週が明けても、湊はまだ返事をしていなかった。
していなかったが、教室の空気はもう完全に「出る前提」だった。服部は「大会っていつ?」と聞いてくるし、真野は「次のネタ何?」と急かしてくる。返事をする前から外堀が埋まっていくのは、この学校の伝統芸なのかもしれない。
「てか出るんでしょ、どうせ」と服部は言った。
「どうせって何だよ」
「文化祭のあと、お前ずっと機嫌よかったし」
「よくない」
「動画、もっかい見る?」
「見ない」
当の高瀬は、あれから一度も大会の話をしなかった。
朝はいつもの逆向きの椅子で朝メシの報告をしてきて、昼は購買の戦争に付き合い、放課後は当たり前みたいに隣を歩く。それだけだった。
押してこない。本当に、押してこない。
だから昼休み、先に折れたのは湊だった。
「……おい」
「ん?」
「大会の話、しないのかよ」
「したら出てくれるん?」
「…………」
「冗談や」
高瀬は椅子の背もたれに顎を乗せて、それから、珍しく居住まいを正した。
「今回は、ちゃんと聞くわ。この前みたいに勝手なことはせえへん」
まっすぐこっちを見る。
「湊。俺と、大会出てくれへんか」
教室の昼の騒がしさが、一枚遠くなった。
勝手に決められたら怒れるのに、まっすぐ聞かれたら、断る理由のほうが減っていく。ずるい聞き方を覚えたな、と思った。
断る言葉なら、まだ残ってはいた。人前は苦手だとか、勉強がとか、一回だけの約束がとか。
でも、口から出たのは。
「……一回だけって言ったのは俺だけど。やめるとは、言っとらん」
「…………それ、出るってことでええん?」
「そういうこと」
「よっしゃあ!」
高瀬が椅子ごと立ち上がって、教室中が振り返った。
◇
翌日、日比野が応募要項を持ってきた。頼んでもいないのに、わざわざ印刷して、大事なところに線まで引いてあった。
「東海高校生お笑いグランプリ。十月に愛知県予選、通ったら二月に東海地区決勝。持ち時間は三分。最優秀賞は特番出演だとよ」
「先生、詳しすぎません?」
「たまたま調べとっただけだ」
たまたまで蛍光ペンは引かない。
「三分て、長いんか短いんか分からんな」
「文化祭が三分ちょっとだっただろ。あれくらい」
「あれ、三分やったん!? ……体感三十秒やったで」
「奇遇だな。俺もだわ」
要項をめくっていた高瀬が、ある欄で手を止めた。
「なあ湊。これ、コンビ名要るで」
「コンビ名?」
「ここ。『コンビ名(ふりがな必須)』て書いたある」
二人で顔を見合わせた。
そういえば、この二人組には名前がなかった。
◇
その日の放課後、喫茶アンモナイトの窓際の席で、コンビ名会議が開かれた。
議題はひとつ。議事はまったく進まなかった。
「『みそデラックス』」
「却下」
「なんでや。名古屋感あるやろ」
「味噌を背負う覚悟がこっちにはない」
「ほな『名古屋大阪化計画』」
「何の団体だよ。怖いんだよ」
「『アンモナイツ』」
「この店、何の関係もないだろ」
「本拠地への敬意や」
「敬意で名前は決めない」
「……ほな『たかせとみずの』」
「せめて何かを工夫しろ」
高瀬はテーブルに突っ伏した。ボケを出し尽くした男の背中だった。
「難しいわ、名前て。一生もんやで?」
「一生もんなのか、これ」
「当たり前やん。売れたらポスターに載るんやで」
「売れる前提で話が進んでる……」
カウンターの奥で、マスターがこちらを気にするふうもなく、豆をひいていた。
「せやったら『ゴールデン小倉』」
「今度はこっちが分からん。なんだよゴールデンって」
「湊の好物に敬意を」
「敬意の使いどころが全部おかしいんだよ」
「ほな真面目にいくで。『ミナトリツ』」
「名前を合体させただけだろ」
「響きはアイドルやん」
「決めるのは漫才師の名前だぞ」
ノートには没案ばかりが増えていく。時計の針が進む。コーヒーは二つとも、とっくに空になっていた。
沈黙が落ちたのは、閉店が近づいたころだった。
「……なあ」
高瀬が、頬杖のまま言った。
「そもそも俺ら、最初なんの話しとってん?」
「最初?」
「一番最初。転校してきた初日や。俺が湊に話しかけた日」
「ああ……」
思い出すまでもなかった。あの、逆向きの椅子。背もたれを抱えた転校生。
「エビフライだろ」
「せや。あれや」
高瀬は姿勢を起こして、あのときと同じ顔で言った。
「名古屋ってほんまにエビフライばっか食うん?」
「食わんわ。……って、再現しなくていいんだよ」
「ええから。続き」
「……大阪の人間が毎日たこ焼き食っとるんと一緒にすんな」
「ほな食ってへんの?」
「昨日食ったけど」
「食っとるやん」
言い終えて、二人とも黙った。
窓の外はもう夕方で、店内のジャズだけが鳴っていた。
先に口を開いたのは、湊だった。
「……『食っとるやん』でいいだろ、もう」
高瀬が、目を丸くした。
それから、テーブルをたたいて笑い出した。
「それ俺の台詞やん!」
「お前の台詞を俺が拾う。いつものやつだわ」
「……ああ、もう。それや。それしかないわ」
笑いすぎて目尻に涙をためたまま、高瀬は応募用紙を引き寄せた。
コンビ名の欄に、癖の強い字で「食っとるやん」。ふりがなの欄にまで、丁寧に「くっとるやん」と書いた。
「字、汚すぎるだろ。……律、それ絶対書き直し」
言ってから、気づいた。
高瀬の手が、止まっていた。
「……今、名前で呼んだん?」
「呼んでない」
「呼んだやん。『律』て言うた」
「言ってない」
「言うたよなあ、マスター」
カウンターの奥から、静かな声がした。
「……言った」
「ほら」
「客の会話を聞くな!」
顔が熱い。認めるものか、と思ったが、高瀬――律は、もうにやにやが止まらなくなっていた。
「ええやん。コンビやし、名前で」
「うるさい」
「ほんなら俺も今日から遠慮なく呼ぶわ。まあ、初日から呼んどったけど」
「そうだよ。お前が先に距離感おかしかったんだよ」
「なあ湊。もう一回呼んで」
「絶対呼ばん」
「けちやなあ」
こうして、コンビ「食っとるやん」が結成された。
ついでに、なぜか呼び方まで決まってしまった。
あとで思えば、これ以上の名前はなかった。
◇
帰り際、書き直した応募用紙を封筒に入れていると、マスターが伝票を置いた。
それから、ぼそりと言った。
「……変な名前」
「コンビ名です」
「コンビ名やねん」
声が重なった。マスターは何も言わずに、奥へ戻っていった。
あの人が一日に二度も喋るところを、初めて見た。
◇
七月に入って、応募は無事に受理された。
受理通知のはがきを、律はわざわざ写真に撮って送ってきた。
『初コンビ結成記念や』
『はがき一枚で大げさなんだよ』
『一生もんの記念やで』
『ホーム画面にするなよ』
『それは思いつかんかったわ』
思いつかせてしまった気がする。
また一生もんと言っている。
つっこみかけて、やめた。画面の中のはがきには、たしかに「食っとるやん様」と印字されていた。……「様」って。エビフライの会話に様がついている。
……消すのも違う気がして、写真はそのままにした。理由を聞かれても困る。誰も聞いていないが。
終業式の日、昇降口で律が言った。
「湊、夏休みって暇なん?」
「……誰かさんとネタ合わせの予定が、山ほど入っとるんだわ」
「誰なんやろなあ、それ」
「さあな」
「ほな予定組もか。ネタ合わせは午前な。アンモナイトのモーニングついでや」
「本拠地だからな」
「あと、たまには外でネタ探しもしよ。大須とか栄とか、俺まだ全然回れてへんし」
「観光したいだけだろ」
「ネタ探しやて。半分は」
「半分は認めるのかよ」
七月の日差しの下、二人分の影を並べて校門を出た。
隣で律が「食っとるやん、始動やなあ」と、うれしそうに名前を口の中で転がした。
悪くない。悪くないと思ってしまっている時点で、もう手遅れだった。
予選まで、あと三か月。
夏の予定が、生まれて初めて埋まった。
していなかったが、教室の空気はもう完全に「出る前提」だった。服部は「大会っていつ?」と聞いてくるし、真野は「次のネタ何?」と急かしてくる。返事をする前から外堀が埋まっていくのは、この学校の伝統芸なのかもしれない。
「てか出るんでしょ、どうせ」と服部は言った。
「どうせって何だよ」
「文化祭のあと、お前ずっと機嫌よかったし」
「よくない」
「動画、もっかい見る?」
「見ない」
当の高瀬は、あれから一度も大会の話をしなかった。
朝はいつもの逆向きの椅子で朝メシの報告をしてきて、昼は購買の戦争に付き合い、放課後は当たり前みたいに隣を歩く。それだけだった。
押してこない。本当に、押してこない。
だから昼休み、先に折れたのは湊だった。
「……おい」
「ん?」
「大会の話、しないのかよ」
「したら出てくれるん?」
「…………」
「冗談や」
高瀬は椅子の背もたれに顎を乗せて、それから、珍しく居住まいを正した。
「今回は、ちゃんと聞くわ。この前みたいに勝手なことはせえへん」
まっすぐこっちを見る。
「湊。俺と、大会出てくれへんか」
教室の昼の騒がしさが、一枚遠くなった。
勝手に決められたら怒れるのに、まっすぐ聞かれたら、断る理由のほうが減っていく。ずるい聞き方を覚えたな、と思った。
断る言葉なら、まだ残ってはいた。人前は苦手だとか、勉強がとか、一回だけの約束がとか。
でも、口から出たのは。
「……一回だけって言ったのは俺だけど。やめるとは、言っとらん」
「…………それ、出るってことでええん?」
「そういうこと」
「よっしゃあ!」
高瀬が椅子ごと立ち上がって、教室中が振り返った。
◇
翌日、日比野が応募要項を持ってきた。頼んでもいないのに、わざわざ印刷して、大事なところに線まで引いてあった。
「東海高校生お笑いグランプリ。十月に愛知県予選、通ったら二月に東海地区決勝。持ち時間は三分。最優秀賞は特番出演だとよ」
「先生、詳しすぎません?」
「たまたま調べとっただけだ」
たまたまで蛍光ペンは引かない。
「三分て、長いんか短いんか分からんな」
「文化祭が三分ちょっとだっただろ。あれくらい」
「あれ、三分やったん!? ……体感三十秒やったで」
「奇遇だな。俺もだわ」
要項をめくっていた高瀬が、ある欄で手を止めた。
「なあ湊。これ、コンビ名要るで」
「コンビ名?」
「ここ。『コンビ名(ふりがな必須)』て書いたある」
二人で顔を見合わせた。
そういえば、この二人組には名前がなかった。
◇
その日の放課後、喫茶アンモナイトの窓際の席で、コンビ名会議が開かれた。
議題はひとつ。議事はまったく進まなかった。
「『みそデラックス』」
「却下」
「なんでや。名古屋感あるやろ」
「味噌を背負う覚悟がこっちにはない」
「ほな『名古屋大阪化計画』」
「何の団体だよ。怖いんだよ」
「『アンモナイツ』」
「この店、何の関係もないだろ」
「本拠地への敬意や」
「敬意で名前は決めない」
「……ほな『たかせとみずの』」
「せめて何かを工夫しろ」
高瀬はテーブルに突っ伏した。ボケを出し尽くした男の背中だった。
「難しいわ、名前て。一生もんやで?」
「一生もんなのか、これ」
「当たり前やん。売れたらポスターに載るんやで」
「売れる前提で話が進んでる……」
カウンターの奥で、マスターがこちらを気にするふうもなく、豆をひいていた。
「せやったら『ゴールデン小倉』」
「今度はこっちが分からん。なんだよゴールデンって」
「湊の好物に敬意を」
「敬意の使いどころが全部おかしいんだよ」
「ほな真面目にいくで。『ミナトリツ』」
「名前を合体させただけだろ」
「響きはアイドルやん」
「決めるのは漫才師の名前だぞ」
ノートには没案ばかりが増えていく。時計の針が進む。コーヒーは二つとも、とっくに空になっていた。
沈黙が落ちたのは、閉店が近づいたころだった。
「……なあ」
高瀬が、頬杖のまま言った。
「そもそも俺ら、最初なんの話しとってん?」
「最初?」
「一番最初。転校してきた初日や。俺が湊に話しかけた日」
「ああ……」
思い出すまでもなかった。あの、逆向きの椅子。背もたれを抱えた転校生。
「エビフライだろ」
「せや。あれや」
高瀬は姿勢を起こして、あのときと同じ顔で言った。
「名古屋ってほんまにエビフライばっか食うん?」
「食わんわ。……って、再現しなくていいんだよ」
「ええから。続き」
「……大阪の人間が毎日たこ焼き食っとるんと一緒にすんな」
「ほな食ってへんの?」
「昨日食ったけど」
「食っとるやん」
言い終えて、二人とも黙った。
窓の外はもう夕方で、店内のジャズだけが鳴っていた。
先に口を開いたのは、湊だった。
「……『食っとるやん』でいいだろ、もう」
高瀬が、目を丸くした。
それから、テーブルをたたいて笑い出した。
「それ俺の台詞やん!」
「お前の台詞を俺が拾う。いつものやつだわ」
「……ああ、もう。それや。それしかないわ」
笑いすぎて目尻に涙をためたまま、高瀬は応募用紙を引き寄せた。
コンビ名の欄に、癖の強い字で「食っとるやん」。ふりがなの欄にまで、丁寧に「くっとるやん」と書いた。
「字、汚すぎるだろ。……律、それ絶対書き直し」
言ってから、気づいた。
高瀬の手が、止まっていた。
「……今、名前で呼んだん?」
「呼んでない」
「呼んだやん。『律』て言うた」
「言ってない」
「言うたよなあ、マスター」
カウンターの奥から、静かな声がした。
「……言った」
「ほら」
「客の会話を聞くな!」
顔が熱い。認めるものか、と思ったが、高瀬――律は、もうにやにやが止まらなくなっていた。
「ええやん。コンビやし、名前で」
「うるさい」
「ほんなら俺も今日から遠慮なく呼ぶわ。まあ、初日から呼んどったけど」
「そうだよ。お前が先に距離感おかしかったんだよ」
「なあ湊。もう一回呼んで」
「絶対呼ばん」
「けちやなあ」
こうして、コンビ「食っとるやん」が結成された。
ついでに、なぜか呼び方まで決まってしまった。
あとで思えば、これ以上の名前はなかった。
◇
帰り際、書き直した応募用紙を封筒に入れていると、マスターが伝票を置いた。
それから、ぼそりと言った。
「……変な名前」
「コンビ名です」
「コンビ名やねん」
声が重なった。マスターは何も言わずに、奥へ戻っていった。
あの人が一日に二度も喋るところを、初めて見た。
◇
七月に入って、応募は無事に受理された。
受理通知のはがきを、律はわざわざ写真に撮って送ってきた。
『初コンビ結成記念や』
『はがき一枚で大げさなんだよ』
『一生もんの記念やで』
『ホーム画面にするなよ』
『それは思いつかんかったわ』
思いつかせてしまった気がする。
また一生もんと言っている。
つっこみかけて、やめた。画面の中のはがきには、たしかに「食っとるやん様」と印字されていた。……「様」って。エビフライの会話に様がついている。
……消すのも違う気がして、写真はそのままにした。理由を聞かれても困る。誰も聞いていないが。
終業式の日、昇降口で律が言った。
「湊、夏休みって暇なん?」
「……誰かさんとネタ合わせの予定が、山ほど入っとるんだわ」
「誰なんやろなあ、それ」
「さあな」
「ほな予定組もか。ネタ合わせは午前な。アンモナイトのモーニングついでや」
「本拠地だからな」
「あと、たまには外でネタ探しもしよ。大須とか栄とか、俺まだ全然回れてへんし」
「観光したいだけだろ」
「ネタ探しやて。半分は」
「半分は認めるのかよ」
七月の日差しの下、二人分の影を並べて校門を出た。
隣で律が「食っとるやん、始動やなあ」と、うれしそうに名前を口の中で転がした。
悪くない。悪くないと思ってしまっている時点で、もう手遅れだった。
予選まで、あと三か月。
夏の予定が、生まれて初めて埋まった。
