた。
照明が落ちる。
車内は完全な暗闇に包まれ、非常灯の赤い光だけが、血まみれになった乗客たちと、床に転がる荷物、そして焼け焦げた座席を不気味に照らし出していた。
まるで、地獄の底だった。
床へ叩きつけられた私は、べっとりと顔に張り付いた血糊を手の甲で拭いながら、這いつくばるような姿勢で焼け焦げた優先席を見つめた。
そこにはもう、先ほどまでふんぞり返っていた男の姿はない。
黒い煙を上げる椅子の残骸と、男が持っていた鞄の切れ端だけが散乱している。
その時だった。
床すれすれまで落ちた私の視線の先――ひしゃげた座席の下の床面に、一枚のシールが貼られていることに気づいた。
爆風の死角になったのだろうか。周囲が煤で真っ黒に焼け焦げているにもかかわらず、そのシールだけが異様なほど綺麗な状態で残されている。
まるで、最初から誰かに見つけられることを想定していたかのように。
そこには、白い文字で、不気味なほど無機質にこう印字されていた。
『椅子に座りますか』
背中を、冷たいものが這った。
偶然じゃない。
そう直感した。
この爆弾は、ただ車両を吹き飛ばすために仕掛けられたものではない。
あの男が、あの場所に、あの優先席へ座ることを待っていた。
誰かが、人を選んでいる。
「……動かないでください! 警察です!」
私は喉の奥から血の味のする唾を吐き捨て、胸ポケットから警察手帳を引き抜いた。
自分のひび割れた声が、驚くほど遠く聞こえる。耳鳴りが酷かった。
無傷だった乗客たちは完全なパニック状態に陥り、非常用ドアコックをこじ開けようと殺到している。
「押さないでください! 勝手に線路へ降りるな! 怪我人を優先してください!」
私はふらつく足で立ち上がり、生存者を安全な場所へ誘導しながら、同時にできる限り現場を荒らさせないよう声を張り上げた。
警察官として、やるべきことは分かっている。それでも。網膜に焼き付いた、
『椅子に座りますか』という文字だけが、どうしても頭から離れなかった。
* * *
数時間後。
新宿署の一室に急遽設けられた特別捜査本部。その「中核(コア)会議」は、かつてないほど重苦しい焦燥感に包まれていた。
集まっているのは二十名ほど。警視庁捜査一課の管理官をはじめ、テロを管轄する公安部のトップ、サイバー犯罪対策課の班長、新宿署の署長クラスなど、いずれも今回の初動捜査を牽引するエリート幹部たちばかりだ。
私は署へ戻ってすぐにシャワーを浴び、全身に付着していた返り血を洗い流した。
それでも鼻の奥には、まだあの悍ましい鉄と血の匂いがこびりついている。
真新しいワイシャツへ着替えた私は、会議室の最後尾――パイプ椅子すら用意されていない扉のすぐ脇に、一人だけポツンと立っていた。
