夏休みには、時間割がない。
ないはずなのに、湊の八月には、きっちり時間割ができていた。
朝八時、喫茶アンモナイト。モーニングを頼んで、窓際の席にネタ帳を広げる。午前中はネタ合わせ。昼を適当に済ませて、午後は気が向いたら街へ出る。
夏期講習より規則正しい生活だった。誰のせいだ。
「モーニングて、ほんま偉大やなあ」
律は毎朝、トーストをかじりながら同じことを言う。
「コーヒー頼んだら、パンとゆで卵までついてくるんやで? 俺、最初は何かの間違いか思たもん」
「夏休み入ってからずっと食っといて、まだ言うのかよ」
「毎日感動しとんねん。……あ、これネタ帳いこ。書いて書いて」
「自分で書け、律」
「お。今日は一発で出たな、名前」
「うるさい。書くのか書かないのか」
「俺の字、読まれへんの知っとるやろ」
「開き直るな」
名前で呼び始めて、まだひと月ちょっとしか経っていない。呼ぶたびにいちいち拾われるのは、いつまで続くんだ。
言いながら、ペンを持つのは湊だった。
ネタ帳は、五月の終わりに二人で買ったB5のノートだ。表紙にはマジックの「ネタ帳」の二文字。その下に、コンビ名が決まった日、律が癖の強い字で「食っとるやん 一号」と書き足した。一ページ目には「漫才」の二文字と下手なたこ、それから応募受理のはがき。結成の証拠品、だそうだ。
この夏のページは、九割が湊の字だった。
「ちなみに宿題は?」
「九月の俺に任せたある」
「九月のお前が一番かわいそうだろ」
ネタ合わせといっても、やることは普段とそう変わらない。
律が思いつきを投げる。湊が返す。手応えのあった往復だけを、ノートに書き残す。
審査員は、カウンターの奥にいる。マスターは何も言わないが、豆をひく手が一瞬止まったら、それは「あり」の合図だ。少なくとも二人はそう決めている。本人の同意は取っていない。
「今の、止まったで」
「止まったな。採用」
無口なくせに、審査は異様に正確だった。
◇
八月の大須は、人と熱気でできていた。
アーケードの下、たこ焼きの匂いと、古着屋の呼び込みと、すれ違う外国語と、部活帰りの自転車。その全部をかき分けて歩く。ネタ探し、という名目の散歩だった。
人混みで二回はぐれかけて、二回目から、律は湊のシャツの袖を軽くつまんで歩くようになった。子どもかよ、と思ったが、振りほどく理由も特に見つからなかった。
「なあ湊、あれ何なん?」
律が指差した先、商店街の一角に、でかい招き猫が鎮座していた。
「招き猫だろ。見りゃ分かるだろ」
「でかすぎるやろ。何人前や」
「猫に人前を使うな」
「あの手は何しとん?」
「金を招いとる」
「なんで猫に金呼ばす仕事させとんねん。労働基準どうなっとん」
「猫に基準はない」
「ほんで名古屋の人らはあれ拝むん?」
「拝まない。写真撮るだけ」
「ご利益ちゃうんかい」
ネタ帳に「招き猫・労働」とだけ書いた。あとで読み返しても絶対に分からないやつだ。
その先の土産物屋で、ういろうの試食をもらった律は、口に入れて三秒黙った。
「……なあ。これ、何者なん?」
「ういろうだけど」
「もちちゃうやろ。ようかんでもない。何なん、この真面目な甘さ」
「真面目な甘さって何だよ」
「派手なことを何もせえへんやん。米の味と、砂糖と、以上、みたいな」
「まあ、米の粉だからな」
「地味やのにうまい。名古屋っぽいなあ」
「それは褒めてるのか?」
「褒めとるて。半分は」
「半分は認めるんじゃないよ」
◇
別の日は栄まで出た。
オアシス21の下から、律はガラス張りの屋根を見上げて言った。
「屋根に水が張ったあるやん。あれプールなん?」
「プールじゃない」
「ほな何なん?」
「……何だろうな」
「名古屋人も知らんのやん」
「知らんでも生きていけるんだよ」
帰りの地下鉄のホームで、律は入ってきた東山線を見て噴き出した。
「電車、黄色っ」
「東山線だからな」
「色が元気すぎるやろ。夏休みの小学生か」
「毎日世話になっとるくせに」
車内は、冷房がよく効いていた。
歩き回った疲れが出たのか、隣で律がうとうとし始め、頭がこっちの肩へ、ゆっくり傾いてくる。
起こすか。どうするか。
三駅ぶん悩んでいるうちに、律は自力で起きて、「今、寝とった?」と聞いてきた。
「知らん」
寝ていた。肩に着地する直前まで。……なんで俺がそれを知っとるんだ、という話ではある。
そういうくだらない断片が、ネタ帳に日付つきでたまっていった。
あとから読み返すと、どのページのどの一行でも、あいつの声で再生できた。我ながら、どうかしていると思う。
◇
気づいたのは、七月の終わりか、八月の頭か。
ネタ帳をのぞきこむとき、律は肩が触れる距離まで来る。
教室で皆と喋っているときより、二人でいるときのほうが、声が半音低い。
あいづちを打つとき、やたらと目を見る。ノートのページじゃなくて、こっちの顔を。
そういうのをいちいち数えている自分がいることにも、湊はうっすら気づいていた。
最初は、気のせいだと思った。
次に、大阪の距離感だと思った。
でも、あいつは教室では誰の席にも寄っていくし、誰の肩にも普通に手を置く。置くのに――何かが違う。距離の数字じゃなくて、距離の種類が違う気がする。
誰にでも、こうなのか?
一度浮かんだ疑問は、打ち消しても消えなかった。書く場所がないので、ネタ帳には書かなかった。
◇
八月の半ば、いつもの朝だった。
メニューを開きもせずに「小倉トーストで」と言いかけた湊を、律が手のひらで止めた。
「湊、今日は小倉やめとき」
「は? なんで」
「眠いやろ、今日」
「……まあ、寝たのは遅かったけど」
「左目、二重なっとるで。眠い日はいっつもそれや。ほんで、そういう日に甘いの頼むと、湊、半分で残すねん。もったいないやん。今日はゆで卵にしとき」
すらすらと、天気の話でもするみたいに言った。
「…………なんで知っとるの」
語尾が半端に崩れたのが、自分でも分かった。
律はきょとんとした顔のまま、トーストの耳をかじった。
「見とったら分かるやん」
それだけだった。
それだけのひと言が、背中を、ぞわりと駆け上がった。
嫌なぞわりでは、なかった。それが一番困る。
十六年間一緒に住んでいる家族が知らないことを、転校して四か月の男が、当たり前の顔をして言う。
「……お前、俺の何なの?」
「相方やけど」
即答だった。
「他に何かあるん?」
「……ない」
「ほな小倉、やめとくか?」
「いや、頼む。意地でも今日は完食する」
「そういうとこやで、湊」
律は笑って、カウンターの奥へ「小倉トーストひとつ」と勝手に注文した。
完食した。ゆで卵も食った。腹はふくれたのに、背中のぞわりだけが、いつまでも消えなかった。
◇
服部に海へ誘われたのは、八月の後半だった。
「たまには付き合えって。夏だぞ」
ついでに「二学期になったら俺の椅子返してもらうって、高瀬に言っといて」とも頼まれた。無理だと思う。
律は家の用事で大阪だとかで、いない日だった。考えてみれば、あいつ抜きで一日遊ぶのは、この夏初めてだった。
その律からは、朝から写真ばかり届いていた。新幹線の窓。たこ焼き。祖母の家の縁側で描いたらしい、下手なたこ。文面は、ほとんどない。
砂の上に座って三回返事をして、四回目を打ちかけて、気づいた。
いない日なのに、一日中喋っている。
波打ち際で足だけ浸かりながら、服部が言った。
「なあ、水野って夏休み何しとるの?」
「ネタ合わせ」
「毎日?」
「……ほぼ」
「仲良すぎだろ」
服部は笑って、それから、ふっと真顔になった。
「前から思っとったんだけどさ」
「何」
「高瀬、お前のこと好きなんじゃね?」
波の音が、一拍だけ大きく聞こえた。
「……ないない」
「なんで?」
「あいつ誰にでもあんなんだろ」
「そうかなあ。俺、あいつに朝メシ聞かれたことないけど」
「あれはあいつの点呼みたいなもんだろ」
「点呼は全員にやるもんだろ」
「……理屈っぽいな、お前」
「誰の影響だろうな」
服部はそれ以上は追ってこずに、笑いながら海に入っていった。追ってこないところが、逆に感じが悪かった。
ないない、と口の中でもう一回言った。
二回言った時点で、負けだった。
◇
その夜、湊は自分の部屋で、天井を相手に検証を始めてしまった。
議題。高瀬律は、誰にでも「ああ」なのか。
証言一。教室のあいつは、たしかに誰とでも喋る。でも、朝メシの取り調べは俺だけらしい。
証言二。距離。肩。声。目。
証言三。「見とったら分かるやん」。あの台詞を、俺以外の誰かに言っているのを聞いたことが――ない。一回もない。
……いや、待て。
なんで俺は、あいつが他の奴に何を言っとるかまで覚えとるんだ。
検証はそこで打ち切られた。裁判長の中立性に、重大な疑義が生じたからだ。
判決は出なかった。出なかったが、「自分にだけ、違う」という仮説だけが、取り下げられないまま枕元に残った。
◇
八月最後の週。
いつものアンモナイトで、いつものネタ合わせが終わった夕方だった。
ネタ帳は、もう半分以上埋まっている。招き猫。ういろう。黄色い地下鉄。プールじゃない屋根。くだらない断片が日付つきで並んでいて、読み返すと笑えて、それから、胸の奥が変になる。この夏は、そういうノートに全部残っていた。
帰り支度をしながら、律が言った。
「なあ、湊」
「何」
「夏終わる前に、ひとつ聞いてええ?」
律の手が、ネタ帳を閉じた。
ぱたん、と。
その音が、やけに大きく聞こえた。
ないはずなのに、湊の八月には、きっちり時間割ができていた。
朝八時、喫茶アンモナイト。モーニングを頼んで、窓際の席にネタ帳を広げる。午前中はネタ合わせ。昼を適当に済ませて、午後は気が向いたら街へ出る。
夏期講習より規則正しい生活だった。誰のせいだ。
「モーニングて、ほんま偉大やなあ」
律は毎朝、トーストをかじりながら同じことを言う。
「コーヒー頼んだら、パンとゆで卵までついてくるんやで? 俺、最初は何かの間違いか思たもん」
「夏休み入ってからずっと食っといて、まだ言うのかよ」
「毎日感動しとんねん。……あ、これネタ帳いこ。書いて書いて」
「自分で書け、律」
「お。今日は一発で出たな、名前」
「うるさい。書くのか書かないのか」
「俺の字、読まれへんの知っとるやろ」
「開き直るな」
名前で呼び始めて、まだひと月ちょっとしか経っていない。呼ぶたびにいちいち拾われるのは、いつまで続くんだ。
言いながら、ペンを持つのは湊だった。
ネタ帳は、五月の終わりに二人で買ったB5のノートだ。表紙にはマジックの「ネタ帳」の二文字。その下に、コンビ名が決まった日、律が癖の強い字で「食っとるやん 一号」と書き足した。一ページ目には「漫才」の二文字と下手なたこ、それから応募受理のはがき。結成の証拠品、だそうだ。
この夏のページは、九割が湊の字だった。
「ちなみに宿題は?」
「九月の俺に任せたある」
「九月のお前が一番かわいそうだろ」
ネタ合わせといっても、やることは普段とそう変わらない。
律が思いつきを投げる。湊が返す。手応えのあった往復だけを、ノートに書き残す。
審査員は、カウンターの奥にいる。マスターは何も言わないが、豆をひく手が一瞬止まったら、それは「あり」の合図だ。少なくとも二人はそう決めている。本人の同意は取っていない。
「今の、止まったで」
「止まったな。採用」
無口なくせに、審査は異様に正確だった。
◇
八月の大須は、人と熱気でできていた。
アーケードの下、たこ焼きの匂いと、古着屋の呼び込みと、すれ違う外国語と、部活帰りの自転車。その全部をかき分けて歩く。ネタ探し、という名目の散歩だった。
人混みで二回はぐれかけて、二回目から、律は湊のシャツの袖を軽くつまんで歩くようになった。子どもかよ、と思ったが、振りほどく理由も特に見つからなかった。
「なあ湊、あれ何なん?」
律が指差した先、商店街の一角に、でかい招き猫が鎮座していた。
「招き猫だろ。見りゃ分かるだろ」
「でかすぎるやろ。何人前や」
「猫に人前を使うな」
「あの手は何しとん?」
「金を招いとる」
「なんで猫に金呼ばす仕事させとんねん。労働基準どうなっとん」
「猫に基準はない」
「ほんで名古屋の人らはあれ拝むん?」
「拝まない。写真撮るだけ」
「ご利益ちゃうんかい」
ネタ帳に「招き猫・労働」とだけ書いた。あとで読み返しても絶対に分からないやつだ。
その先の土産物屋で、ういろうの試食をもらった律は、口に入れて三秒黙った。
「……なあ。これ、何者なん?」
「ういろうだけど」
「もちちゃうやろ。ようかんでもない。何なん、この真面目な甘さ」
「真面目な甘さって何だよ」
「派手なことを何もせえへんやん。米の味と、砂糖と、以上、みたいな」
「まあ、米の粉だからな」
「地味やのにうまい。名古屋っぽいなあ」
「それは褒めてるのか?」
「褒めとるて。半分は」
「半分は認めるんじゃないよ」
◇
別の日は栄まで出た。
オアシス21の下から、律はガラス張りの屋根を見上げて言った。
「屋根に水が張ったあるやん。あれプールなん?」
「プールじゃない」
「ほな何なん?」
「……何だろうな」
「名古屋人も知らんのやん」
「知らんでも生きていけるんだよ」
帰りの地下鉄のホームで、律は入ってきた東山線を見て噴き出した。
「電車、黄色っ」
「東山線だからな」
「色が元気すぎるやろ。夏休みの小学生か」
「毎日世話になっとるくせに」
車内は、冷房がよく効いていた。
歩き回った疲れが出たのか、隣で律がうとうとし始め、頭がこっちの肩へ、ゆっくり傾いてくる。
起こすか。どうするか。
三駅ぶん悩んでいるうちに、律は自力で起きて、「今、寝とった?」と聞いてきた。
「知らん」
寝ていた。肩に着地する直前まで。……なんで俺がそれを知っとるんだ、という話ではある。
そういうくだらない断片が、ネタ帳に日付つきでたまっていった。
あとから読み返すと、どのページのどの一行でも、あいつの声で再生できた。我ながら、どうかしていると思う。
◇
気づいたのは、七月の終わりか、八月の頭か。
ネタ帳をのぞきこむとき、律は肩が触れる距離まで来る。
教室で皆と喋っているときより、二人でいるときのほうが、声が半音低い。
あいづちを打つとき、やたらと目を見る。ノートのページじゃなくて、こっちの顔を。
そういうのをいちいち数えている自分がいることにも、湊はうっすら気づいていた。
最初は、気のせいだと思った。
次に、大阪の距離感だと思った。
でも、あいつは教室では誰の席にも寄っていくし、誰の肩にも普通に手を置く。置くのに――何かが違う。距離の数字じゃなくて、距離の種類が違う気がする。
誰にでも、こうなのか?
一度浮かんだ疑問は、打ち消しても消えなかった。書く場所がないので、ネタ帳には書かなかった。
◇
八月の半ば、いつもの朝だった。
メニューを開きもせずに「小倉トーストで」と言いかけた湊を、律が手のひらで止めた。
「湊、今日は小倉やめとき」
「は? なんで」
「眠いやろ、今日」
「……まあ、寝たのは遅かったけど」
「左目、二重なっとるで。眠い日はいっつもそれや。ほんで、そういう日に甘いの頼むと、湊、半分で残すねん。もったいないやん。今日はゆで卵にしとき」
すらすらと、天気の話でもするみたいに言った。
「…………なんで知っとるの」
語尾が半端に崩れたのが、自分でも分かった。
律はきょとんとした顔のまま、トーストの耳をかじった。
「見とったら分かるやん」
それだけだった。
それだけのひと言が、背中を、ぞわりと駆け上がった。
嫌なぞわりでは、なかった。それが一番困る。
十六年間一緒に住んでいる家族が知らないことを、転校して四か月の男が、当たり前の顔をして言う。
「……お前、俺の何なの?」
「相方やけど」
即答だった。
「他に何かあるん?」
「……ない」
「ほな小倉、やめとくか?」
「いや、頼む。意地でも今日は完食する」
「そういうとこやで、湊」
律は笑って、カウンターの奥へ「小倉トーストひとつ」と勝手に注文した。
完食した。ゆで卵も食った。腹はふくれたのに、背中のぞわりだけが、いつまでも消えなかった。
◇
服部に海へ誘われたのは、八月の後半だった。
「たまには付き合えって。夏だぞ」
ついでに「二学期になったら俺の椅子返してもらうって、高瀬に言っといて」とも頼まれた。無理だと思う。
律は家の用事で大阪だとかで、いない日だった。考えてみれば、あいつ抜きで一日遊ぶのは、この夏初めてだった。
その律からは、朝から写真ばかり届いていた。新幹線の窓。たこ焼き。祖母の家の縁側で描いたらしい、下手なたこ。文面は、ほとんどない。
砂の上に座って三回返事をして、四回目を打ちかけて、気づいた。
いない日なのに、一日中喋っている。
波打ち際で足だけ浸かりながら、服部が言った。
「なあ、水野って夏休み何しとるの?」
「ネタ合わせ」
「毎日?」
「……ほぼ」
「仲良すぎだろ」
服部は笑って、それから、ふっと真顔になった。
「前から思っとったんだけどさ」
「何」
「高瀬、お前のこと好きなんじゃね?」
波の音が、一拍だけ大きく聞こえた。
「……ないない」
「なんで?」
「あいつ誰にでもあんなんだろ」
「そうかなあ。俺、あいつに朝メシ聞かれたことないけど」
「あれはあいつの点呼みたいなもんだろ」
「点呼は全員にやるもんだろ」
「……理屈っぽいな、お前」
「誰の影響だろうな」
服部はそれ以上は追ってこずに、笑いながら海に入っていった。追ってこないところが、逆に感じが悪かった。
ないない、と口の中でもう一回言った。
二回言った時点で、負けだった。
◇
その夜、湊は自分の部屋で、天井を相手に検証を始めてしまった。
議題。高瀬律は、誰にでも「ああ」なのか。
証言一。教室のあいつは、たしかに誰とでも喋る。でも、朝メシの取り調べは俺だけらしい。
証言二。距離。肩。声。目。
証言三。「見とったら分かるやん」。あの台詞を、俺以外の誰かに言っているのを聞いたことが――ない。一回もない。
……いや、待て。
なんで俺は、あいつが他の奴に何を言っとるかまで覚えとるんだ。
検証はそこで打ち切られた。裁判長の中立性に、重大な疑義が生じたからだ。
判決は出なかった。出なかったが、「自分にだけ、違う」という仮説だけが、取り下げられないまま枕元に残った。
◇
八月最後の週。
いつものアンモナイトで、いつものネタ合わせが終わった夕方だった。
ネタ帳は、もう半分以上埋まっている。招き猫。ういろう。黄色い地下鉄。プールじゃない屋根。くだらない断片が日付つきで並んでいて、読み返すと笑えて、それから、胸の奥が変になる。この夏は、そういうノートに全部残っていた。
帰り支度をしながら、律が言った。
「なあ、湊」
「何」
「夏終わる前に、ひとつ聞いてええ?」
律の手が、ネタ帳を閉じた。
ぱたん、と。
その音が、やけに大きく聞こえた。
