毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 体育館は、記憶の中より明るかった。

 袖から客席をのぞくと、床いっぱいに生徒が座っている。前の出番のダンス同好会に、手拍子と歓声が飛んでいる。

 最前列の端には、クラスの連中がまとまって座っているのが見えた。真野が、気の早い拍手の構えをしている。ありがたいような、胃に悪いような応援だった。

 通りかかった日比野が「おう」とだけ言って、親指を立てて去っていった。教師の激励は、それで全部だった。

 出演順はくじ引きで決まって、二人は五組中の三番目だった。

 湊の手のひらの汗は、さっきから引く気配がない。

 三年前のあの日と、同じ形をした場所だった。板張りの床。高い天井。視線の海。

 喉の奥が細くなっていく感覚に、覚えがありすぎた。

「湊。俺のネクタイ、曲がっとる?」
「……制服にネクタイないだろ」
「ほな安心や」
「何がだよ」

 思わず返した拍子に、喉の細さがどこかへ行った。

 この男は本番の直前でも、これだ。

「――続いては、二年三組。水野湊くん、高瀬律くんによる漫才です」

 アナウンスと拍手。

 高瀬が先に、明るいほうへ歩き出した。





 照明は、思ったより熱かった。

 センターマイクまでの数歩が、砂浜を歩くみたいに重い。

 客席の顔が、全部こっちを向いている。何百という目。膝の裏が冷たい。

 マイクの高さを直す高瀬の手つきだけが、隣で妙に落ち着いていた。

「どうもー。二年三組から来ました」
「来ましたって……俺らの教室、この裏だけどな」
「めっちゃ近所から来ました」
「近所どころじゃないんだよ」

 声が上ずった。自分でも分かるくらい、はっきりと。

「四月に大阪から転校してきました。名古屋のことは、もうばっちり勉強済みです」
「嘘つけ。こいつの名古屋知識、全部間違っとるんで、今日は俺が正していきます」
「まず、名古屋人はだいたい味噌でできとんねん」
「人体の話をするな」

 笑いは、起きた。起きたが、ぱらぱらと乾いていた。

 返しが半拍遅れている。自分で分かる。マイクの前の自分の声に、あの日の体育館の音が薄く重なっていく。

 客席の中ほどで、服部がスマホを構えているのが見えた。よりによって録るのか、これを。

 ――やっぱり、駄目かもしれない。

 そう思った、そのときだった。

 高瀬が、ふっと流れを外れた。

「……あ、そや。皆さんすんません、こいつ今めっちゃ緊張してます」
「言うな!」

 反射だった。考えるより先に、声が出ていた。

 続けて、もうひとつ勝手に出た。

「……言うなて!」

 どっ、と笑いが来た。

 台本のどこにもない、ずっと隠してきた語尾が、ここまでで一番ウケた。

「いや、さっきから声、二トーンぐらい高いで」
「お前のせいだわ! 誰のために緊張しとると思っとるの!」
「俺のため?」
「違う!」

 また笑いが来た。

 そこで、気づいた。マイクとの距離が、いつの間にか普通になっている。

 目の前にいるのは客じゃなくて、いつもの、憎たらしい顔だった。





 そこからは、いつもの二人だった。

「気ぃ取り直していきますけど。俺、四月に大阪から転校してきて二か月、名古屋のことをずっと観察しとったんです」
「取り調べの成果を発表するな」
「ほんで、ひとつ分かったことがあります。名古屋はね、町ぜんぶが『言わんでも分かるやろ』でできとる」
「何だそれ」
「まず食卓や。名古屋の家、何も言わんでも味噌が出てくる」
「味噌汁はどこの家も出るだろ」
「赤いやん」
「うちのは赤いんだわ」
「朝から赤味噌、昼は味噌カツ、夜は味噌煮込み。誰も『今日は味噌にする?』て聞かへんのやで。聞かんでも味噌や」
「……言われてみれば、聞かれたことはないな」
「ほな聞くけど、昨日の晩メシ何やった?」
「…………味噌煮込み」
「食っとるやん!」

 最前列が、まとめてひっくり返った。笑い出したのは、四月のあの昼休みを知っている顔ぶれからだった。笑いが、そこから後ろの列へ広がっていく。

 ――ああ、これだ。

 昼休みの教室が、そのまま何百倍にもなって返ってくる。客席の一番後ろまで、自分の声が届いているのが分かる。

「次、駅や。名駅な。俺、最初読まれへんかってん」
「めいえき、な」
「初見で読めるかいな。正式名称でもない通称を、地図に堂々と書くな」
「言わなくても分かるんだわ、こっちは」
「それや! その顔や! 『言わんでも分かるやろ』の圧、転校生には効くんやで」
「圧をかけた覚えはないんだよ」
「ほんでその名駅に、でっかい人形おるやん」
「ナナちゃんな」
「初めて見た転校生、腰抜かすで。何の説明もなしにあのサイズや。あれ、何の神様なん?」
「神様じゃない。デパートのマネキンなんだわ」
「マネキンであのサイズはおかしいて。あれ絶対、夜歩いとるで」
「歩いとらんわ」
「服、ちょいちょい替わっとるもん」
「あれは人が替えとるんだわ。……お前、名古屋を何だと思っとるの」
「ほんで名古屋の人、誰もあの人形の説明をしてくれへんのに、『ナナちゃんの下で』だけで何百人も待ち合わせしとる。言わんでも分かる町や」
「目立つから楽なんだわ」
「あの人形もな、ほんまは朝になったら、モーニング食べに帰っとるんちゃうか?」

 ――ぱらぱら、と乾いた音がした。

 ボケが半歩、遠くへ行きすぎたらしい。

「……今のは忘れてください」
「客に指示を出すな」

 笑いが、戻ってきた。

 拾えた。拾えたことに、自分がいちばん驚いていた。

 舞台の上でだけは、方言が武器になった。

 「歩いとらんわ」で笑いが起き、「替えとるんだわ」でまた起きる。変な気分だった。――嫌いじゃない側の、変な気分だった。

「ほんで今、人形の話でも出ましたけど、モーニング。あれ何なん? コーヒー頼んだだけやのに、トーストとゆで卵が黙って付いてくるんやで」
「ええ文化だろ」
「『お付けしますか?』のひと言もないねんで。無言や。無言で愛だけ出てくる」
「言わなくても分かるからな」
「ほな誰が、あのトースト代払っとるん?」
「……店の愛だわ」
「愛で経営すな!」

 高瀬が声を裏返して、体育館が沸いた。

「ほんまにあるんですよ、そういう店。この学校の近くにも――」
「おい、店の場所は言うな。常連が増えたら俺らの席がなくなるだろ」
「独占欲!」

 自分の口から、考えるより先に返しが出ている。それが少しも怖くなかった。

 客席の波は、もう途切れなかった。声がまっすぐ飛ぶ。照明の熱が、気持ちよかった。

「ほんでですよ、お客さん。ここまで全部、前フリです」
「長いんだよ、前フリが」
「うちの相方も、生粋の名古屋人なんです」
「急に何だよ」
「こいつも全っ然、言葉にしてくれへん。この前、ネタ合わせのあとに『今日の俺のボケ、どうやった?』て聞いたんですよ。何て言うた思います? 『悪くなかった』」
「褒めとるんだわ」
「ほら出た! 名古屋の最上級、『悪くなかった』! 翻訳したら『世界一おもろい』らしいです」
「そこまでは言ってないんだよな」
「ほな今ここで、自分の口で言うてみ。世界一おもろいて」
「…………悪くなかった」
「言わんのかい! 言わんでも分かるやろの町で育つと、こうなります!」
「まあ、伝わっとるからいいんだわ」
「俺が翻訳しとるからやろ! ……でもまあ、なんやかんや、名古屋ええとこやなて思い始めとるで」
「急に素直かよ」
「言わんでも味噌が出てきて、言わんでもトーストが付いてくる町やで。卒業したら、骨うずめよかな」
「骨の話が軽いんだよ」
「ほな最後に、ひとつだけ確認させてや」
「何だよ」
「エビフライ、今日も食うん?」
「食わんわ! ……いや、今日は知らん。夕飯まだ聞いとらん」
「ほな聞いとき! どうもありがとうございましたー!」

 頭を下げた。

 拍手と笑い声が、上からじゃなく、正面から降ってきた。

 三分ちょっとの出番だった。体感では、三十秒だった。





 袖にはける数歩の間に、湊は気づいてしまった。

 この笑い声は、あの日の笑い声と同じ場所で鳴っている。同じ体育館。同じ天井。

 なのに、まるで別の音がする。

 あのときの笑いは、上から落ちてきた。

 今日の笑いは――自分たちが、起こした。

 笑われたんじゃない。

 笑わせたんだ。


 袖に入ったとたん、膝から力が抜けた。

「湊、ナイスやった」

 差し出された拳に、こっちのを合わせる。

 そこで、気づいた。

 高瀬の手が、震えていた。

「……お前も緊張しとったんか?」
「当たり前やろ。初舞台やで」
「全然見えなかったんだが」
「見せへんかったんや」

 こともなげに言って、高瀬は笑った。

 よく見れば、額にも汗が浮いていた。

 この男は無敵なんだと、どこかで思い込んでいた。

 違った。こいつは怖くても、隣の人間に怖さを見せないだけだ。

 それは強さというより――癖みたいな、優しさだ。

 じゃあ、袖での「ネクタイ曲がっとる?」は。舞台の上で、あの流れを外れたひと言を挟んだのは。

 考えかけたところで、次の出演者の音楽が鳴って、思考はそこで途切れた。





 文化祭が終わって三日後、昼の放送が結果を読み上げた。

「ステージ企画人気投票、第一位――二年三組、水野くん・高瀬くんの漫才!」

 教室が沸いた。口笛と、机をたたく音。高瀬は立ち上がって芸能人みたいに手を振り、湊は突っ伏した。二位のダンス同好会に、五十票差をつけていたらしい。

 放課後には、日比野が教室の前を通りがかりに、ひと言だけ置いていった。

「見たぞ。……悪くなかった」
「先生、それ褒めてます?」
「褒めとる」

 舞台でネタにした側から、名古屋の最上級が来た。この町、本当にこれだ。

 真野には「ね、言ったとおりでしょ」と勝ち誇られた。「漫才やれば?」を最初に言ったのが誰だったかを思えば、たしかに彼女の手柄ではあった。悔しいので言わないが。

 「たこ焼き三組」のほうも、二日目の昼で完売していた。宇宙だこの看板は、なぜか写真スポットになっていた。

「なあなあ、俺の撮った動画、クラスのグループで回りまくっとるぞ。見る?」
「見ない」
「もったいな。お前、途中からめちゃくちゃいい顔しとるのに」

 服部はにやにやしながらスマホを振った。絶対に見ない、と湊は決めた。


 その帰り道。六月の夕方はまだ明るくて、祭りのあとの通学路は、どこか気が抜けていた。二人の歩幅も、いつもよりゆっくりだった。

「なんか、終わってもうたなあ」
「お前が言うと、本気で寂しそうに聞こえるな」
「寂しいもん。俺、あの三分のためやったら、あと十回ぐらい練習してもええと思とった」
「十回どころじゃなかっただろ、実際」
「せやったっけ」
「五十回はやった」
「数えとったん?」
「数えられる程度には付き合わされたんだわ」
「あとあれな、地下鉄バナナのくだり、結局言われへんかったわ」
「尺で切っただろ。三分に全部は入らないんだよ」
「せやねん。言いたいこと、まだ半分も残っとる」

 だから大会、と続くのかと思ったら、高瀬はそこで一回、話を切った。

 いつもの角の少し手前で、高瀬が足を止めた。

「なあ、湊」
「何」
「大会、出えへん?」

 来た、と思った。

 断る言葉なら、いくらでも知っていた。「一回だけ」の約束だって、まだ生きている。生きては、いる。

 なのに、口が動かなかった。

「…………考えとく」
「おう。考えとき」

 高瀬はあっさり笑って、駅のほうへ歩いていった。

 押してこないのが、逆にずるい。

 角を曲がって坂を上りながら、湊は「一回だけ」と言った日の自分に、心の中で謝った。

 すまん。あれは、たぶん嘘になる。





 その夜、ベッドでスマホを開くと、服部の動画がクラスのグループに流れてきていた。再生はしない。しないが――消えてほしくない、とは思った。

 それから湊は天井を見ながら、誰にともなく白状した。

 もう、出たくなっている。

 あの照明の熱と、客席の波と、隣の男の「ナイスやった」を、もう一回。

 ……誰のせいだ。