毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 土曜の朝八時、湊は本当に喫茶アンモナイトの前に立たされていた。

 約束の五分前に着いたのに、高瀬はもう店の前にいた。私服は、思ったより普通だった。それがやたら普通で、逆に調子が狂った。

「なんで俺まで」
「検証には立会人が要るやろ」

 扉の鈴は、二度目にはもうなじみの音がした。マスターが無言でおしぼりを二つ置く。常連みたいな顔で、高瀬は窓際の席に座った。

「ブレンド二つ。モーニングで」

 運ばれてきたのは、コーヒーと、厚切りのトーストと、殻つきのゆで卵だった。伝票の数字は、二人分でも六百円だった。

「……ほんまに付いてきた」
「だから言っただろ」
「三百円て。原価どうなっとん」

 高瀬はトーストとコーヒーを何度も見比べて、それから腹をくくった顔でカウンターへ身を乗り出した。

「なあマスター。これ、どうやって儲け出とるん?」

 マスターは少し考えて、言った。

「……常連」
「…………深いわ」
「――いや、深ない。経営の答えになってへんて」

 自分で聞いておいて自分でつっこみ、高瀬はトーストをかじった。かじって、黙った。

「……うまいやん。厚み、大阪の倍あるで」
「勝ったな」
「何にや」

 カウンターの端では、常連らしいじいさんが競馬新聞を広げていた。古いジャズと、サイフォンの音と、紙をめくる音。この店の朝は、時間の流れ方がゆるい。

「なあ、決めたわ」
「何を」
「ネタ合わせの本拠地、ここにする」
「勝手に決めるな。……まあ、ええけど」
「今、名古屋出たな」
「出とらん」

 例の法則ごっこも、いつの間にかお約束になりつつあった。

 肝心の作戦会議はといえば、ネタ帳の一ページ目に「漫才」と書いて、その下に高瀬が下手なたこを描いて、終わった。

 本番まで、二週間を切っていた。





 週が明けて、放課後の旧視聴覚室が二人の練習場になった。文化祭実行委員に頼みこんで借りた、ほこりっぽい空き教室だ。

 湊は前の晩、三時間かけて台本を書いた。つかみがあって、フリがあって、オチがある。構成としては申し分ない。……と、書いた本人は思っていた。

 読み合わせが始まった。

「いやー、名古屋に来てもう二か月です」
「早いもんだね」
「名古屋といえば、やっぱり味噌ですかね」
「そうだね。名古屋の人は味噌が大好きなんだ」
「みそかつ、みそおでん、みそにこみ。名古屋はまさに味噌のワンダーランドですね」
「あはは。そうだね」

 ……誰だ、お前ら。

 死んだ。

 空気死んだわ。

 旧視聴覚室が、通夜になった。

「なあ、これ誰と誰の会話なん?」
「俺とお前だよ」
「俺、『ですかね』とか言わへんで」
「台本ってそういうもんだろ」
「ほな台本が間違っとる」
「じゃあお前が書けよ」
「書かれへんねん」

 高瀬が、本気で悔しそうな顔をした。初めて見る顔だった。

「頭ん中ではおもろいのに、字にした瞬間おもんななるねん。なんでやろな」
「知らんがな」

 言ってから、あれ、と思った。「知らんがな」は、あいつの側の言葉だ。……移っている。

 いや、今はそれどころじゃない。とにかく、詰んでいた。

 その日の帰り、二人とも無口だった。「いつもの角」までの十五分がこんなに長いのは、初めてのことだった。

 本番までの日数だけが、静かに減っていった。





 何日たっても、練習は惨敗続きだった。

 その日も、夕方の旧視聴覚室まで、グラウンドの野球部の声が遠く届いていた。湊は台本を机に置いて、しばらく黙った。

「……なあ。やっぱり無理だって、これ」
「何が無理なん?」
「俺が舞台に立ったら、ウケるんじゃなくて笑われるんだって」

 言ってしまってから、あとには引けなくなった。

 だから、全部話した。


 中二の文化祭。クラス発表の司会。

 原稿は完璧に覚えていた。前の日、風呂の中でも全部言えた。

 なのに、体育館のマイクの前で、最初のひと言が出てこなかった。

 三十秒。たぶん、たった三十秒だ。

 でも体育館の三十秒は、教室の三十分より長い。

 誰かが笑った。つられて、波みたいに広がった。気まずさをごまかすための、ただの笑いだ。今なら分かる。

 でも十四歳には、世界が終わる音に聞こえた。

 次の日から、しばらく「マイク」といういじられ方をした。ひどいいじめじゃない。ただ、その軽さが、逆に長く効いた。

 幼なじみが最前列にいた。近藤茜。あいつだけ笑わなかった。笑わないで、泣きそうな顔でこっちを見ていた。

 それが一番、惨めだった。

 それから、人前は駄目だ。視線が集まると、あの日の体育館に引き戻される。

「……だから、ホームルームで真野に『漫才やれば』って言われたとき、あんな言い方になった」


 高瀬は、長いこと黙っていた。

 茶化さなかった。「大丈夫や」とも言わなかった。かわいそうなものを見る顔も、しなかった。

「……そっか」

 それだけ言って、少しだけ窓の外を見て、それから、いつものトーンで言った。

「俺はお前と喋っとるだけでおもろい」
「……慰めか?」
「事実や」

 即答だった。

 顔が見られなくて、湊は台本の端を折ったり、戻したりした。

「せやから舞台でも、頑張らんでええ。いつものやつを、いつもどおりやったらええだけや」
「いつものやつって何だよ」
「……それが分かったら苦労せえへんなあ」

 結局その日も、答えは出なかった。

 ただ、話したことを後悔はしなかった。





 転機は、翌日の昼休みに来た。

 教室は半分空で、残っているのは弁当組と、廊下を行き来する文化祭実行委員ぐらいだった。いつもの逆向きの椅子で購買のパンをかじりながら、高瀬がふいに口を開いた。

「なあ、確認なんやけど。湊んちの味噌汁って、赤いんやろ?」
「赤いけど」
「やっぱりな」
「やっぱりなじゃねえよ。なんだよその、答え合わせみたいな顔」
「大阪おった頃な、名古屋の味噌汁は赤いて聞いて、都市伝説やと思とってん」
「実在するんだわ」
「初めて見たとき、ちょっと怖かったで。汁が、黒に近い」
「見た目で判断するな。うまいんだよ」
「あともう一個聞きたいんやけど。冷蔵庫に味噌だれのチューブあるって、ほんま?」
「あるけど」
「何にかけるん?」
「なんでも」
「なんでもて」
「カツ、おでん、こんにゃく、豆腐――」
「待って待って、豆腐はもう味噌田楽やん! 名古屋、味噌の判断が全部雑!」
「雑じゃない。伝統だわ」
「あんこもそうやで。名古屋、あんこと味噌に自由すぎんねん」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてへん!」

 ――そのとき、ドアのところで爆笑が起きた。

 振り返ると、飾りつけの材料を取りに来たらしい実行委員の女子が二人、腹を抱えていた。

「ご、ごめん、続けて」
「今の、漫才の練習?」
「違う」
「ちゃうで」

 声がそろった。それがまたウケた。

 女子たちが材料を抱えて出ていったあとも、高瀬はしばらくドアのほうを見ていた。

 それから、ゆっくりこっちを向いた。

「湊。今の、そのまんまやったらええやん」
「……今の?」
「台本、捨てよ。流れだけ決めて、あとはいつもの口げんかや」

 高瀬はネタ帳を引き寄せて、新しいページを開いた。

「テーマはあれや。『大阪から来た男が、名古屋を全部勘違いしとる』」
「実話じゃねえか」
「実話が一番強いねん」

 その日、ネタ帳は初めて先へ進んだ。

 味噌。地下鉄。名駅とナナちゃん人形。喫茶店のモーニング。エビフライ。

「ナナちゃん人形の、あの若干怖い感じいけるで」
「若干じゃないだろ。夜見たらだいぶ怖いんだわ」
「それや。今のをそのまま言え」
「地下鉄は何かあるのか?」
「黄色いやん」
「それだけかよ」
「第一印象は大事やで。俺、初めて見たときバナナかと思たもん」
「本番で言ったら誰か怒るだろ」
「言うで」
「言うのかよ」
「あとモーニングは絶対入れよな。俺、あれいまだに納得してへんもん」
「検証までしといてかよ」
「うまかったことと、経営が謎なことは別問題や」

 書くのは湊、喋って試すのは高瀬。気づけば役割も決まっていた。ノートの字は九割が湊で、余白は、たこか宇宙人か判別のつかない高瀬の落書きで埋まっていった。

 台本を捨てたら、書けるようになった。





 あっという間に、前日の夜になった。

 ベッドの中で、湊は天井を見上げていた。目を閉じても、体育館のマイクばかり浮かぶ。

 スマホが光った。

『はよ寝とき』
『寝れるか』
『明日、客おもろかったら見ろ。おもんなかったら俺だけ見とき』

 画面を、しばらく見つめた。

『……分かった』

 素直に返せたのは、画面越しだったからだ。

『あと、当日の朝は米食っとき。腹が据わる』
『根拠は』
『ない』
『ないのかよ』

 それきり、しばらく返事は来なかった。代わりに、下手なたこの手描き画像が一枚だけ送られてきた。

 ……なんで少し、笑ってしまったんだろう。





 当日の朝が来た。

 体育館の裏、出番待ちの列。湊は意味もなく制服の襟を直した。

 幕の向こうから、客席のざわめきが聞こえる。

 心臓の音のほうが、ずっとうるさかった。