毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 週が明けても、湊はまだ返事をしていなかった。

 していなかったが、教室の空気はもう完全に「出る前提」だった。服部は「大会っていつ?」と聞いてくるし、真野は「次のネタ何?」と急かしてくる。返事をする前から外堀が埋まっていくのは、この学校の伝統芸なのかもしれない。

 「てか出るんでしょ、どうせ」と服部は言った。

「どうせって何だよ」
「文化祭のあと、お前ずっと機嫌よかったし」
「よくない」
「動画、もっかい見る?」
「見ない」

 当の高瀬は、あれから一度も大会の話をしなかった。

 朝はいつもの逆向きの椅子で朝メシの報告をしてきて、昼は購買の戦争に付き合い、放課後は当たり前みたいに隣を歩く。それだけだった。

 押してこない。本当に、押してこない。

 だから昼休み、先に折れたのは湊だった。

「……おい」
「ん?」
「大会の話、しないのかよ」
「したら出てくれるん?」
「…………」
「冗談や」

 高瀬は椅子の背もたれに顎を乗せて、それから、珍しく居住まいを正した。

「今回は、ちゃんと聞くわ。この前みたいに勝手なことはせえへん」

 まっすぐこっちを見る。

「湊。俺と、大会出てくれへんか」

 教室の昼の騒がしさが、一枚遠くなった。

 勝手に決められたら怒れるのに、まっすぐ聞かれたら、断る理由のほうが減っていく。ずるい聞き方を覚えたな、と思った。

 断る言葉なら、まだ残ってはいた。人前は苦手だとか、勉強がとか、一回だけの約束がとか。

 でも、口から出たのは。

「……一回だけって言ったのは俺だけど。やめるとは、言っとらん」
「…………それ、出るってことでええん?」
「そういうこと」
「よっしゃあ!」

 高瀬が椅子ごと立ち上がって、教室中が振り返った。





 翌日、日比野が応募要項を持ってきた。頼んでもいないのに、わざわざ印刷して、大事なところに線まで引いてあった。

「東海高校生お笑いグランプリ。十月に愛知県予選、通ったら二月に東海地区決勝。持ち時間は三分。最優秀賞は特番出演だとよ」
「先生、詳しすぎません?」
「たまたま調べとっただけだ」

 たまたまで蛍光ペンは引かない。

「三分て、長いんか短いんか分からんな」
「文化祭が三分ちょっとだっただろ。あれくらい」
「あれ、三分やったん!? ……体感三十秒やったで」
「奇遇だな。俺もだわ」

 要項をめくっていた高瀬が、ある欄で手を止めた。

「なあ湊。これ、コンビ名要るで」
「コンビ名?」
「ここ。『コンビ名(ふりがな必須)』て書いたある」

 二人で顔を見合わせた。

 そういえば、この二人組には名前がなかった。





 その日の放課後、喫茶アンモナイトの窓際の席で、コンビ名会議が開かれた。

 議題はひとつ。議事はまったく進まなかった。

「『みそデラックス』」
「却下」
「なんでや。名古屋感あるやろ」
「味噌を背負う覚悟がこっちにはない」
「ほな『名古屋大阪化計画』」
「何の団体だよ。怖いんだよ」
「『アンモナイツ』」
「この店、何の関係もないだろ」
「本拠地への敬意や」
「敬意で名前は決めない」
「……ほな『たかせとみずの』」
「せめて何かを工夫しろ」

 高瀬はテーブルに突っ伏した。ボケを出し尽くした男の背中だった。

「難しいわ、名前て。一生もんやで?」
「一生もんなのか、これ」
「当たり前やん。売れたらポスターに載るんやで」
「売れる前提で話が進んでる……」

 カウンターの奥で、マスターがこちらを気にするふうもなく、豆をひいていた。

「せやったら『ゴールデン小倉』」
「今度はこっちが分からん。なんだよゴールデンって」
「湊の好物に敬意を」
「敬意の使いどころが全部おかしいんだよ」
「ほな真面目にいくで。『ミナトリツ』」
「名前を合体させただけだろ」
「響きはアイドルやん」
「決めるのは漫才師の名前だぞ」

 ノートには没案ばかりが増えていく。時計の針が進む。コーヒーは二つとも、とっくに空になっていた。


 沈黙が落ちたのは、閉店が近づいたころだった。

「……なあ」

 高瀬が、頬杖のまま言った。

「そもそも俺ら、最初なんの話しとってん?」
「最初?」
「一番最初。転校してきた初日や。俺が湊に話しかけた日」
「ああ……」

 思い出すまでもなかった。あの、逆向きの椅子。背もたれを抱えた転校生。

「エビフライだろ」
「せや。あれや」

 高瀬は姿勢を起こして、あのときと同じ顔で言った。

「名古屋ってほんまにエビフライばっか食うん?」
「食わんわ。……って、再現しなくていいんだよ」
「ええから。続き」
「……大阪の人間が毎日たこ焼き食っとるんと一緒にすんな」
「ほな食ってへんの?」
「昨日食ったけど」
「食っとるやん」

 言い終えて、二人とも黙った。

 窓の外はもう夕方で、店内のジャズだけが鳴っていた。

 先に口を開いたのは、湊だった。

「……『食っとるやん』でいいだろ、もう」

 高瀬が、目を丸くした。

 それから、テーブルをたたいて笑い出した。

「それ俺の台詞やん!」
「お前の台詞を俺が拾う。いつものやつだわ」
「……ああ、もう。それや。それしかないわ」

 笑いすぎて目尻に涙をためたまま、高瀬は応募用紙を引き寄せた。

 コンビ名の欄に、癖の強い字で「食っとるやん」。ふりがなの欄にまで、丁寧に「くっとるやん」と書いた。

「字、汚すぎるだろ。……律、それ絶対書き直し」

 言ってから、気づいた。

 高瀬の手が、止まっていた。

「……今、名前で呼んだん?」
「呼んでない」
「呼んだやん。『律』て言うた」
「言ってない」
「言うたよなあ、マスター」

 カウンターの奥から、静かな声がした。

「……言った」
「ほら」
「客の会話を聞くな!」

 顔が熱い。認めるものか、と思ったが、高瀬――律は、もうにやにやが止まらなくなっていた。

「ええやん。コンビやし、名前で」
「うるさい」
「ほんなら俺も今日から遠慮なく呼ぶわ。まあ、初日から呼んどったけど」
「そうだよ。お前が先に距離感おかしかったんだよ」
「なあ湊。もう一回呼んで」
「絶対呼ばん」
「けちやなあ」

 こうして、コンビ「食っとるやん」が結成された。

 ついでに、なぜか呼び方まで決まってしまった。

 あとで思えば、これ以上の名前はなかった。





 帰り際、書き直した応募用紙を封筒に入れていると、マスターが伝票を置いた。

 それから、ぼそりと言った。

「……変な名前」
「コンビ名です」
「コンビ名やねん」

 声が重なった。マスターは何も言わずに、奥へ戻っていった。

 あの人が一日に二度も喋るところを、初めて見た。





 七月に入って、応募は無事に受理された。

 受理通知のはがきを、律はわざわざ写真に撮って送ってきた。

『初コンビ結成記念や』
『はがき一枚で大げさなんだよ』
『一生もんの記念やで』
『ホーム画面にするなよ』
『それは思いつかんかったわ』

 思いつかせてしまった気がする。

 また一生もんと言っている。

 つっこみかけて、やめた。画面の中のはがきには、たしかに「食っとるやん様」と印字されていた。……「様」って。エビフライの会話に様がついている。

 ……消すのも違う気がして、写真はそのままにした。理由を聞かれても困る。誰も聞いていないが。


 終業式の日、昇降口で律が言った。

「湊、夏休みって暇なん?」
「……誰かさんとネタ合わせの予定が、山ほど入っとるんだわ」
「誰なんやろなあ、それ」
「さあな」
「ほな予定組もか。ネタ合わせは午前な。アンモナイトのモーニングついでや」
「本拠地だからな」
「あと、たまには外でネタ探しもしよ。大須とか栄とか、俺まだ全然回れてへんし」
「観光したいだけだろ」
「ネタ探しやて。半分は」
「半分は認めるのかよ」

 七月の日差しの下、二人分の影を並べて校門を出た。

 隣で律が「食っとるやん、始動やなあ」と、うれしそうに名前を口の中で転がした。

 悪くない。悪くないと思ってしまっている時点で、もう手遅れだった。

 予選まで、あと三か月。

 夏の予定が、生まれて初めて埋まった。